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『推しが、俺の上司になりました』~m×s~
Side佐久間
俺が初めて「好き」という気持ちをはっきりと自覚したのは、たぶん幼稚園の年長から小学校に上がるくらいの頃だったと思う。
当時の俺はテレビが大好きで、夕方のアニメよりも先に楽しみにしていたのが、アイドルの歌番組やバラエティだった。画面の向こうで歌って踊る男の子たち――きらきらした衣装をまとい、無邪気に笑いながら振り付けを決めるその姿に、胸が熱くなるのを感じていた。
同い年の友達が「戦隊ヒーローかっこいい!」と夢中になっているとき、俺はそのアイドルグループの一番背の高いお兄さんが画面に映るたびに心臓が早鐘を打っていた。
彼らがスポットライトの下で歌うたび、なぜか胸の奥がぎゅっと締めつけられて、同時にふわっとあたたかくなる。名前を呼んで応援したい気持ちでいっぱいになった。まだ恋という言葉を知らない子どもだったけど、あれが確かに最初の「好き」だったんだと思う。
そのことを、俺はある日の放課後、近所の子供たちとの遊びの中で何気なく口にしてしまった。
「俺、テレビに出てる○○くんが好きなんだ。めちゃくちゃかっこいいんだよ」
何の悪気もなく、ただ単純に心の中をそのまま言葉にしただけだった。子供の無邪気さで、秘密にする理由なんて一つもないと本気で思っていた。
ところが、その言葉を聞いた瞬間、周りの子たちの空気が変わった。
一拍の沈黙のあと、誰かが大きな声で言った。
「え〜! なんで男の子好きなの? 変だよ!」
その声に呼応するように、ほかの子たちも次々に口を開く。
「普通女の子のアイドル好きになるでしょ!」
「おかしいって! 気持ち悪い〜!」
笑い混じりの声、からかいの視線。幼い俺にとって、それは理解できない嵐のように一気に押し寄せてきた。
「違うよ」と言い返したかったのに、喉が詰まって声が出ない。
笑い声が耳に突き刺さって、顔が熱くなっていく。目の奥がじんわり熱を帯び、涙が今にもこぼれそうになった。
俺はただ「好き」と言っただけだ。自分の心がときめいたことを、そのまま口にしただけなのに。
どうしてみんな、そんなに笑うんだろう。
なんで俺だけがおかしいみたいに言われるんだろう。
小さな俺は混乱したまま、必死に涙をこらえて笑おうとした。
「そんなんじゃないよ、ただ歌が好きなだけだよ」
言い訳のように吐き出した声は震えていた。周りの子たちは「ふ〜ん」と曖昧に流したけれど、そのときの視線の鋭さと、あざ笑うような響きは、俺の胸の奥に深く突き刺さったままだった。
その夜、家に帰ってからも気持ちは重かった。
夕飯を食べながらも、ふと耳に残るのは「変だよ」というあの言葉。
ベッドに入って目を閉じると、友達の笑顔がからかうように浮かんできて、胸が痛くなった。
「……やっぱり、俺がおかしいのかな」
小さな声でつぶやきながら、布団の中で丸まった。
テレビに映るアイドルは相変わらずきらきら輝いていて、その姿を見ると心が温かくなる。だけど、もう「好き」とは言えなくなった。
言えばまた笑われる。否定される。自分が自分でいられなくなる。
俺はその日から、「俺は男の子が好き」という気持ちを心の奥に押し込めるようになった。
誰にも知られないように。
誰にもバレないように。
笑われないように。
――それが、俺の「秘密」の始まりだった。
俺はずっと「男の人が好き」ということを胸の奥深くに押し込めて生きてきた。
小さな頃に浴びたあの言葉――「変だよ」という一言は、子供の心にとってあまりに鋭すぎた。まるで世界そのものから「お前は間違ってる」と烙印を押されたようで、俺は二度とその秘密を口にしないと決めた。
思春期を迎えても、その決意は揺るがなかった。むしろ年を重ねるごとに、秘密は重みを増していった。周りの友達が「誰々がかわいい」「あの子と付き合いたい」と女子の話をしはじめると、俺も当たり前のように合わせて笑った。
