コメント
0件
仕事が終わり、愛車で帰路に就いていた慶一朗は、信号でブレーキを踏んだタイミングで横断歩道を右から左へと、仲が良さそうに手を繋ぎながら歩いていく男女の姿に苦笑するが、横断歩道を渡り切った先で楽しそうに一言二言言葉を交わした後、素早くキスをしたのを見、所構わず仲の良さを見せつけるなと悪態を吐きそうになるが、ふと先日我が身に起きた出来事を思い出し、考え込んでしまう。
イースター休暇をどのように過ごすかを友人であり同僚であり隣人でもあるリアムと話していた時、やけにじっと見つめられていることに気付いていたが、何か変なことを言ったのかと内心考え込んでいた。
その時、以前自宅でコーヒーを彼に淹れたが、美味かったと褒められ、たかが一杯のコーヒーのために手間暇を掛ける己の行為がその一言で認められた気がし、その趣味を勧めてくれた兄やその恋人が褒めてくれるよりも嬉しく感じて自然と顔を綻ばせてしまったのだ。
持って生まれたものか後天的に得たものかは不明だが、いつも穏やかと友人や同僚たちから評される慶一朗の性格は、実は彼らには決して見せない気性の激しさを持っていて、あまり褒められない言葉を連呼しつつ趣味のジオラマを飾っている部屋で暴れてそれらを破壊したりしてしまうほどだった。
この気性の激しさを目の当たりにしても受け止めてくれる存在は、今は遠く離れた日本で暮らす兄とその恋人と、ウェールズのカーディフで暮らしている友人だけだったが、先日、ひょんなことからリアムにそれを感じさせてしまったのだ。
今までならばそれはあり得ないことだった。
話をすれば同情されるか哀れまれるだけの己の過去を思い出せば、己の感情を素直に表現することなど、心を許した相手以外には天地がひっくり返ってもあり得ないことだった。
それと同様に、素直に嬉しいと笑顔を見せる事も殆どなく、病院で同僚や患者らに見せている笑顔は学生時代に慶一朗が会得したいわばマスクのようなものだった。
そのマスクがリアムの前では外れていたのか、趣味の結果を褒められたことがうれしいと無意識に笑顔を浮かべた後、不意に彼のどこか愛嬌のある顔が近づき、気が付けばキスをしていたのだ。
過去に相手から告白されたり流れから付き合った男女は何人かいるが、ただ一人を除いた元恋人達と交わしたキスは慶一朗の記憶の断片としても残っておらず、彼がその後何かを確かめるように今度はゆっくりと唇を重ねてきて、その感触が過去の覚えてもいないキスも含めた全てを記憶から引き出して上書きしてしまった。
その感触を、横断歩道を横切ったカップルのキスを見てしまったことから思い出した慶一朗は、たかがキスにどうしてこんな感覚に陥ってしまうのかと自問したとき、後続車がクラクションを鳴らした事に気付いてやや急発進気味にアクセルを踏む。
シドニー市内からは少し離れた郊外の住宅街だが、仕事を終えて帰宅する人達は市内であろうと郊外であろうと存在していて、その流れに車をうまく乗せて帰路に就いていた慶一朗は、何がここまで気になるんだろうなと自問し、タイミングよくラジオからどうしてだいというDJの声が流れてくる。
「俺が知りたいぐらいだ」
ラジオに苦笑しつつ言い返した慶一朗だったが、このまま自宅に戻っても空腹を満たす食べ物などあるはずもなく、近所のスーパーで買い物をしなければならないかと溜息を零した時、スマホへの着信をスピーカーが教えてくれる。
「ハロゥ」
気だるげに返事をした慶一朗の耳に、仕事終わりで疲れているのかという、流暢なクイーンズイングリッシュが流れ込み、疲労感が一気に増した気持ちになってしまう。
「…疲れてなかったのにな、お前の声を聴いて一気に疲れた」
『おやおや。久しぶりに私の声を聴けたことに疲れる程喜んでくれるとは』
本当にお前は可愛い奴だと笑われ、全身を一瞬で粟立てた慶一朗は、今車を運転している、何の用だ早く用件を言えと捲し立て、そんなに慌てなくても良いだろうと苦笑されて思わず素直になってしまう。
「Scheiße.車を運転していると言っただろ?」
