小学1年生のときに交通事故にあいそうになって、
そのときに助けてくれた、同い年の男子が今でも、忘れられない。
親が小説家で転校を繰り返している。
親の小説は世界的に有名。
優しく、よく男子にからかわれている。
親は資産家で、瑠々の親の小説の大ファン。
瑠々を小さい頃に助けた。
朔夜の住んでる地域で有名なヤンキー。
みんなには怖がられてるけど、瑠々だけには優しい。
サッカーがうまく、爽やかイケメン男子。
誰にでも優しく、人気者。
ちょっとチャラい。いわゆる、高嶺の花。
クラスの女王様的存在で、裏では「ボス」と呼ばれている。
ひそかに男子には嫌われている。
颯天のことが好き。それと瑠々の親の小説が好き。
「じゃあ、今日から新しい仲間が増えます。自己紹介、お願いね」
担任の大河原先生がそう言うと、教室のドアが勢いよく開いた。
「はーい!如月瑠々です!転校ばっかで慣れてるんで、よろしくねっ!」
明るくて元気な声が教室に響く。 一瞬の静寂のあと、ざわざわとした笑いが広がる。
「なんか…テンション高くない?」 「でも、かわいい…」 「転校生ってもっと静かなもんじゃない?」
瑠々は気にしない。むしろ、笑ってる子たちに向かって手を振る。
「笑ってくれてありがと〜!あ、絵描くの好きだから、暇な人は声かけてね!」
そんな彼女に、教室の隅から鋭い視線が向けられる。
黒い制服をラフに着こなし、腕を組んで座る男子——氷室朔夜。
「……うるさいやつが来たな」
朔夜は目を細める。 その瞬間、瑠々がカバンからスケッチブックを落とす。
ページが開き、そこには——
「……この絵……」
朔夜の目が止まる。 そこに描かれていたのは、夕暮れの横断歩道。 手を差し伸べる少年の後ろ姿。
「……なんか、見覚えあるような……」
朔夜は、幼い頃の記憶を思い出す。 小学1年生のある日、飛び出した女の子を助けたこと。
泣いていた声、握った手の感触。 でも、顔は見ていない。
「……まさか、な」
その様子を見ていたのは、もう一人の男子——河野颯天。 爽やかな笑顔で、瑠々に近づく。
「瑠々ちゃん、元気だね!俺、颯天。サッカー部!よろしく!」
「おっ、イケメン発見。よろしくね〜!チャラそうだけど、いい人っぽい!」
颯天は笑いながら「チャラくないって!」と返す。 女子たちがざわつく中、教室の奥で静かにそれを見つめる月城沙羅。
完璧な髪型、完璧な姿勢。 だけどその目は、颯天と瑠々の距離に、わずかに揺れていた。
「……あの子、ただの転校生じゃないわね」
沙羅は、瑠々の親が書いた小説の一節を思い出していた。 そして、スケッチブックの絵に目を留める。
「……あの絵、見たことある……」
昼休み。 教室のざわめきの中、瑠々はスケッチブックを広げて、黙々と絵を描いていた。
描いているのは、夕暮れの横断歩道。 そして、そこに立つ少年の後ろ姿。
「……もう何回描いたんだろ、これ」
瑠々は小さくつぶやく。 あの日の記憶は、ずっと心に残っている。 助けてくれた少年の顔は思い出せない。
でも、あの手の温もりだけは、今でも鮮明だった。
「それ、あんたが描いたの?」
声がして顔を上げると、そこには月城沙羅が立っていた。 完璧な姿勢、冷たい視線。
でも、どこか興味を持っているようだった。
「うん。昔の記憶。……っていうか、沙羅さんって漫画好きなんだよね?」
沙羅は少しだけ目を見開いた。
「……なんでそれ、知ってるの?」
「なんとなく。雰囲気?」
沙羅は一瞬黙ったあと、スケッチブックをじっと見つめた。
「……その絵、見たことある気がする。……あの小説の挿絵に、似てる」
瑠々はドキッとした。 親が書いた小説の挿絵を、こっそり描いたことがある。 でも、それは誰にも言っていない。
「……気のせいじゃない?」
沙羅は何も言わず、静かにその場を離れた。
一方、教室の隅では氷室朔夜が窓の外を見ていた。 ふと、瑠々の絵が目に入る。
「……あの絵……」
夕暮れの横断歩道。 手を差し伸べる少年の後ろ姿。
「……なんか、見覚えあるような……」
朔夜の記憶が揺れる。 あの日、助けた女の子。 泣いていた声。震える手。 でも、顔は見ていない。
「……まさか、な」