「そうだね、あの子可愛いね」
「ちょっと気になるかも」
そんな言葉を繰り返すたび、心の奥にいる「本当の俺」は少しずつ沈黙していった。
高校に入る頃には、俺はもう器用に嘘をつけるようになっていた。友達が「好きな子いる?」と聞けば、「まあね」と曖昧に答え、女子と並んで歩けばそれだけで「やっぱり大介も普通だね」と周囲が安心するのを感じた。俺はそれに逆らわなかった。逆らえなかった。
もちろん、心が動かないわけじゃない。
すれ違った同級生の男子が汗を拭う仕草にドキッとしたり、部活の先輩が笑った横顔を何度も思い出してしまったり。そういう瞬間は確かにあった。けれど、その気持ちを外に出す勇気はなかった。出せばきっと、またあのときのように「変」と笑われる。あの痛みを繰り返すくらいなら、誰にも言わず飲み込んでしまった方が楽だ。そう思い込むしかなかった。
だから俺は、あえて女性と付き合ってみたこともあった。
大学に入ってから、合コンで出会った子と連絡先を交換し、何度か食事に行った。彼女は明るくて話しやすく、俺に好意を寄せてくれていたのも分かった。だから「俺も好きだよ」と言ってみた。
でもその言葉は、自分の口から出た瞬間に空っぽだと分かった。好きという感情が、胸の奥から自然に湧き出るものではなく、「こう言わなきゃ」という義務のようにしか感じられなかった。
一緒に過ごしても、会話の内容は頭に入らず、彼女の仕草にときめくこともなかった。手を繋いでも、抱きしめても、そこに熱は宿らなかった。
「なんか……違うんだ」
俺の心がそう呟くのに、無理やり耳を塞いだ。けれど、嘘は長続きしない。結局、いくつかの恋人未満の関係はすぐに終わった。
「ごめん、俺、やっぱりちゃんと好きになれない」
口にするたび、相手を傷つけていることも分かっていた。だからこそ余計に、俺は「普通」に恋愛することに疲れていった。
社会人になってからは、そんな試みすらやめた。
俺はただの会社員。朝起きて、電車に揺られて会社へ行き、上司の指示に従って仕事をこなす。ミスをすれば謝り、成果を出せば小さな評価がつく。夜になればコンビニ弁当を片手に帰宅し、テレビをぼんやり眺めて寝る。
そうやって「普通の人生」を歩むことは、確かに安全だった。誰からも責められず、怪しまれることもない。
けれど――味気なかった。
どれだけ日常を積み重ねても、心の奥は満たされない。子供の頃に封じ込めた「本当の自分」が、ずっと窮屈そうに息を潜めているのを感じる。
周りの同僚たちが結婚や恋愛の話をするとき、俺は笑顔で相槌を打ちながら、心の中でひとり取り残されていくようだった。
そんな中で出会ったのが――地下アイドルだった。
ある週末、同僚に誘われて行ったライブハウス。普段なら絶対に行かないような雑居ビルの地下、狭いステージと立ち見の観客。最初は場違いな空気に戸惑っていた俺だけど、ステージにひとり現れた男を見た瞬間、息が止まった。
スポットライトに照らされたその人は、背が高く、鋭い目つきをしているのに、笑った顔はどこか無邪気で。歌声はまっすぐ心に届き、ダンスはぎこちないのに誠実さがあった。
その姿に、俺は胸を撃ち抜かれた。
「……やばい」
心臓が暴れ出す。視線を逸らしたくても逸らせない。
歌うたび、踊るたび、その人の存在が俺の世界を鮮やかに塗り替えていくのを感じた。
ライブが終わる頃には、俺はもう完全に彼の虜になっていた。
地下アイドル――名も知られていない小さな世界で輝くその人を、俺は「推し」と呼ぶようになった。
その瞬間、俺の人生は変わった。
灰色だった毎日が、急に色を取り戻した。
平日は仕事に追われながらも、週末のライブのことを考えるだけで頑張れた。グッズを手に取ると胸が高鳴り、SNSで彼の名前を見つけるたびに笑顔になれた。
