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イースター休暇を控えたその日の朝、周囲のもうすぐ連休だぞ、神の子の復活を祝う祭りだとという空気に町が染まり、その空気に感染したように周囲の人々も浮かれ始めていた。
その何とも言えないそわそわした空気の中、いつものように勤務先に出勤したリアムは、ロッカーロームに向かう間にもスタッフ達とおはよう、連休はどう過ごすんだ、旅行に行くのかなどと、連休の過ごし方について問われては悩み中と笑顔で返していた。
イースター休暇は例年ならば仕事の当直などが入らない限りはデイキャンプに出掛けたり、ハイスクールや大学でいつも一緒にいた悪友たちと遊びに出かけているのだが、今年は少しその様子が変わっていた。
つい先日自覚したばかりの好意を向ける相手と、もしかすると連休を一緒に過ごせるかもしれない期待がリアムの鍛えられた大胸筋の下にひっそりと息づいていたのだ。
前の勤務先を退職し、母国に少しの間帰省するきっかけになった当時付き合っていた彼女との別れを経験してからは人を好きになったり付き合ったりという事を考える気持ちの余裕がなく、母国で幼馴染と何も考えずに遊んだり、世話になった先輩医師が同級生と飲み会をするからと、その会に誘われて友人である医師達を紹介されたりと、彼女に振られた痛みを忘れさせてもらっていたのだ。
母国で傷心を癒やしクリスマス休暇を久し振りに家族そろって過ごしてからは少しだけ前向きになったようだった。
そんな状態のリアムが次の恋を見つけたのかと半信半疑で自問自答したのは、その相手が今までとは違う、年上の同性だったからだった。
今まで己が付き合ってきたのは女性ばかりで、同性に対して好意を抱く事はなかった。
だから己が自覚した好意が同性に向けられている事実にただ驚き、何故彼を好きになったのかと自問したところで明確な返答は今のリアムにはまだ導き出せていなかった。
好きと自覚した相手と休暇を一緒に過ごせる、そう考えるだけで休暇が今までのものとは全く違うもののように感じ、デイキャンプでバーベキューをしてもいい、先日のバルコニーでやったようなものではなく、本格的なものをすればもっと喜んでくれるだろうかという淡い期待も抱いてしまう。
先日の夜、バーベキューを初めてしてみたいと好奇心に目を輝かせながら見つめられ、そんな顔をされれば断れないと内心握り拳を作ったリアムは、己にとってはバーベキューなどとは言えない程簡単に肉やハムやシーフードを焼いたのだが、彼はそれだけでも嬉しかったようで、あまり食に興味はないとの言葉を証明するように、初めて食べるようなそれらが美味しいと、ただ楽しく美味しそうに食べてくれていたのだ。
その顔を傍で見ているだけで満足できたリアムだったが、一日時間を気にせずにキャンプでそれをすればあの笑顔をもっと見ることが出来るのだろうかという、彼が喜んでくれること以上に己がその笑顔を見たいとの思いが芽生えて一つ苦笑したリアムは、ロッカールームのドアを開けて壁際のロッカーの前に向かうと、窓の横の壁に背中を預けて腕組みをしている痩身を発見し、自然と綻ぶ顔のまま手を挙げる。
「モーニン、ケイ」
「・・・あ、ああ、おはよう、リアム」
壁に凭れて眉を寄せていたのは、つい今しがた脳内で笑顔を見たいと願っていた彼、慶一朗で、朝一番に難しい顔をしてどうしたと小首を傾げつつ己のロッカーを開けたリアムは、声に出して疑問を伝えると、組まれていた腕が伸ばされ、片手が拳の形に変化して突き上げられる。
「ケイ?」
「・・・遊びすぎた」
「は?」