朔夜は首を振って、記憶を追い払う。 瑠々のことは、ただのうるさい転校生。 そう思い込もうとしていた。
でも、心の奥が、ざわついていた。
チャイムが鳴り、教室がざわつき始める。
「じゃあ、また明日〜!」と声をかける瑠々に、何人かの男子が自然と集まってきた。
「瑠々ちゃん、駅まで一緒に行こうぜ!」 「俺んち、途中まで同じ方向だし!」 「絵の話もっと聞きたい〜!」
「え〜、みんなで帰るの?なんか修学旅行みたいじゃん!」
瑠々は笑いながら、スケッチブックを抱えて立ち上がる。 颯天もそこに加わる。
「じゃあ、俺も行く!てか、瑠々ちゃんってマジで面白いよね」
「え、褒めてる?それともイジってる?」
「もちろん褒めてる!……たぶん」
笑い声が響く中、瑠々は男子たちと一緒に昇降口へ向かう。 その後ろ姿を、教室の窓から朔夜が静かに見ていた。
「……あいつ、すげぇな。初日であんなに馴染むか?」
朔夜は腕を組んだまま、目を細める。 瑠々の笑顔。スケッチブック。あの絵。 心の奥に、何かが引っかかっていた。
「……なんか、懐かしいような……」
でも、朔夜はその違和感を振り払うように、窓から目をそらした。
「関係ねぇし」
そうつぶやいて、教室をあとにする。
「じゃあ、また明日ね〜!」
瑠々は笑顔で手を振りながら、男子たちと駅へ向かって歩いていた。 颯天が中心になって話を盛り上げ、他の男子もそれに乗っかる。 瑠々はその輪の中で、自然に笑っていた。
「転校生って、もっと静かなもんかと思ってたけどさ」
「瑠々ちゃん、マジで面白いよな」
「絵もすごいし、話してて飽きない!」
「え〜、褒めすぎじゃない?照れる〜!」
笑い声が響く帰り道。 その少し後ろを、朔夜が歩いていた。 一人で、イヤホンを片耳に入れたまま。
「……あいつ、初日であれかよ」
朔夜はつぶやく。 瑠々の笑顔。スケッチブック。あの絵。 心の奥に、何かが引っかかっていた。
「……あの時の……いや、顔なんて見てねぇし」
そのとき、瑠々の隣にもう一人の女子が現れた。
「瑠々〜!待ってたよ!」
元気な声。ポニーテールの少女が駆け寄ってくる。 春野ひより——瑠々の親友で、前の学校でも一緒だった。
「ひより!来てくれたんだ!」
「うん、近くに住んでるからさ。てか、男子に囲まれてるし!さすが!」
「いや〜、なんか気づいたらこうなってた」
ひよりは笑いながら、瑠々のスケッチブックをチラッと見る。
「それ、また描いてたの?あの“横断歩道の少年”」
「うん……やっぱ、忘れられないんだよね」
その言葉に、朔夜の足が一瞬止まる。 “横断歩道の少年”——そのフレーズが、記憶の奥を刺激する。
「……まさか……」
でも、朔夜はそのまま歩き出す。 まだ、気づいていない。 瑠々が“あの時の女の子”だということに。
放課後の教室。 沙羅は窓際の席で、静かに文庫本を読んでいた。
その表紙には、如月圭一郎——世界的に有名な小説家の名前。
「……やっぱり、あの絵。似てる」
沙羅は、昼休みに見た瑠々のスケッチブックを思い出していた。 あの挿絵にそっくりだった。
でも、如月圭一郎の娘が、こんな普通の学校に転校してくるなんて——
「……まさかね」
そのとき、朔夜が教室に戻ってきた。 沙羅はちらりと彼を見て、声をかける。
「氷室くんって、如月圭一郎の小説、読んだことある?」
朔夜は少し驚いた顔をして、うなずく。
「……親が好きで、家にいっぱいある。俺も何冊か読んだ」
「じゃあ、“夕暮れの約束”って知ってる?」
「……ああ。横断歩道のシーンが印象的なやつ」
沙羅は、意味ありげに微笑む。
「その挿絵、如月圭一郎の娘が描いたって噂、聞いたことある?」
朔夜は目を細める。
「……それって、まさか——」
その瞬間、廊下から瑠々の笑い声が聞こえてきた。 男子たちとふざけながら、スケッチブックを抱えて歩いている。
朔夜はその姿を見て、心の奥がざわついた。
「……まさか、あいつが……?」
その夜。 朔夜は家に帰ると、本棚から“夕暮れの約束”を取り出した。 挿絵をじっと見つめる。
「……この絵……今日、見たやつと……同じだ」
そして、ページの隅に小さく書かれた名前に気づく。
Illustration by R.K.