俺の言葉を聞いていなかったのか、もう耳が遠くなったのかと立て板に水のように不満をぶつけると、耳だけではなく全身くまなく検査を受けたが何の問題もないと返されて嫌味も皮肉も通じないのかと呟いてしまうと、全てを見通していると言いたげな含みのある笑い声が聞こえ、瞬間的に何だと声を荒げた途端、随分と今日は不機嫌だなと声を潜められ、何故こんなに苛立っているのかと自覚した慶一朗は、後続車の流れを確かめた後、通りからすぐに入れるスーパーを発見し、乱暴に車を侵入させると、空いているスペースに車を止める。
今友人に機嫌が悪いと指摘されたが、慶一朗の心の中を占めているのは不機嫌さよりも理解出来ない感情だった。
それを解消したい思いから、一度息を吐いた後、ステアリングに突っ伏す様に顔を寄せる。
「…ケネス、話を聞いてくれないか?」
先ほどの乱暴な言葉遣いとは打って変わった弱気な声にどうしたんだい、口の悪い殿下と揶揄う声がそれでも優しく問いかけてくる。
「…真剣に聞いている。茶化すな」
軽口にはまた今度付き合うから今は真剣に相談に乗ってくれと、今から話すことに真剣に悩んでいるんだと言外に伝えると、スピーカーからキスの音が流れてくる。
『…お前の機嫌が直るのならいくらでも相談に乗ろう。何を聴いてほしい? 何でも言ってくれ』
先ほどお前は本当に可愛いと言ったが、その言葉に嘘はない、可愛いお前の話なら何でも聞こう、だから話しなさいと、少し遠くに聞こえる電話の向こうの上品な空気が伝わるような声に深くため息を吐いた慶一朗は、アイドリングの音に紛れ込ませるように小さく呟き、次いで今のはナシだ忘れろと慌てふためきながら取り消してしまう。
『ふむ。・・・友人にキスをされたのか?』
微苦笑交じりに問われた後、茶化すなと告げた言葉を守るように真剣に聞いてくれる電話の向こうの友人に見えないのに頷いた慶一朗は、たかがキスなのにと自嘲するが、誰かとキスをして嬉しくなった経験はあるかと問いかけると、驚いたような気配が伝わってくる。
『それは、心の底から、ということか?』
「…ああ」
『そう、だね…お前と初めてキスをしたときは嬉しかった気がするけど、それが心の底からかと問われれば、悩んでしまうね』
苦笑交じりの告白に慶一朗が今は友人関係-肉体関係も含めたもの-にあるケネスと付き合うようになった時の事を思い出し、自然と別れの日の事も思い出してしまう。
他の元恋人達とは違って決して忘れることの出来ない別れを思い出した時、双子の兄、総一朗の険しい顔も思い出してしまい、明確に覚えていないがあの時元恋人と兄の間で己に関する何かがあったのだろうかと考えていると、まさかキスをされたぐらいで驚いてしまっているのかと問われて我に返り、そんな訳がないと否定しようとするが、軽口も多く人を何もできない子ども扱いする年上の元恋人にならば結局慶一朗自身も気を許している為に今感じている戸惑いを口に出す。
「キスぐらいお前の言う通り平気だ。ただ…」
その友人はゲイではなく男にキスをしたいと思ったのは初めてだと言っていた、その言葉を聞いて変な気持ちになったと伝えると、その変な気持ちに嫌悪感は含まれているのかと問われ、間髪入れずにその言葉を否定する。
「No. 嫌な気持は全くなかった」
それどころか、離れてしまうのが惜しいと思った、そんなこと今まで感じたことがないと戸惑いの理由を口にすると、少しだけ沈黙が流れた後、やっとお前もその気持ちが理解できるようになったかと感慨深げに呟かれて何だよそれと口を尖らせてしまう。
「…ケネス、本当に分からないんだ」
一度目のキスは不意打ちのようなもので何が何だか分からないうちに終わってしまい、嫌ではなかった事を素直に伝えた後、何かを確かめるようにもう一度キスをされ、今度は一度目よりは長かったし、離れた後のその感覚が一際強くなったものの、やはりその感覚の理由が掴めなかったとも続けると、お前にもやっと現れたのかもしれないなと先ほどよりも感慨深く、また寂しそうな声で返されてなにが現れたんだと目を丸くする。