聞こえてきた欠伸交じりの声にリアムが素っ頓狂な声を上げてその顔を見れば、大きな欠伸を堪えも隠しもしないで一つした慶一朗が猫か何かのように伸びをし、遊びすぎたと二度目の欠伸交じりに呟く。
「・・・夜中出て行ったような音が聞こえたけど、遊びに行ったのか?」
「ん? ああ、良く分かったな」
なるべく静かに出て行ったつもりだったが、聞こえていたかと、住んでいる部屋が壁一枚を隔てた隣同士だからこそ把握できた事情を呟けば、慶一朗が一つ肩を竦めて三度目の欠伸をする。
「そんなに欠伸ばかりして大丈夫か?」
「大丈夫だろ」
その辺は一応大人だから大丈夫だし頑張るだけだと笑う慶一朗に呆れたように溜息をついたリアムだったが、ちらりと見た横顔は自信に満ちていて、今までの欠伸混じりのそれがただの言葉遊びだと気付く。
己が好きになった年上の同性である慶一朗は、仕事上では超がつくほど優秀な同僚の医師であり、プライベートでは隣のフラットに住んでいた。
仕事でもプライベートでも接点ばかりが目立つ存在の慶一朗に、連休の予定について話をしようとリアムが口を開いた時、慶一朗が首からぶら下げている医療用の携帯が振動する。
「ハロゥ」
『ドクター・ユズ? 救急外来に頭部損傷の患者が来ました』
傍にいるリアムにまで届くような切羽詰まった声が流れ出し、二人同時に顔を見合わせると患者の容態について救急担当のスタッフの言葉が聞こえ、慶一朗が伝えられるその情報を脳味噌に叩き込みながらリアムへと一度目を向け、緊張と別の感情が滲む目で見つめられている事に気づいて鍛えられている上腕を一つ叩く。
「・・・今ロッカールームにいる、すぐに行く。オペの準備もしておいてくれ」
スタッフの切羽詰まる声にも冷静に返事をし、一度携帯を耳から離した慶一朗は、先ほど軽く叩いたリアムの腕を今度は撫でてその手を挙げロッカールームを出て行く。
ドアが閉まる直前に見えた横顔は、優秀な脳神経外科医の顔で、それを見たリアムの呼吸が一瞬止まりそうになるが、己も外来の診察が始まる時間が近づいている事に気づき、救急の患者の様子を気にしつつも診察室へ向かうためロッカーロームを出るのだった。
その日、リアムは己の診察を受けるために遥々訪れた患者や、入院している患者の診察などでランチタイムもゆっくり食事がとれない程の忙しさだった。
ロッカールームで別れた慶一朗に連休の話をするどころか、救急の患者の話を聞く暇もなく、看護師らがひそひそと話す言葉の断片しか耳に入ってこなかった。
だから、運ばれてきた患者が行政の支援が入っている難しい家庭の子供であり、両親による虐待の結果、頭部を負傷し病院へと運ばれてきたこと、両親は子供への虐待の罪で警察に逮捕されたことを、帰宅した夜のニュースキャスターの沈痛な声に教えられるまで知ることは出来ないのだった。
やけに忙しかった一日の業務を終え、精神的な疲労を解消するために自宅に帰ったリアムは、愛車を己の駐車スペースに停めて自宅に戻ろうと階段を上っていくが、隣の駐車スペースに赤いセダンタイプのスポーツカーはなく、慶一朗も朝一番の患者の対応やそれ以外の患者への対応で忙しいのかと思案しつつ鉄のフェンスを開けて玄関のドアを開け中に入ると後ろ手でドアを閉めて鍵も閉めるが、車と家の鍵が付いたキーホルダーを無意識にジーンズのポケットに突っ込んでしまう。
通勤時に使うバッグを壁際のベンチに投げ出し、リビングを突っ切ってバスルームに入ると、手と顔を洗って気分転換を図る。
連休前の駆け込み受診なのか、今日の忙しさは一体何だったと微苦笑しつつバスルームから出てきたリアムは、キッチンの冷蔵庫からビールを取り出してプルタブを開けつつリビングのソファに腰を下ろし、テレビのリモコンを手に取る。
