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何度も足を運んだことのある恋人のアパート。お得意様の恭介を送ったあとに寄ったので、当然遅い時間帯になるわけなのだが――。
「雅輝の喜ぶ顔が見たいという理由だけで、ここに来ちまうんだよな……」
なんとはなしにポツリと呟いてから、インターフォンを押す。こんな時間に訪問する相手はひとりしかいないゆえに、間を置かずに扉が開かれることが予想できた。
「えっ?」
扉が開いたと同時になされた抱擁に、疑問符が頭の中に浮かぶ。
いつもなら扉が開いた瞬間に俺から「よぉ!」なんていう威勢のいい挨拶をして、雅輝は「陽さん、こんばんはです」とどこか照れくさそうに、もじもじしながら挨拶をかわすのが日常化していた。
「雅輝どうした?」
小さな荷物を手にしていたが、広い背中に腕を回して、ゆっくり撫でさすってやる。それなのに俺の躰に巻きついた二の腕から、力がまったく抜けなかった。
「雅輝、とりあえず中に入ろう。大丈夫か?」
上擦った声をかけながら、雅輝を引きずる形で玄関に入り、苦労しながら扉を閉めた。
(逢わない間に、なにかあったことは確かだ。LINEで毎日やり取りしていても、お互い仕事をしてるから時差はかなりある。まずは――)
顔の傍にある恋人の様子を窺いたかったが、自分の肩口に顔を押しつけているせいで、見ることはできなかった。
「とりあえず、この状況になった理由を説明してくれ。なにかしてやりたくても理由がわからきゃ、なにもできないじゃないか」
「……エンプティランプが点灯中なんです」
「は?」
「だからこうして、陽さんを堪能してるんです」
エンプティランプ(燃料残量警告灯)は、メーターについている燃料が減ってきた際に点灯する警告灯のことで、車に乗っている人間ならすぐにわかるものなれど、雅輝のセリフの意味を理解するには、本人からの懇切丁寧な説明が必要不可欠だった。
しかもときには、ド直球で気持ちを告げられるせいで、心の準備をしておかなければならなかったりする。
「雅輝悪いが、おまえの言ってる意味がさっぱりわからん。ある程度堪能し終えてからでいいから、意味を教えてくれないか?」
恐るおそる説明を促した言葉を聞いた途端に、躰に回されている二の腕が離れた。
「陽さんは、俺が足りないときはない?」
「雅輝が足りないとき?」
「うん。今日ね、偶然仕事中の陽さんを見かけたんだ。某銀行の前で、お客さんを降ろしたでしょ?」
どこかやるせなさそうな面持ちが、目の前にあった。そんな恋人を前にして、どんな顔をしていいのかわからなくなる。
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