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「胃潰瘍?」
一時間後、薬で症状が落ち着いた早苗と、偶然駆け付け、早苗のデスクに薬を取りに入ってくれた坂井は、ファミレスで向かい合っていた。
「そう。治療中なの」
「えーかわいそう」
本当に思ってるんだか思ってないんだか、眉毛をハの字に傾けている。
早苗はホットミルクを咀嚼しながら流し込み、その顔を見つめた。
(ーーーん?なんだろう。いつもと違うような)
見慣れているはずの坂井の顔を覗き込む。
「お待たせしました。チンジャオロースドリアでございます」
店員が聞いたことのないメニューを運んできた。
「いっただきまーす」
“助けてくれたお礼におごる”と提案した早苗が思うのもなんだが、胃潰瘍の先輩を前にして、そんな見るからに重そうなものを頼むこの女の神経もなかなかだ。
「ほんと、可愛そうです、早坂さん」
(———どの口が言うんだ、どの口が…)
湯気を散らすようにフーフーッと尖らせている真っ赤な唇を睨む。
「胃潰瘍になるほど、結城係長のこと、好きだったんですねぇ」
(————は?)
中央の籠からヘッドの大きいスプーンが、ピンク色の爪に覆われた手で持ち上げられる。
(今、この女、何て言った?)
早苗のこの気持ちは誰にも言ってない。
会社の人間はおろか、親にも、友人にも、誰にも。
なのに、なんで、この女が――――。
一口チンジャオロースドリアを口に含んだ坂井は大きな目で早苗を見上げた。
「気づいてないとでも思ってました?バレバレでしたよ」
「ーーーー」
麻里子への感情がバレバレだった正面の結城。
その結城を想っていたのがバレバレだった斜め前の早苗。
なんと間抜けな三角形だろう。
「そ、そんなこと言って。あなただって、結城くんに夢中だったじゃない」
「えっ?」
きょとんと坂井が目を見開く。
「私がですかっ?いつですかっ?」
「ーーーー」
スプーンを持ったまま肩をすくめて見せる顔は、とても演技をしているようには見えなかった。
「……なんだ。好きじゃなかったの?」
「はい。全く」
目を見開いたまま口は笑っている。
(何この顔。こわい)
目の前で次々と変貌を見せる後輩を、早苗は胃が痛いのも忘れてただ眺めるしかなかった。
「好きそうに見えました?」
なおも笑いながら、パチパチと瞬きを繰り返す大きな目。
太めの眉。
ゴールドのアイシャドウ。
ピンク色のチーク。
真っ赤な唇。
(あ。わかった。この子、いつもよりものすごく化粧が濃いんだ)
早苗はその完璧な仕上がりを見て、舌を巻いた。
「ねえ。もしかして、今日、デートの予定でもあった?ごめんね。もう大丈夫だから」
言うと、彼女はピンク色の頬を左右に上げた。
「予定は―――これから作るんですよ」
腕時計を見る。もう8時過ぎだ。
「ごめんね。それ食べたら先に行ってい――」
「早坂さん。今晩、付き合ってください」
「わ、私?」
早苗は背もたれに寄りかかり、突拍子もない提案をする後輩にまた痛み出した胃を抑えた。
「私、とても遊べる体調じゃないんだけど」
「吐きそうですか?」
「いや、それはないけど」
「トイレ行きたいですか?」
「いや、大丈夫だけど」
「なら行けますね」
勝手に納得したように小さく頷くと、坂井は、
「食い終わるまで、しばしお待ちを」
と言って口をもぐもぐと高速で動かしている。
(リスみたい…)
早苗は唖然としながら聞いた。
「ーーーー。ねえ、どこに行くの?」
言うと、咀嚼に集中するためかドリアを凝視していたその瞳がこちらを見上げた。
(げ。カラコンまでしてる)
そのグレーの瞳で笑いながら、彼女は言った。
「早坂さんが、失恋を忘れられて、“女”になれるところですよ?」
「ーーーえ。ここ、何?」
席についてから早苗は店を見回した。
ぱっと見は、お洒落なバーに見える。
でも何だろう。違和感がある。
「えー?ただ、お酒飲むところですよぉ?」
ファミレスのトイレで着替えた坂井は、肩ひものないチューブトップスに、黒の網カーデを合わせ、体のラインを強調した淡い色のデニムに身を包み、解いた髪をかき上げた。
「ほらほら、何飲みます?」
言いながらドリンクメニューを勧めてくる。
「あのね、胃潰瘍なんだってば」
「あ、そーだった。じゃあカルピスですね。乳酸菌、乳酸菌~」
「乳酸菌が効くのは腸でしょ!」
「マコトー!こっちのお姉さんにカルピス―!私はレゲエパンチー」
カウンターのひげを生やしたワイルド系の男に言う。
(……あ、ちょっとかっこいい。————いやいや違う)
早苗は首を振って、職場の坂井とは別人の女に顔を寄せた。
「ねえ!こんなとこで何すんの?もう帰りたいんだけど」
「えー何すんのって。ナニ期待してんですかー?」
言いながら坂井はいつの間につけたのか、赤と黒のグラデーションの入ったつけ爪を、ガラスのテーブル台にカツンカツン鳴らしている。
「何も期待してないけど。具合が悪いから、帰りたいって言ってんの」
「具合って、身体じゃなくてココロのでしょぉ?」
言いながらすでに酔っ払っている如く身体をくねらせる。
「ね?ちょっとだけだから」
その白い手が早苗の頬に触れる。
テーブルに、トップスからはみ出しそうな胸が押し付けられている。
「ココロを元気にするためだから。私を信じて?」
ふわっとシトラスムスクの香りがした。
呆然とした早苗の反応を楽しむように坂井が自分のソファに戻る。
「ーーーその香りって、男性物のコロンじゃない?」
言うと、少し驚いたような顔をした。
「せーかーい!!なんでわかるんすか!」
どんどん言葉が解けていく。
口を開きかけてやめる。
(危ない危ない、変なことまで言うところだった)
「私、女物の香水より、男物の方が好きなんですよ。刺激的で。意外と男受けもいいんですよ。かわいい見た目とのギャップ?」
(自分で言うか)
早苗は呆れて目の前の後輩であるはずの女を睨んだ。
「あ。思い出した」
坂井が笑う。嫌な予感しかしない。
「そーいえば、高橋さんの結婚式の時、つけてましたね。結城さん」
すべて見透かしたような顔で覗き込んでくる。
「シトラスムスクの香水」
「ーーーこちら、レゲエパンチとカルピスでございます」
バーテンダーのマコトが、コースターとグラスをテーブルに置いていく。
彼女から目をそらしながら、また店内を見回した。
(はあ、早く帰りたい。————あれ?)