『陳腐な言葉だけれど、お前の運命の相手が現れたんだろうな』
今までは身体から始まる関係ばかりだったが、キスをしただけで戸惑ってしまうその友人はもしかすると本当にお前の運命の相手かもしれないと言われて思わずシートに後頭部を押し付けた慶一朗は、運命の人などいるはずがない、あんなものはフィクションの中に存在するだけだと皮肉気にその言葉を否定する。
『まあ、お前がそう思うのも理解できるが、では、どうしてたかがキスをされただけでこんなに困った声で私に相談しているんだい?』
それは、お前の心が今までとは何かが違う事を理解していて、この先彼との関係がどうなるのか分からない不安があるんじゃないのかと諭すような声で問われて慶一朗が口を閉ざす。
『キスをするような関係の相手など何人もいるだろう?』
今でも週末になれば市内のパブに出入りしていて、そこで知り合った良さげな相手とキスをしたりそのままホテルに行っているんじゃないのかと、決して揶揄ったり蔑んだりするような声ではなく、己が知っている事実を淡々と伝える声音に慶一朗が体を起こしてダッシュボードを拳で殴りつける。
「うるさい、放っておけ」
『私と付き合っている時もそういって他の男と遊んでいたけれど、まだその癖は抜けていないのか?』
私は構わないが、いつかその癖のせいで泣くことになるぞと忠告され、条件反射的にドイツ語でくそったれと吐き捨てると、気に食わないことがあるとすぐにドイツ語で汚い言葉を叫ぶ、その癖も直した方がいいと畳みかけられて歯を噛みしめながらもう一度ダッシュボードを殴りつける。
『ケイ、落ち着きなさい』
「……うるさい」
『それよりも、彼が運命の相手かどうかは別にして、その友人とお前はこの先どうしたいと思っているんだ?』
二度のキスを遊びとして片付け、肉体関係のない友人として付き合うのか、数多くいる大人の友人の一人にするのか、それとも、ただ一人と決めた相手にするのか、彼とどうなりたいんだと問われて一瞬で興奮から目が覚めた慶一朗は、セフレになんかなりたくないと小さく呟き、そんな関係になるぐらいならただの友人でいいとも続けるが、深呼吸を二度続けた後、ステアリングの天辺に額を押し当てて腿の上で拳を握る。
「…付き合いたいとか、そんなことは分からないけど…」
彼が俺に見せてくれる愛嬌のある顔に浮かぶ悪戯っ気の籠ったものや素直に嬉しい時に見せる笑顔を傍でずっと見ていたいと、己でも驚くほど素直に本心を吐露した慶一朗は、その言葉に限界まで目を見張り、俺は一体何を言っているんだと眉尻を下げてしまう。
「俺なんかが…人を好きになれるはずがないのに…」
機能不全と周囲からは認定されそうな程関係が崩壊していた家族のなかで、命だけは奪われないで済む最低限の食事と衣類だけを与えられて来た俺が、誰か人を好きになることなどあってはならないし、そんな世界から救い出してくれたソウに悪いと続けると、何かを言いかけたが押しとどめたような呼吸が伝わり、そうだろうと暗く笑ってしまう。
「俺は、人を好きになんてなれないし、なってはいけないんだ」
本来ならばあのまま大阪の家を一歩も出ることなく総一朗の身に何かが起きれば、必要なパーツを必要なだけ差し出す為だけに生きていたんだと、そんな世界から兄に救い出してもらったはずなのに、何があろうとも逃れることの出来ない呪いの言葉を笑み交じりに口にすると、そんなことはない、総一朗もそんなことを思っていないはずだと諭されるような言葉が聞こえ、全ての罪を背負ったとリアムが感じた笑みを浮かべて再度シートに凭れ掛かる。
そうなのだ。人を好きになってどうなるというのか。
総一朗の身に何かあれば、己を構成するこの肉体は無条件で差し出さなければならないのに、そう運命付けられている己が、人を好きになどなってはいけないのだ。
「…ダンケ、ケネス」
『ケイ?』
「聞いてもらって少しすっきりした」
そろそろ腹が減ったから買い物をして家に帰る、だから通話を終えるぞと暗い声のまま伝えると、腹が減ったのかと驚愕されてしまい、当たり前だろうと眉をひそめると、お前の口からそんな言葉を初めて聞いたと更に驚かれてしまい、何故そんなに驚くんだと不満の声を投げかける。
