「ば、馬鹿じゃないの?」
早苗は叫んだ。
「そんなこと、できるわけないでしょ!!」
「え、どうしてですか?」
すでに隣の男と寄り添っている坂井が微笑む。
「大丈夫です。その“結城くん”はジェントルマンですよ」
「ちょっと、あんたね…」
「処女でも優しく抱いてくれます」
「——————」
(今、この女、何て言った?)
「聞こえませんでしたか?処女でも優しく抱いてくれるから大丈夫です」
早苗の横にいた男がふっと笑う。
「悪い、そういう意味じゃなくて」
言いながら口を押え、まだ笑っている。
おそるおそる隣を見ると、聞こえたんだか聞こえていないんだか、“結城”は4人分の水割りを作っている。
(なにホッとしてんだ、私は!!)
早苗は坂井のカーディガンを正面から引っ張った。
「だ、誰が処女だって言ったのよ!」
「————えっ、覚えてませんか?」
胸元を釣り上げられた坂井が反笑いになる。
「私の歓迎会の時、涙ながらに語ってたじゃないですか」
「?!」
ーーー確かにあの日は飲んでいた。
参加するはずだった結城が、急にキャンセルしたからだ。
飲み会中、偶然課長から、麻里子が熱を出して、店舗で倒れたと聞いた時には、こっちが卒倒しそうだった。
早苗は飲んだ。
お酒というお酒を。
メニューの右から左へ順番に。
気づいたら、頭痛と吐き気を伴いながら、自分のアパートにいた。
あの日か。
「今まで付き合ったことないんですってね?あ、でも告白されたことはあったって言ってたかなあ?でもタイプじゃなかったって」
そんな強がりまで吐いて。心底、情けない。
「それにそれに、早坂早苗って名前も嫌いって言ってました。
“どうせ苗字なんて変わるから”ってご両親が画数と響きだけ重視してつけてくれた名前だけど、《早》と《早》で、何をそんなに急いでるんだって。
苗字が変わらない可能性も考えてほしかったって。
なんか私、切なくなってしまいましたよー」
切なさとは程遠い顔でくくくと笑いながら坂井は口を押えた。
隣の男も笑っている。そのわき腹を坂井が笑いながら肘で突く。
(死にたい……)
坂井がうなだれていると、マドラーでグラスをかき混ぜていた“結城”が振り返った。
「はい。うすーくしといたから」
グラスを渡される。
反射的に受け取った手に、男が軽く指を絡めてきた。
思わずグラスごと手を引っ込める。
ある意味、本物以上の破壊力を以て、“結城”が微笑む。
セピア色の店内は、周りがほとんど見えないが、二人掛けのソファの上で、男と女の影が、ものすごく密着しているのだけはわかる。
「乾杯、する?」
“結城”の目が潤みながら、グラスを掲げている。
カチン。
合わさるグラスと音。
(え。マジで?……マジで私―――)
ほとんどお酒の匂いも味もしない液体を飲み込む。
(今夜、この人と、スルの……?)
「改めて、こんばんは」
四年間で結城が見せてくれた笑顔を寄せ集めてもここまでにはならないような、満面の笑顔で“結城”が微笑む。
「何て呼べばいいかな」
「————えっと、さ、早苗で………」
「そこはリアルに結城らしく“早坂さん”でおなしゃす」
隣の男に寄りかかった坂井が口を挟んでくる。
“結城”が少し困ったようにこちらを見る。
「それで、いいの?」
「い、いいです」
初対面なのに、明らかに早苗より年下なのに、彼は自然なほどにため口だった。
(でも、今は逆にそっちのが助かる、かも)
骨格も似ていれば声も似るのだろうか。
彼の顔は、よく見ると違うところがだんだんわかってきたが、こと声に関してはまんまだった。
これで敬語で話された日には……。
(正気でいられそうもないんだけど)
というか、こんなに薄い焼酎で酔っているのだろうか。
さっきから頭の芯がフワフワする。
グラスに触れている指先が火照るように熱い。
なんとなく向かい側に座る坂井を眺めた。
(嘘でしょ…)
目の前の二人は薄暗いソファの上で、唇を合わせていた。
小さく漏れる小さな音と、男の低い声、坂井の高い吐息。
(ちょっと。ちょっとちょっとちょっと!!)
「ね、ねえ」
思わず隣の彼の腕を掴む。正面の二人に気づいているのかわからない彼は、テーブルに軽く肘をつきながら、面白そうに早苗を眺めている。
「なに?」
「も、もしかして…」
「うん?」
「ーーーこ、ここで、スル…の?」
顔を真っ赤に染めて言うと、一瞬の間が開いた。
「————ぷっ」
男が吹き出す。
そして肘をついたまま頬杖をずらすような格好で口を押えて、肩を震わせた。
「それはさすがにやばいでしょ。乱交じゃあるまいし」
言いながら、傍らに置いてあった冷えたおしぼりを手に取る。
「ほら。顔が燃えそうだよ。冷やしてあげる」
言いながら右手で早苗の頬を包み、左手でおしぼりを押し付けてくる。
「ジューッ」
優しく馬鹿にしながら微笑む。
(やばい。本当に似てる。この顔…)
ーーーそうだ。麻里子を見るときの、結城の顔に似ている。
まずい。また、思い出しそう……。
「安心して」
その回想を遮って、よく似ている声が囁く。
「ここでは、しないよ」
「——じゃあ、どこで?」
言いながら見上げると、そのおしぼりを今度は右側に持ち替えられる。
「ホテル」
おしぼりで坂井達から隠すように覆いながら、彼は顔を近づけた。
唇が触れる。
(あ。これ、ファーストキス……)
意図せず結果的に守ってきた唇が解禁される。
おしぼりにしみ込ませているコロンの香りが鼻をつく。
そこに、少しだけ酒の匂いがする吐息が混ざる。
“結城”の唇が優しく押し付けられ、顔が上を向けられる。
一瞬、唇が、数センチ離れる。
至近距離の“結城”の目が肉食獣のそれに変わる。
(あ、やばい)
再び強く押し付けられた唇から、熱い舌が入ってくる。
思ったほどザラザラも、ヌルヌルもしていない、不思議なほどに違和感のない柔らかいものが、上顎をなぞるように入ってくると、すぐに早苗の薄い舌に絡まった。
生まれて初めて入ってくる他人の舌の感覚に無意識に出た声に驚き、とんと彼の胸を押した。
すると彼は強引にそれ以上求めてくることはせず、笑いながら続けることもせず、いったん身を引いてくれた。
「大丈夫?」
「ーーーな」
「な?」
「ーーーーー」
答えない早苗に男が首を捻る。
「『なにすんの!』?」
首を振る。
「『なんでこんなこと!』?」
首を振る。
「じゃあなんだろう。何の《な》、かなぁ」
言いながら身を離した男が、グラスの酒を一口飲む。
「ーーーなまえ」
「ん?」
「あなたの名前、教えて……」
「ーーーーー」
驚いたように男が早苗を覗き込んだ。
「“結城くん”じゃなくていいの?」
早苗は頷いた。
「名前も知らない人と、スルの、嫌だから」
自分の顔が真っ赤に染まるのがわかる。
男は、自分のグラスを両手で包んで静止している。
「あ、もしかして、こういうところ、本名とかご法度?なら別にあだ名とかでも……」
言うと、その手で早苗の両頬を包んできた。
「冷たっ」
酒の入ったグラスで十分に冷えた手で笑いながら、彼は言った。
「カズヤだよ。……サナエちゃん?」
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