テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その町は「やさしい町」と呼ばれていた。
困っている人がいればすぐに助ける。ゴミは落ちていない。子どもはみな礼儀正しく、大人は笑顔を絶やさない。外から来た人は、口をそろえて言う。
「なんて素晴らしい場所なんだ」
大学を卒業したばかりの遥は、その町の役所に就職した。福祉課に配属され、「支援対象者」の家庭を訪問する仕事だった。
最初の訪問先は、母子家庭だった。母親は痩せて、目の下に濃い隈を作っていた。小さな男の子は、遥の後ろに立つ町内会長を見て、びくりと肩を震わせた。
「最近ね、この子の様子がおかしいんです」と母親は言った。
「夜になると泣き出して、“いい子にするから許して”って」
町内会長はにこやかにうなずいた。
「この町ではね、“いい子”を育てるためのプログラムがあるんです。ちょっとした矯正ですよ。将来のためです」
遥は、その“プログラム”の資料を渡された。内容は曖昧で、「適応支援」「行動改善」といった言葉ばかりが並んでいた。
だが、数日後、彼女は偶然、夜の公民館でその“支援”を目にしてしまう。
体育館の中央に立たされた子どもたち。周囲を取り囲む大人たち。照明は明るく、笑顔のまま拍手が続く。
「みんなに迷惑をかけました、と言いなさい」
震える声で謝罪する子ども。うまく言えなければ、拍手は止まり、無言の圧力が空気を凍らせる。
泣き出せば、「ほら、反省している。えらいね」と優しく頭を撫でる。
それは暴力ではなかった。殴る者はいない。怒鳴る者もいない。
ただ、逃げ場がないだけだった。
翌日、遥は上司に訴えた。
「あれはおかしいです。子どもたちが怯えている」
上司は穏やかな声で答えた。
「怯えている? 違うよ。あれは“学んでいる”んだ。この町がなぜ平和か、君も分かるだろう?」
数週間後、遥のもとに苦情が届いた。
「最近、福祉課の若い職員が、町の方針に疑問を持っているらしい」
その夜、彼女は呼び出された。公民館の体育館に。
中央に立たされる。まぶしい照明。取り囲む笑顔。
町内会長がやさしく言う。
「遥さん。この町のために、あなたも“いい職員”になりましょう」
拍手が始まる。
「町に迷惑をかけました、と言いなさい」
喉が張りつく。足が震える。けれど、周囲の笑顔は崩れない。
遥は気づく。
ここでは、間違っているのはいつも“少数派”だ。
拍手は止まない。笑顔は消えない。
やがて彼女は、はっきりと、聞こえる声で言った。
「町に迷惑をかけました」
歓声が上がる。
翌日から、遥は誰よりも熱心な職員になった。新しく来た若者に、こう説明する。
「この町は、やさしいんです。みんなで支え合っているだけ」
その町は今日も静かだ。
泣き声は、もう外には聞こえない。