違和感の正体がわかった。
(この店、椅子が全部、ソファなんだ)
バーカウンターはあるのに、カウンターチェアがない。
テーブル席も奥の席も手前の席も全てソファ。しかも全て二人掛けの。
(————?)
その意味にピンとこないまま、カルピスを口に入れる。
(あ。濃くて美味しい)
目の前の後輩がほくそ笑んでいるのを、早苗はまだこのとき、気づいていなかった。
カルピスを飲んでいるはずなのに、頬が火照ってきた。
「ねえ。なんか、このお店、暑くない?」
目の前でレゲエパンチを涼しい顔で飲んでいる坂井に言いながら、早苗は手で顔を仰いだ。
「え、ほうですかあ?」
坂井は氷を口の中に頬張りながら言った。
人が集まってきたからだろうか。
ついさっきまで空席が目立っていたテーブル席は、いつの間にか満席に迫る客でいっぱいだ。
「すごい、混むのね。平日なのに」
見回しながら言った早苗に坂井が微笑む。
「ええ。もうすぐ時間なんで」
「時間?」
時計を見た瞬間、照明が落ちて真っ暗になった。
(ーーーえ?)
と、カウンターの中にいた、先ほどのマコトにスポットが当たる。
「レディースアーンドジェントルメン!なんちゃって!」
どこかから指笛が聴こえてくる。
「今宵集まりし、紳士淑女の皆様。心の準備はできてますか?」
歓声が上がる。
(ーーー何?何よここ!!)
目の前の坂井を見つめると、彼女は相変わらず氷を頬張りながら笑っている。
「野郎ども。今こそ奇跡を起こせ!女性方、拒否権は皆さま方にあります。チェンジ推奨!お相手をお選びください」
「ははは、最低ー」
「ばーか」
「きもー」
「MCのセンス磨け―」
女性たちの、鼻にかかった色っぽい声の野次が飛び交う。
「今宵、素敵な出会いをあなたに!!」
エコーがかかった男の声が響くと、バーは先ほどまでの照明とは違い、一気にムーディーなセピア色に変わった。
ゆっくりミラーボールが回りキラキラと全体が輝いている。
「ちょっと!!どういうこと?なんなのここ!」
言われた坂井が早坂に視線を戻す。
「言ったでしょ!フリーの男女に素敵な出会いを提供する場所、ですよ」
たちまち、坂井の隣には男が座ってくる。
「どーもー!」
坂井が慣れた様子で男が座るスペースを作るべく少し壁側に寄った。
「あ、あんた、見たことある。この間、ミカと一緒にいた人~?」
「そうそう。ホントは君がよかったんだけど~。先約がいたから」
「はー?調子いいんだけどー」
坂井は流し目で男を見ると、やけに色っぽく細身のグラスを両手で掴んだ。
(ーーーおいおいおいおいおいおいおい)
早苗は立ち上がった。
「私、帰る」
「ええ?」
坂井が驚いた顔をして見上げる。
「なんでですか?」
「当然でしょ。私、こんなの………無理だから!!」
バックを手繰り寄せ、ソファとテーブルの間を腰を引きながら出ようとすると、
「ーーーそれで、今夜も、枕を涙で濡らすわけですか?」
「—————」
睨みながら振り返る。
ちょうど十歳年上の早苗を見ながら坂井は微笑んだ。
「麻里子さん、おめでたって意味、分かってます?」
「————何?何が言いたいの?」
「子供じゃないんだもん。わかってるから、具合悪くなったんですよね?」
(やばい。逃げなきゃ)
脳が警笛を鳴らす。
しかし、身体が動かない。
(———私は)
「結城係長って、エッチするときはどんな感じなんでしょうね?」
(———きっと)
「中出しされて、麻里子さんはさぞ気持ちよかっただろうなぁ」
(———トドメを刺されたがっている)
帰るか留まるか悩んでいる一瞬の間に、ソファの向こう側から男が入ってきた。
「隣、いいですか?」
その顔を見て、早苗は心臓が止まりそうになった。
(———結城、くん?!)
そこには早退したはずの結城がいた。
「似てるでしょう?」
坂井の声で我に返る。
「私も最初見たときびっくりしてぇ」
けらけらと笑っている坂井から目を離し、もう一度隣に座る男を見上げる。
「そんなに、似てます?」
男が苦笑する。
本当だ。よく見ると、違う。
男にしては色白な結城より肌の色も黒くて、どこか潔癖の雰囲気が漂う結城と違って、尖っている八重歯が人懐っこい。
「わざわざ彼を誘ったんですよ?」
坂井の長い睫毛を付けためがウインクをする。
(え。それってどういう――――)
「ねえ。早坂さん。今日は“結城くん”に抱かれて、忘れちゃいましょう?」