テレビは夕方の報道番組や子供向けのアニメ番組などがいくつかのチャンネルで流れていて、リモコンのスイッチを最後に押した時、女性キャスターの痛ましそうな声がニュースを読み上げる。
ビールを飲んで一息ついたリアムの耳に流れ込んできたのは、職場近くの住宅地に暮らす夫妻を自分の子供への虐待容疑で逮捕したという悲しい事件を伝える声で、何となく画面へと目を向けると、複数の警官とその警官らに事情を聞かれている近所の人達が声を潜めて何か語っている姿が映し出されていた。
児童虐待のニュースは毎日といっても過言ではない程目にすることもあり、またかと、決して慣れてはいけない事なのに心が慣れてしまっているかのような言葉を呟くが、虐待を受けた子供は緊急搬送されて手当てを受けているが意識不明の重体であることを、感情を押し殺したような声でキャスターが伝えた時、リアムの心の琴線に何かが触れ、思わず前のめりになってソファに座りなおす。
テレビではキャスターやコメンテーターが並ぶスタジオが映され、その背景にあるモニターには子供が緊急搬送されたらしき病院が映っていて、病院から道路を隔てた通りでマイクを構えるキャスターが事件について報道しているが、それが己の勤務先であることに気付き、ジーンズの尻ポケットに突っ込んであったスマホを取り出してまさかと思いつつ、朝一番にロッカールームで言葉を交わして以来顔を見ることも声を聴くことも出来なかった友人、慶一朗に電話をかける。
子供の手術は終わったものの意識が戻っていない事、この家族は支援が必要だと判断されていて行政の支援対象になっていたのだが、こんな事件が起きてしまった事をどのように判断すべきか、行政の落ち度はなかったのかなど、今のリアムの耳には右から左への情報がテレビから流れてくる。
慶一朗へ掛けている電話は呼び出し音が回数を重ねていくだけで、まだ病院に残っているのかと思案するが、車のドアが乱暴に閉まる音が響き、ほどなくして鉄のフェンスと玄関のドアが音高く開閉する音が聞こえてきたことから、慶一朗が帰ってきた事に気付いたリアムは、帰ってきたのなら良かったと胸を撫でおろす。
おそらく、朝一番に緊急搬送されてきた頭部を負傷した患者は、ニュースで報じられた虐待された子供だろう。
その執刀を任された慶一朗がこうして帰ってきたという事は、意識を取り戻し、当直の医者に任せても大丈夫だと判断したからだろうと溜息を吐く。
ニュースでどうして守れなかったと大人達が反省する−または振りをしている−子供は意識を取り戻し一命を取り留めたのだろう。
だが、己のその考えが甘いものであったとリアムに気付かせたのは、壁一枚を隔てた隣のフラットから響いてきた聞き覚えのある何かが壊れる物音だった。
「─────!!」
テレビの音に負けそうなそれにソファの上で一瞬耳をそばだてたリアムだったが、続いて聞こえてきた悲鳴のような声に聞き間違いでも幻覚でもないと気付き、ソファから飛び上がるとその勢いのまま階段を駆け上がり、ベッドルームに飛び込むとクローゼットのドアを開け放つ。
今リアムの聴覚が捉えたのは、以前慶一朗と危うく仲違いをしそうになったきっかけの音だった。
慶一朗の部屋と壁一枚で接しているクローゼットのドアを開けると、階下にいた時よりも大きくはっきりと物音が聞こえてくる。
それは、リアムの胸を締め付ける、聞くことも辛いと思わせる慶一朗の悲鳴だった。
明確な言葉と言うよりは音の羅列だったが、その声を初めて聞いた時の様にリアムの胸を一気に締め付け、どうすればいい、何が出来る、と周囲を意味もなく見回してしまうほど、リアムを慌てふためかせるだけの力を持っていた。