俺にとって推しは、生きる理由そのものになった。
「俺は、この人を見つけてしまったんだ」
そう呟いたとき、胸の奥にしまいこんでいた「本当の俺」が、少しだけ顔を出した気がした。
――― 地下アイドルの「めめ」。
本名も年齢も非公開、プロフィールは曖昧なことばかりで、唯一明らかになっているのは圧倒的な顔面偏差値、そして「めめ」という名前だけだった。
たったそれだけの情報で、俺は毎日が楽しくなった。
仕事でどれだけ理不尽なことを言われても、終電まで残業しても、金曜の夜にライブの予定が入っていると思うだけで全然違う。ライブハウスのあの狭くて熱気に満ちた空間に「めめ」が現れるのを想像すると、心臓が勝手に跳ね上がる。
――推しがいるって、こんなにすごいことなんだ。
俺はそのことを初めて知った。
それまで空虚で灰色だった人生が、一気に色を取り戻した。カレンダーにライブの日程を書き込み、給料日が近づけば「よし、グッズ買える」と思える。推し活というものは、こんなにも日常を支えてくれるのかと感動した。
俺の部屋は、気づけば「めめ」に染まっていった。
最初はちょっとしたブロマイド一枚だった。それが次にはTシャツ、ペンライト、アクリルスタンド……。イベントがあるたびに増えていき、気づけば本棚の一角どころか部屋全体を占拠し始めていた。
給料明細を見るたびに「俺、貯金しなくちゃいけないんじゃないかな?」と小さな罪悪感がよぎるけれど、気づいたらカートに「購入済み」の文字が並んでいる。
夜、ベッドに寝転びながらスマホで「めめ」の配信を観る。
コメント欄が流れる中で、俺も「めめ最高!」と打ち込む。すると彼が「コメントありがとー」と笑ってくれる。その笑顔に画面越しで何度やられたことか。
いや、正確に言えば彼が俺個人のコメントを読んだわけじゃない。でも、「ありがとう」と言ってくれただけで、まるで自分に向けられた気がして、俺は眠れなくなるほど嬉しくなった。
グッズを並べた棚の前に立ち、俺は腕を組んでしみじみ呟く。
「……俺、完全にオタクになっちゃったね」
鏡に映る自分の顔は、会社では絶対見せないような、緩みきった笑顔をしている。
会社の同僚に「最近なんか元気だね」と言われても、その理由はもちろん言えない。
「いやあ、まあ、趣味ができたんだよ」なんて曖昧に答えるけど、本当はただ「めめ」を推しているだけだ。
――推しがいるだけで、人はここまで生きやすくなるんだね。
俺はすっかり「めめ依存症」になっていた。
ある日曜日、俺は朝から全力だった。
今日は「めめ」の新しいグッズ発売日。オンラインストアの販売開始時間に合わせて、パソコンの前に正座していた。
「よし……あと5分……」
心臓がバクバク鳴る。画面をリロードする指はもう震えていた。
カウントダウンがゼロになると同時に、俺は猛スピードでマウスをクリックした。
「カートに追加!」
「決済!」
「あああ! エラー出るなよ!」
画面にエラーが出るたびに絶叫し、部屋の中をのたうち回る。まるで命がけの戦い。
ようやく注文完了の画面が表示された瞬間、俺はガッツポーズを決めた。
「よっしゃあああああ!!」
誰も見てない部屋の中で、雄叫びを上げて飛び跳ねる。
その様子をもし同僚が見たら「大介、頭おかしくなった?」と言うだろう。でも、この瞬間だけは、俺にとって世界で一番大事な勝利なのだ。
届いたグッズを開封するときも、俺は儀式のように慎重だった。
ビニールを破る音すら神聖に聞こえる。新品のブロマイドを手に取った瞬間、そこに映るめめの笑顔に「はぁぁぁ……」とため息をつく。
「めめ……なんでこんなにかっこいいんだろう……」
思わず撫でたくなるけど、指紋がつくのが嫌で、結局そっとスリーブに入れて飾る。俺の部屋は完全に美術館状態だった。
なんてことがあったとしてももちろん、会社ではそんな姿は一切見せない。
スーツを着て、真面目な顔で会議に出る。資料を作り、上司に報告する。
