テラーノベル
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最終話。適当。なんでも許せる人向け。
太宰家が消滅し、帝都を騒がせた「無効化異能を巡る動乱」から数年の月日が流れた。 帝都の空は、あの日と変わらず高く、青い。だが、その空を見上げる太宰治の瞳には、かつての凍てついた絶望は微塵も残っていなかった。
中原家の別邸。海を一望できる白亜のテラスで、太宰は一冊の本を手に、穏やかな風に髪を揺らしていた。 彼の纏う衣装は、かつての継ぎ接ぎだらけの着物でも、型落ちの制服でもない。中也が自ら選んだ、最高級のシルクと繊細な刺繍が施された、彼の白い肌によく映える特注の服だ。
「……治。またそんなところで、独りで本読んでんのか」
聞き慣れた、けれど何度聴いても心臓の奥が甘く疼く声。 太宰が振り返ると、そこには軍服を脱ぎ捨て、柔らかなシャツを纏った中原中也が立っていた。数年の月日は彼にさらなる精悍さと、そして治を愛し抜いてきたことで得た「慈愛」をその瞳に宿らせていた。
「……中也。おかえりなさい。今日は帰りが早いんだね」
太宰が微笑みながら立ち上がると、中也は当然のようにその腰を引き寄せ、彼の額に愛おしそうに唇を寄せた。 「ああ。……手前を独りにしておくと、またどっかの影に溶け込んじまいそうで、気が気じゃねぇんだよ」
「ふふ、もうどこへも行かないよ。……私の居場所は、ここしかないんだから」
太宰は中也の胸に顔を寄せた。 あの地獄の日々が、遠い前世のことのように感じられる。 太宰正治や信治たちは、中也が仕掛けた法的な、そして社会的な制裁により、今では帝都の最果てで、かつての治以下の生活を強いられていると聞く。だが、太宰にはもう、彼らを憎む気力さえ残っていなかった。 中也の愛があまりに巨大すぎて、憎しみという小さな感情が入る隙間など、どこにもなかったのだ。
「……中也。……覚えてる? あの日のこと」
「あの日? ……どの日だ。お前を初めて抱いた日か、それともお前が俺を『だいすき』って言って泣いた日か?」
中也の意地悪な問いに、太宰は顔を赤らめた。 「……違うよ。……あの地下室で、私の『秘密の標本』を中也に見せた日のこと」
太宰は、テラスのテーブルに置かれた一つの小さな箱を開けた。 そこには、あの地下室から中也が持ち出した「青いリボン」の入った瓶と、それから数年の間に増えた、新しい思い出の欠片たちが並んでいた。 中也と一緒に見た映画の半券、旅先で拾った貝殻、中也が初めて贈ってくれた指輪。
「……私の心は、ずっと、空っぽの瓶だと思ってた」 太宰は瓶を手に取り、透かして見た。 「……誰にも愛されず、何も持たず、ただ冷たい風が通り過ぎるだけの、壊れた瓶。……でも、中也がその中に、たくさんの光を詰め込んでくれた」
太宰は中也の手をとり、自分の胸に当てた。 「……今の私は、もう歪んでいないかな?」
中也は、太宰の手をぎゅっと握りしめると、彼の指一本一本を噛み締めるように愛撫した。 「……馬鹿言え。……お前は、まだ歪んでるよ。……俺がいなきゃ呼吸もままならねぇほど、俺の愛に依存して、俺の重力なしじゃ立ってられねぇ。……それこそが、最高に美しいお前の『歪み』だ」
中也は太宰を抱き上げ、テラスの寝椅子に腰を下ろした。 太宰の細い身体を自分の膝の上に乗せ、逃げられないように、けれど壊さないように、全身で抱きしめる。
「……治。……俺は、お前を救ったつもりはねぇ」 中也の声が、太宰の項(うなじ)に熱くかかる。 「……俺は、俺のために、お前を奪ったんだ。……お前のその、誰にも見せたくねぇ絶望も、寂しさも、全部俺のものにしたかった。……俺はお前を愛することで、俺自身の欠けていた部分を埋めてるんだよ」
帝都最強と謳われ、万能の異能を持つ中原中也。 彼もまた、その力ゆえに理解者を欠き、高い場所で孤独に立ち続けていた。 太宰治という「虚無」を見つけた時、中也は初めて、自分の「重力」が、誰かを守るために、誰かを繋ぎ止めるために存在しているのだと知ったのだ。
「……中也。……私を、もっと強くして」 太宰は中也の首に腕を回し、誘うように瞳を潤ませた。 「……あなたの愛で、私の輪郭が消えてしまうくらい……溶かして、中也」
「……言われなくても、そうしてやる」
中也の唇が、太宰の唇を貪欲に奪った。 深く、熱く、魂の最深部までを混ぜ合わせるような口付け。 太宰の「無効化」の異能は、中也の愛を打ち消すことはできない。むしろ、中也の熱にあてられ、太宰の心はさらなる「受容」へと開いていく。
周囲の重力が、中也の昂ぶりに呼応して、ゆっくりと歪み始めた。 テラスに置かれた花瓶が浮き上がり、二人の周りを、まるで守護する惑星のように回り始める。 時間の流れさえも遅滞させるような、圧倒的な愛の密度。
「……だいすき、中也。……世界で一番、愛してる」
「ああ。……俺もお前以外、何もいらねぇ」
二人の言葉は、重力によって一つに溶け合い、空へと昇っていった。 それは、かつて呪われていた少年が、自分という存在を肯定し、愛を受け入れた「聖なる瞬き」だった。
夕暮れが訪れ、帝都に明かりが灯り始める。 中也は眠りについた太宰の寝顔を見つめながら、かつて自分が拾ったあの『異能理論』の本を、再び手に取った。 そこには、治の文字で、最後にこう書き加えられていた。
『――異能の本質は、破壊ではない。 それは、欠けた魂同士が、惹かれ合い、補完し合うための引力である。 私の世界は、彼という名の引力によって、ようやく正しい形を成した。』
中也は、その一文に優しく指を触れると、満足そうに本を閉じた。
「……引力、か。……悪くねぇな」
中也は太宰を抱き直し、寝室へと運んでいった。 そこには、誰にも邪魔されない、二人だけの永劫の夜が待っている。 明日が来ても、十年が経っても、百年が過ぎても。 中原中也の重力は、太宰治という唯一の宝を、決して手放すことはないだろう。
歪んだ少年は、愛を知ることで、世界で最も気高い「宝石」へと生まれ変わった。 そして、その宝石に相応しい箱は、帝都最強の男の腕の中、ただ一つだけだったのだ。
太宰が最後に見た夢は、あの冷たい帝都の冬の風ではなく、中也の匂いがする、どこまでも温かな陽だまりの景色だった。
そこに、絶望はもう、一欠片も残っていなかった。
_epilogue_
数十年後。 歴史書には、帝都の英雄・中原中也の傍らに、常に寄り添い、その「暴走」を静かに鎮め続けた、一人の美しい賢者の名が記されることになる。 その名は、太宰治。 かつて没落した名家の「呪われた子」と呼ばれた少年は、今や、最強の男を唯一操ることのできる「重力の女王」として、後世に語り継がれていった。
二人の愛は、重力のように。 目には見えず、けれど決して抗えない、絶対的な法則として、帝都の歴史に深く、深く刻まれたのである。
「(……歪んだ私は、)」 「(……あなたの愛と重力に、)」 「(……永遠に、溶かされる。)」
二人の声が重なり、物語は静かに、けれど幸福な残響を残して、幕を閉じた。