己が仕事で接する子供達が癇癪を起こした時の方がもっと落ち着いて対処ができると、後日己を笑ってしまうリアムだったが、今はそんな冷静さを保てず、どうすればあの声を止める事が出来るのかを考えるだけで頭の中は一杯だった。
耳を塞ぎたくなると言うよりは、傍にいることで悲鳴を止められるのならば。
傍にいるだけではなく、抱きしめることで、傷を負ったであろう心を守る事が出来るのであれば。
珍しく周章狼狽しつつ脳味噌から胸へと何にも邪魔をされる事なく垂直落下した、守りたいとの言葉にリアムが動きを止め、そうかと不意に納得してしまう。
初めてあの声を聞いた時、胸が締め付けられ思わず隣の部屋に駆けつけようとしたのも、今どうすればいいと慌てふためくのも、全ては友人であり好意を自覚したばかりの慶一朗を守りたいと思ったからだと気付き、守られる必要がある子供でもないのにと、冷静な己が真意を探る様に呟きを発する。
確かに彼は己と専門は違っても優秀な医師であり、患者やスタッフらの信頼も篤い男だった。
彼からすれば若輩と思われかねない己が守りたいなどといえば、調子に乗るなと怒りを覚えるかも知れなかった。
だが、それらすべてを理解した上で、守りたいと思ってしまったのだ。
自分よりも人生経験もあり優秀な、だけどどこか危なっかしさも感じさせる杠慶一朗という、今まで己の周囲にはいなかった不思議な存在の彼を、いつも傍にいて守りたいと、今まで経験した事がない様な強さで願ってしまい、無意識に拳を握っていたリアムは、大きな手を開いて掌を見下ろすと同時に決意をする。
身体を丸めて子供の様に叫んでいるだろう彼を、己が持てる力で守りたい。
その為には慶一朗に気付いてもらわないといけないが、先ほど電話をかけても出なかったことから、もう一度かけても出ないことは明白だった。
ならば、隣に住んでいる利点を生かすしかないと、これもまた落ち着いて考えればただの不法侵入になる様なことを考え、実行する為にとベッドルームを飛び出して階段を駆け下り、リビングに脱ぎ捨てていた靴に足を突っ込んで階段を駆け上がると、開け放たれたままのクローゼットの中に入り、握りしめた拳で壁を一度殴ると、聞こえていた悲鳴も物を壊す音もピタリと止まる。
「ケイ! 今からそっちに行く!」
いきなり押しかけるのも、ドアベルを鳴らし続けるのも近所迷惑になるからとも叫んだリアムの耳に、何が何だか理解が出来ていない様な声がリアムかと問いかけてきた為、俺しかいないと返しつつベッドルームからベランダに出る窓を開けて気合いを入れる様に両頬を叩く。
「よし!」
気合い十分と頷き、ベランダに置いた収納ボックスに上がると、落下しない様に気をつけながらベランダの手すりに立ち上がり、隣との仕切りになっている壁から顔を少しだけ突き出し、隣のベランダに何もないことを確かめると、長い手足をフル活用して壁を乗り越えて隣のベランダに降り立つ。
人の家にベランダから入るなんて初めての経験だと自嘲しつつカーテンが開いていたために見えた室内の無残な様子に息を飲むが、その部屋の中央で呆然とこちらを見ている慶一朗に気付くと、鍵を開けてくれと指差す。
冷静になれば不法侵入だしいきなりベランダから入ろうとする男など恐怖以外の何物でもないが、この時冷静さを欠いていたのはリアムだけではなく慶一朗もだったのか、のろのろと窓の前にやってきたかと思うと、素直に鍵を開けて掃き出し窓も開けてくれた為、ダンケと母国語で礼を言いつつ開けられた窓から室内に入るが、室内の惨状に言葉を無くしてしまう。
「・・・何があった?」
隣から聞こえてくる物音と悲鳴に心が奪われ行動に移してしまったリアムだったが、一体何があったと問いかけながら俯いたままの慶一朗に問いかけると、自嘲交じりの吐息がこぼされ、前髪をかき揚げながら慶一朗が迷惑をかけたと呟く。