でも心の中では常に「今週末のライブ……」「グッズの発送は明日か……」と別のことを考えている。
電話口で取引先に謝罪しながら、脳内では「めめの笑顔最高だったなあ」とリプレイ映像が流れている。
同僚が「今度合コン行こうぜ」と誘ってきても、俺はやんわり断る。
「ごめん、ちょっと予定あって」
その予定とはもちろん「ライブ」。誰にも言えない俺だけの最優先事項。
休日、会場に向かう道すがら、俺は心が軽かった。
「俺、こんなに楽しみなことがあるんだね」
子供の頃は「好き」と言うだけで笑われた。でも今は違う。
ここでは「好き」と叫ぶ仲間がたくさんいる。サイリウムを振り、声を張り上げ、「めめ最高!」と叫ぶ人たちと一緒にいるだけで、俺は孤独から解放された気がした。
そして――
こうして俺は、完全に「めめ」に溺れていった。
彼がステージに立つたびに、俺は心を奪われる。
グッズを並べ、ライブに通い、配信を追いかける。
――俺の人生は「めめ」を中心に回り始めていた。
それは、子供の頃に傷ついて以来ずっと閉ざしていた心を、初めて「好き」と堂々と言える場所が見つかったからかもしれない。
もちろん世間には隠している。職場の人には絶対言わない。俺がゲイであることも、めめを推していることも。
でも、ステージの前でだけは、俺は素直な自分でいられた。
「……めめ、本当にありがとう」
俺は誰もいない部屋で、グッズのアクリルスタンドに向かってそう呟いた。
その瞬間の俺は、確かに幸せだった。
そんな日々の中それは、本当に唐突にやってきた。
俺の心臓を握りつぶすような出来事。何の前触れもなくやってきた。
ある平日の夜。仕事から帰って、いつものようにコンビニ弁当を片手にパソコンを開いた。画面には「めめ」の公式アカウントの通知が表示されている。俺は何も疑わずにクリックした。
――そして、そこに並んでいた文字を見て、目の前が一瞬で真っ白になった。
『この度、”めめ”はアイドル活動を終了することになりました。これまで応援してくださった皆さま、本当にありがとうございました』
……意味が分からなかった。
目をこすって、もう一度読み返す。けれど、文面は変わらない。短く、冷たく、ただ「終了」という事実だけが並んでいた。
「……嘘でしょ」
声にならない声が喉から漏れた。
手に持っていた箸がカチャンと音を立てて床に落ちる。心臓が脈を打つたびに、身体全体がぐらぐら揺れるような感覚。
たしかに俺の「推し」は、ほんの数時間前までSNSで笑顔を見せていた。新しい配信の告知もしていた。だから明日も明後日も変わらず「めめ」がいると信じていた。
なのに――なぜ。
俺はすぐさまスマホを開き、SNSを更新しまくった。
「なんで?」「どうして?」とファンたちのコメントが飛び交っている。誰も納得していない。誰も状況を理解できていない。
俺もそのひとりだった。
頭の中が混乱しすぎて、何も考えられなかった。ただひたすら「嘘でしょ」「夢であってくれ」と同じ言葉を繰り返すしかなかった。
気づいたら俺は床に座り込んでいた。テレビの明かりだけが薄暗い部屋を照らしていて、弁当は冷めて固まっていた。食欲なんか、跡形もなく消え去っていた。
ーーー 真っ白な日々の始まり
その夜は、布団に潜っても眠れなかった。まぶたを閉じると、ライブでの「めめ」の姿が何度もフラッシュバックする。スポットライトに照らされた笑顔、真剣な眼差し、汗に濡れた髪。あの光景がもう二度と見られない――そう思った瞬間、呼吸が苦しくなって布団を頭からかぶった。
「……無理だ」
涙が止まらず、枕を濡らしながら朝を迎えた。
次の日、会社に行くなんて到底無理だった。
俺は電話を取り、震える声で「すみません、インフルエンザにかかってしまって……」と告げた。嘘だけど、それくらいしか理由を思いつかなかった。
電話を切ると同時に、全身の力が抜けてベッドに倒れ込んだ。