『いやいや、どれだけ食べろと言っても食べずにビールばかり飲んでいたお前が、ねぇ』
「うるさい」
『ははは。空腹を邪魔するのは賢くないからやめておこう。美味しそうな料理があればそれを食べてゆっくり考えなさい』
「余計なお世話だ、サド侯爵!」
電話の向こうの安堵の滲んだ声に思わず中指を突き立てて憎たらし気な顔で舌を出すと、私は侯爵などというご立派な身分ではないよ、しがない地方貴族だと笑われてくそったれと三度ドイツ語で褒められない言葉を吐き捨てる。
『ああ、そうだ、来月ぐらいにシドニーに出張で行くことになったよ』
だから時間を空けておくようにと当たり前に命令されてふんと鼻息で返事をした慶一朗だったが、ここまで気を許す友人が久しぶりにシドニーに来るのならばもちろん会う時間を作ろうと内心で頷きつつも、誰かさんと違って忙しいからなぁと憎まれ口を叩く。
『まったく、本当に口の悪い殿下だ』
「うるさい。切るぞ」
『…ケイ』
通話を終えようとカーナビのタッチパネルに指を置いたとき、自分の心に素直になったからと言って総一朗も私もお前を見捨てたりなんかはしない、だから安心しなさいと続けられてぷつりと通話が終わってしまう。
今までの恋人たちの中である意味最も慶一朗を愛し、それ以上に傷を与えた男が何を言うんだと反発心が芽生えてくるが、それでもやはりこうして救いを求めるように話を聞いてもらっている事から、今は友人として付き合っているケネスの言葉に従っても良いかとほんの少しだけ態度を軟化させ、エンジンを止めて車から降り立つと、空腹を訴える胃袋に詰め込むための何かを買いにスーパーの自動ドアをくぐるのだった。
慶一朗がスーパーで買い求めたのは、オリーブの実とチーズをオリーブオイルで漬けたオードブルなどでよく食べられるものと、セミドライトマトのオイル漬け、分厚く切ってもらったハムだけだった。
食に興味はないがそれでもお気に入りの店はいくつかあり、その筆頭とも言えるのが個人が経営しているベーカリーで、そこのバケットがまだ残っていた事を思い出し、スーパーで買ったものと一緒に食べれば十分だと、己にしては上出来だと自己採点をしていた。
車に乗り込み、エンジンをかけると自然と先程友人と交わした言葉を思い出して暗い顔になってしまうが、人を好きになることなどあり得ない、何かの気の迷いだと肩を竦める事で気持ちを切り替えた慶一朗は、ラジオではなく手術が終わった後によくかけるハードロックを流すと、周囲の車の流れを無視しているような乱暴さで駐車場から出て自宅へと向かう。
肩を竦めた事でリアムのキスが己にもたらした感情の揺らぎについて忘れたはずだった。
なのに、車を運転している間も、ハードロックの曲が流れている間もずっと、ケネスに告白したように彼の子供のような笑顔と共に脳味噌にこびりついていて、頭を振ったところで消えてくれなさそうだった。
自宅ガレージに愛車を強引に突っ込み、苛立たしげにドアを閉めて玄関へと向かった慶一朗だったが、些か乱暴に玄関のドアを開け、同じく乱暴に鍵を掛けてキッチンに向かうと、作業スペースに買ってきたものを置いて丁寧に時間をかけて手を洗う。
自宅に戻ってまずしっかりと手を洗うのが仕事終わりの慶一朗の癖だったが、水に流れていく泡を見ていると、悩みも一緒に流れていって欲しいとつい思案し、何を馬鹿な事を考えているんだと苦笑する。
食後のコーヒーを飲むために冷蔵庫から豆を取り出し、エスプレッソメーカーにセットすると、少し多めの水を入れてガスコンロにセットする。
その間に買ってきたハムを袋から取り出すと、総一朗に教えられた通り、オーブントースターに無造作に放り込んでタイマーをセットする。
この動作をするようになっただけでも偉いだろうと再び甘い自己採点をした慶一朗は、オリーブの実が食べたくなったからカップの蓋を開けて指を突っ込んで実を取り出して口に運び、指についたオリーブオイルを舐める。