「いや、迷惑なんてことはないけど・・・」
それを言えばベランダから押し掛けた己のほうが迷惑だと肩を竦めようとしたリアムの目に薄暗い室内でもはっきりと分かるものが飛び込んできて、脊髄反射のように前髪を抑えている手を掴むと、目に飛び込んできたものを確かめるように顔に近づける。
「・・・離してくれ」
「・・・救急箱はどこだ?」
慶一朗の小さな声を無視して救急箱はどこだと強い声を出したリアムの耳に、これぐらい手当なんかしなくても大丈夫だと、医師としてあるまじき声が聞こえ、思わず声の主を睨むように見下ろすと、そこには予想に反した笑みを浮かべる端正な顔があった。
その顔を見たリアムの脳裏に、決して消えることのない笑みが明瞭に浮かび上がり、目の前で見せられているものと重なり合った結果、リアムの胸を締め付ける。
何故、全ての罪を背負ったような顔で笑うのだろうか。
この間突発的に二人でしたバーベキューの時には、あんなにも楽しそうに笑っておいしそうに料理を食べていたのに、何故今こんなにも苦しそうな顔で笑っているのか。
苦しいのならば、辛いのならば笑わなければ良いのに。
リアムのことを良く知らない者や積極的に嫌っている者からは、脳まで筋肉ではないかと嘲りを受ける事がある脳味噌をフル回転させた時、そうしなければならない状況に身を置いていたのではないかという疑問が芽生え、助けることが出来なかったこんな手など役に立たないから必要ないと笑いながら呟かれた時、たった今考えていた事の全てが吹き飛び、気が付けば笑いに揺れる痩躯を抱きしめてしまう。
「・・・離せ」
「嫌だ」
帰宅直後にリアムが目にした痛ましいニュース。慶一朗は壁を殴ったことで皮膚が裂けて血を流すその両手で、砂粒のように流れ落ちていこうとする命を全力で引き留めようと奮闘しただろうが、子供を助けることはできなかったのだろう。
己を保護してくれる筈の両親から受けた虐待は、たった十年という短い時間を子供に与え、無情にも奪い去ってしまったのだ。
ニュースを見聞きしただけでも心が痛む出来事だったが、理不尽に傷つけられた幼い命を救おうと懸命に向き合った慶一朗をはじめとしたスタッフ達は、きっと己の無力感に苛まれているのではないかと眉を寄せてしまうが、今はここにいないスタッフの心を気遣うよりも、腕の中で離せと小さく呟きながらもがく慶一朗の心を守りたかった。
何度となく離せと言い募る慶一朗に、守りたい一心で嫌だと返していたリアムの耳に、諦めた様な声が流れ込んで胸を撫で下ろそうとするが、お前も変わっている、こんな役立たずな俺など構う必要はないと続けたため、お前は役立たずなんかじゃないと、いつも職場で見ている優秀な脳神経外科医の横顔を思い浮かべながらその言葉を否定すると、距離を取るように胸に両手をついた慶一朗が、未だかつて見たことがない表情でリアムを睨みつける。
「役立たずだろう!? そうじゃないというのならどうしてあの子を助けられなかった!?」
たった十年。そんな短い人生を生きるためにこの世に生まれてきた訳じゃない。それなのに俺はあの子を助けられなかったと、激烈な怒りを双眸に込めて己を睨みつける慶一朗に、こんな時なのに目も心も奪われてしまったリアムは、確かに十年は短すぎると呟き、己と慶一朗の心の距離のように開く、腕を伸ばした分だけの空間に肺を空にするような息を吐きだす。
「俺は、役立たずじゃないと思う」
「どうしてそう言える?」
出会ってまだ何か月、それぐらいしか一緒に仕事をしていないお前に何が分かると苦く笑われ、確かに何もわからないと頷くと、だったら分かったようなことを言うなと胸を突かれてしまうが、その手首を軽く力を込めて握りしめる。