それから一週間、俺はほとんど布団から出なかった。
カーテンは閉じっぱなし。時計を見ることすらしなかった。スマホの通知音が鳴るたびに胸が痛んで、画面を裏返してベッドの脇に放り出した。
食欲もなく、水を飲むのさえ億劫で、頭は常にぼんやりしていた。
身体の調子が悪いのか、それとも心が壊れてるのか、自分でも分からない。けれど、ただひとつ確かなのは「めめ」がいない世界で、俺はどうやって生きていけばいいのか分からないということだった。
―――部屋に残る「めめ」の痕跡
ふと、ベッドの横に並んでいるグッズが視界に入る。
アクリルスタンド、ブロマイド、ペンライト。
そのどれもが「もう意味を持たないもの」になったように見えて、胸が締め付けられた。
「めめがいない……俺がこれを持ってる意味って何なんだ」
そう呟いた途端、涙が溢れて止まらなくなった。
俺は棚の前に座り込み、ブロマイドを一枚手に取った。
そこには笑顔の「めめ」が映っていた。ライブ会場で「最高!」と叫んでいた俺を見て笑ってくれていた、あの顔だ。
「……めめ……なんで、やめるんだよ」
声を震わせながらブロマイドを抱きしめる。涙で写真が濡れてしまうのも構わず、ただ必死に胸に押し当てた。
食事もとらず、風呂にも入らず、ただ泣いて眠ってを繰り返す。
インフルエンザどころか、まるで魂が抜けたみたいに俺は過ごした。
考えてみれば、俺は会社では皆勤賞レベルの真面目社員だった。
体調が悪くても休まない。多少の熱なら薬を飲んで出勤したし、上司から「無理しすぎだよ」と言われるくらい頑張ってきた。
でも今回は違った。出勤どころか布団から起き上がることもできない。
「俺がこんなになるなんて……」
自分でも信じられない。けれど現実だった。
スマホの中では、ファン仲間が「次どうすればいいんだろう」「新しい推し探すしかないのかな」と書き込んでいる。
でも俺にはそんな気力はなかった。推しを失った喪失感は、恋人に振られるよりも、もっと深い場所に突き刺さっていた。
心臓にぽっかり穴が空いたような感覚。
生きることそのものに意味が見出せなくなるほどの虚無感。
「……もう、だめかもしれない」
枕に顔を埋めながら、何度もそう思った。
こうして俺は、一週間ものあいだ会社を休み続けた。
カレンダーの数字はまるで関係なく、時間はただ灰色に流れていくだけだった。
確かなのは、俺がもう後戻りできないくらい「めめ」に惹かれていたということ。
そしてその存在が消えた瞬間、俺の人生も一緒に崩れ落ちたということだった。
長かった一週間がようやく終わった。
いや、正確に言えば「時が過ぎてしまった」というだけだ。俺の心の中では、まだ何ひとつ片付いていない。めめが引退したという事実は、今も胸の真ん中に大きな穴を空けたままだった。
布団に沈み込み、日付の感覚すらなくしていた俺にとって、「出社」という二文字はまるで拷問に等しかった。けれど、さすがにこれ以上休めば周囲の目も気になる。インフルエンザという嘘も長くは通じない。
しぶしぶスーツに袖を通し、重たい身体を電車に乗せた。
窓ガラスに映る自分の顔は、やつれていた。目の下のクマは濃く、肌もくすんでいる。誰が見ても「体調崩してました」と納得するような顔。いや、実際に体調も崩していたから嘘ではないかもしれない。ただ、その理由はウイルスではなく「推しの不在」という誰にも説明できないものだった。
会社に着き、エントランスをくぐった瞬間、懐かしいような気まずいような空気が押し寄せてきた。たった一週間なのに、職場というのは不思議なくらい「日常」をまとっている。蛍光灯の白い光、キーボードを叩く音、書類の擦れる音。何も変わっていないのに、俺にとってはまるで異世界のようだった。
「佐久間、大丈夫?」
デスクに荷物を置いた瞬間、隣の同僚に声をかけられた。
俺は慌てて笑顔を作る。
「う、うん。大丈夫大丈夫」