「あ、美味い」
テーブルで食べるという考えも、器に盛り付けるという考えもない慶一朗だったが、流石に何度も指で摘むのも手がベタベタになると気付き、フォークを取り出してチーズに突き立てるが、エスプレッソメーカーから良い香りが立ち上っている事に気付いてマグカップを取り出すと、ミルクを注いでレンジに放り込む。
食に興味がないということは、どこでどのように食べるかにもあまり興味はなく、オーブントースターのハムがちょうど焼きあがった事に気付くと、周囲を軽く見回した後、カッティングボードを器がわりにハムを取り出して置くと、袋に入れたままのバケットを取り出してそのままかぶりつく。
せめて食べる分だけを切り分けてカッティングボードに置けばどうだと、先日日本に帰った兄の呆れたような声が脳裏で響くが、面倒臭いの一言でそれを掻き消す。
だが、先日、好奇心を丸出しでバーベキューをしたいとリアムにお願いをした時、快く準備をしてくれるだけではなく、調理も全て彼が行ってくれ、このまま食べても美味しいだろうけど、好きな食器やカトラリーで食べればもっと美味しく感じるんだと、はにかんだような笑みを浮かべたリアムの顔を思い出すと、フォークを突き立ててハムを食べようとしていた手が自然と止まる。
慶一朗にとって、皿に盛りつけようがこうして立って食べようがバケットはバケットで、それ以上でもそれ以下でもなかったが、確かにあの時リアムが準備をし、焼いてくれたハムはいつも食べているものとは全く違ったものの様な感じがしていた。
美味しいかどうかよりも、腹が膨らむかどうかで食べ物を選んでいたし、畢竟、腹が膨らむのならビールの炭酸だけでも十分だった。
なのに、今キッチンで立ったままバケットにかぶりつき、焼いただけのハムにもかぶりつこうとしている己の姿を想像すると、なんとも言えない情けない気持ちになってしまう。
育てられなかった子供と、保護者としての最低限のことだけをしていた祖母や家政婦らに言われていたが、そんなもの俺のせいじゃないと舌打ちをした慶一朗は、素直になってもお前のことを誰も見捨てないと教えてくれた友人の言葉を思い出し、ナイフを取り出してさっきはかぶりついたバケットを切り分ける。
それとオリーブの実とチーズもいくつか、セミドライトマトも同じく少しカップから取り出してボードに載せた慶一朗は、一人で座ることがほぼ無いダイニングテーブルにそれを運んで腰を下ろそうとするが、レンジの中に放置したままのマグカップを思い出して少し慌ててキッチンに戻り、エスプレッソメーカーのコーヒーをレンジから出したカップに注ぎ、コーヒーの香りに一瞬顔も心も綻んでしまう。
テーブルの向こうに置いてあるソファセットの側には等身大のお気に入りのキャラクターのぬいぐるみがあり、それがこうして食事をすることに驚いている様な気持ちになり、ドクターを呼ぶぞと憎まれ口を叩いた慶一朗は、いつも以上にゆっくりと時間をかけて買ってきたものを食べ始めるが、兄や友人の忠告には耳を貸す気が起きないのに、先日一緒にバーベキューをしたリアムが何気無く言った言葉は素直に聞き入れようと思う己が不思議だった。
だが、帰路の愛車の中で考えていたことも、今思った不思議も根幹は同じである様な気がし、考えてしまえば消化不良になると苦笑した慶一朗は、いまは食べることに専念しようと決め、成人男性の食事にしては少な過ぎるディナーを終えるのだった。
その後、リビングのソファでお気に入りの青いぬいぐるみをクッションがわりに抱え込みながら録画してあるお気に入りのSFドラマを見ていたが、いつもの様に物語に没入できず、意味が分からないが、いつまでも見ていたい、消えて欲しくないと思ってしまう愛嬌のある顔に浮かぶ笑顔に脳味噌の半分を占領されてしまう。
好きなドラマを見ている時も侵食してくる笑顔に苛立ちを覚えてもおかしくなかったが、それを感じることもなく、気がつけばドラマよりもバーベキューで何も考えることなく楽しく笑っていた時間を思い出し、自然と同じ様な表情になっていることに気付かないのだった。