「・・・離せ」
「確かに、まだ俺はお前のことを何も知らない。でも、一緒に仕事をしている人たちから見聞きするお前の有能さは理解できる」
脳味噌まで筋肉と陰で笑われる俺の脳味噌でもそれぐらいは理解できると珍しく自嘲すると、慶一朗の色素の薄い目が限界まで見開かれる。
「今まで救ってきた命の数に比べれば、なんて言い方は絶対にしたくない。あの子の命はあの子だけのものだ。でも・・・お前に救われた命も沢山あるはずだ」
だから、救えなかった悔しさや怒りから己を役立たずだと蔑むのではなく、今回の事が無駄にならないように次の命を救えばいいと告げ、呆然と見上げてくる顔に一つ頷き、今度はそっとその背中に腕を回して抱き寄せる。
「・・・だから、悲しいからって自分は役立たずだなんて言うな」
何度も繰り返すが、お前に救われた命は間違いなく存在しているんだからと、柔らかな髪に口を寄せて祈るように囁くと、肩に顔を押し当てられる。
「・・・あの子を、助けたかった」
「そうだな・・・残念だな」
「・・・・・・そうじゃない」
肩口からくぐもった声で告白される言葉に一つずつ頷いていたリアムだったが、そうじゃないと否定されてどういうことだと小さく問えば、何かを躊躇うように口が開閉した後、自分もそうだったからと続けられて意味が理解できずに顔を覗き込んでしまう。
目の前で俯き加減に口の両端だけを持ち上げている慶一朗の顔を覗き込んだリアムは、まただと先ほどの思考が蘇り、どうしてそんな顔で笑うんだと呟いてしまう。
「・・・え?」
「どうしてだ、ケイ。どうしてそんな顔で笑う?」
辛く苦しいときに笑う必要があるのかと、リアム自身が苦痛を感じているような顔で悔しさを滲ませながら問いかけると、血が幾筋も流れを作る手の甲で慶一朗が己の頬を撫でる。
「笑ってるか?」
一体何がお前にそんな不自然な笑みを浮かべさせるんだ、どうしてそんな苦しそうに笑っているんだと、抑えようにも抑えることのできない疑問を投げかけたリアムは、笑っているとは思わなかったと驚きの言葉を返されて目を丸くする。
「────癖、だな」
自分の感情を素直に出すことなど、限られた相手の前で無い限りは無かったと苦笑する慶一朗の頬を両手で挟むと、一瞬だけ躊躇うように視線を泳がせた後、自嘲気味に肩を揺らし始める。
「・・・・・・あの子を助けたかった、それは嘘じゃない」
両親から虐待を受けて短い生を終えてしまった子供、彼を助けたかったのは本心だが、それ以上に助けたい理由があったと笑われ、それは何だと問いかけると、ガラスやジオラマの破片が散らばる床を見下ろし、長くなるからリビングに行かないかと提案されてリアムが我に返る。
「あ、ああ、そうだな。お前の傷の手当もしなきゃいけないしな」
「手当は・・・・・・」
「必要ないという言葉こそ必要ないぞ」
子供みたいな事を言ってないで手当をするぞと言い放ち慶一朗の反論を封じたリアムは、破片を踏まないように気をつけつつ部屋を出て行こうとするが、慶一朗の足元を見て目を丸くし、深く溜息を零した後、掛け声一つで痩躯を軽々と抱き上げる。
「・・・・・・っ!!」
「足の裏の手当も追加でしたくないだろう?」
リビングに行くまでの我慢だと苦笑しつつ今度も反論を封じたリアムは、大人しくなった慶一朗に内心感謝しつつ注意を払いながら階段を降り、大きなぬいぐるみが不思議そうに見つめてくるリビングのソファに慶一朗を下ろすと、救急箱の在り処を聞き出し、血が乾き始めている傷口の手当をするのだった。
どうやら雨が降り始めたようで、窓を流れ落ちる雨の音を聞きながら、二人どちらも口を開くことは無く、ただ静かな雨音がリビングにひっそりと響くのだった。