我ながら空々しい声だった。けれど、同僚はそれ以上突っ込んでこない。
「そうならよかった」
彼は柔らかく微笑んでから、ふと思い出したように言った。
「そういえば佐久間が休んでる間に人事異動があってさ、上司が変わったんだよ」
「へ〜そうなんだ」
わざとらしく相槌を打ちながらも、俺の心は動かなかった。
前の上司はまあまあ仕事が出来ず、社内でも評判が悪かった。書類のミスは多いし、報告も遅い。俺たち部下が尻拭いすることが多く、正直ストレスは溜まっていた。だから異動は当然の流れだろう――そう頭では理解した。
でも今の俺にとっては、そんなことどうでもよかった。
推しが消えた世界で、職場の人事なんかに心を割く余裕はない。
正直「新しい上司がどんな人間か」なんてことにも興味が湧かなかった。
ただ、生きている以上は仕事をこなさなければならない。それだけだ。
机の上の書類を眺めながら、ぼんやりと心を無にする。
「今日も一日、早く終わればいいのに」
そう呟いた瞬間だった。
「おはようございます」
聞き慣れた低い声が、オフィスに響いた。
何気なく顔を上げた俺の視界に――時間が止まった。
――― そこに立っていたのは、スーツ姿の「めめ」。
――嘘
その美しいシルエット。端正な顔立ち。少し不器用そうに笑う表情。
俺が何百回、何千回もステージで見てきた、あの「めめ」が。
目の前で「会社の上司」として出社してきた。
頭の中が真っ白になった。心臓が一気に跳ね上がり、呼吸が詰まる。
「なんで……なんでここに……?」
口に出すことはできず、声は喉の奥で震えただけ。
同僚たちは特に驚いた様子もなく、新しい上司に挨拶している。
「おはようございます、目黒さん」
その言葉を聞いて、俺は理解した。
――めめの名前は「目黒」?
本名非公開だった彼が、今こうして「目黒」という名前で堂々とここに立っている。
地下アイドルではなく、社会人として。俺の「上司」として。
「嘘だよね……」
俺はデスクの下で震える手を握りしめた。
世界がぐらりと揺れる。
推しが消えたと思ったら――その推しが、上司として俺の目の前に現れたのだ。
「君が佐久間君?」
低くてよく通る声が、俺の耳に真っ直ぐ届いた。
その瞬間、全身がビクッと震える。椅子に座ったままの俺は、首をぎこちなく上げた。
そこには――スーツをきちんと着こなした「めめ」、いや、新しい上司の目黒が立っていた。
「ずっと休んでたって聞いてたけど、大丈夫?」
……う、うわあああああ!!!
推しに!! 推しに話しかけられてるーーー!!!
頭の中でサイレンが鳴る。俺の脳内モニターには「祝・推しと会話!」と巨大なテロップが点滅していた。サイリウムを振るオタクの幻影がワーーッと湧き出し、俺自身を取り囲んでいる。いや、幻影じゃなくて俺の心そのものだ。
「は、ははははははははい! その……大丈夫です!」
……言葉が崩壊した。
声も裏返っていた。俺の口から出たのは「社会人の返答」ではなく「ただの挙動不審者の叫び」。心臓はドラムみたいに鳴り響き、汗が首筋を伝っていく。
目黒はそんな俺を見て、ふっと柔らかく笑った。
「ふふっ、なんか面白い人だね」
うわあああああああ!!!
笑ったーー!! 俺に向かって笑ったーー!!!
あのライブで何度も見た笑顔が、今、至近距離で、俺だけに向けられてる!!!
脳内オーケストラがファンファーレを奏でる。トランペット、ドラム、シンバルが一斉に鳴り響き、俺は天に召されそうになった。
――だめだ、死ぬ。尊死。
「これからよろしくね」
そう言って、目黒が右手を差し出した。
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作者名「木結」(雪だるまアイコン)でご検索ください。
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