「R.K……如月……?」
朔夜の心に、初めて“疑い”が芽生えた。
放課後、昇降口。 瑠々は靴を履きながら、スケッチブックを小脇に抱えていた。 その横に、珍しく朔夜が立っていた。
「……あんた、絵、描くんだな」
「え?うん、まあね。暇さえあれば描いてるかも」
「……“夕暮れの約束”って小説、知ってるか?」
瑠々は一瞬、手を止めた。 そのタイトルは、親の代表作のひとつ。 でも、知らないふりをする。
「うーん、聞いたことあるような…ないような?なんで?」
朔夜は目を細める。
「その挿絵、見たことある。……お前の絵に、似てる気がして」
「え、マジ?それって…褒めてる?」
「……まあ、悪くはない」
瑠々は笑ってごまかす。
「そっか〜、ありがと。でも、そんな有名な小説の絵に似てるなんて、私の絵もレベル上がったかも?」
朔夜はその反応を見て、少しだけ首をかしげる。
「……R.Kって、誰なんだろうな」
「……さあ?ロマンチック・キングとか?」
「それはねぇだろ」
ふたりは笑いながら、昇降口を出る。 その空気は、少しだけ柔らかくなっていた。
朔夜はまだ気づいていない。 でも、瑠々の心は少しだけ、期待していた。
「いつか、気づいてくれるかな」
その日、瑠々はひよりと一緒に隣町の文房具店へ出かけていた。
スケッチブックの紙が切れたから、ちょっと遠くまで足を伸ばしただけ。
でも、帰り道でひよりが先に帰ってしまい、瑠々は一人になった。
駅前の細い路地。 そこに、数人の見知らぬ男子が立っていた。
「おい、そこの子。見ない顔だな」 「絵描いてんの?ちょっと見せてよ」
「え、いや…ちょっと急いでて…」
瑠々は笑ってかわそうとしたけど、空気が変わった。 男たちは、隣町で有名なヤンキーグループだった。
「逃げんなよ。ちょっと話すだけだって」
そのとき——
「……その子、俺の知り合いなんだけど」
低い声が路地に響いた。 振り返ると、そこには氷室朔夜が立っていた。
制服の上着を脱ぎ、腕まくりをして、目は鋭く光っていた。
「……氷室……!」
ヤンキーたちが一瞬、顔をこわばらせる。 朔夜の名前は、この辺りじゃ知らない者はいない。 “地元最強”と呼ばれる男。
「その子に手ぇ出したら、後悔するぞ」
静かな声。でも、圧が違った。 ヤンキーたちは顔を見合わせ、舌打ちして去っていった。
瑠々は呆然と立ち尽くしていた。
「……さくや……?」
「……大丈夫か?」
朔夜は、いつもの無愛想な顔のまま、瑠々のスケッチブックを拾って差し出した。
「……ありがとう」
「……別に。たまたま通りかかっただけだし」
瑠々は、朔夜の手がほんの少し震えていたことに気づく。 そして、心の奥に小さな疑問が浮かぶ。
「……あの時の少年と、同じ…?」
でも、まだ確信はない。 ただ、朔夜の背中が、あの日の記憶と重なって見えた。
翌日。 瑠々は少しだけ元気がなかった。 昨日の出来事——隣町でヤンキーに絡まれたこと。 そして、朔夜に助けられたこと。
「……なんで、あんなにかっこよかったんだろ」
でも、朔夜は今日も無愛想で、何も言ってこない。 まるで昨日のことなんてなかったみたいに。
昼休み。 瑠々が一人でスケッチブックを開いていると、颯天が声をかけてきた。
「昨日、大丈夫だった?なんか顔色悪いよ」
「え?あ、うん。ちょっと疲れただけ」
颯天は隣に座って、瑠々の絵をのぞき込む。
「それ、昨日の絵?」
「うん……夕暮れの路地。ちょっと怖かったけど、描いてみた」
颯天は静かにうなずいた。
「瑠々ちゃんって、強いね。怖かったはずなのに、絵にできるなんて」
「……強くなんかないよ。ほんとは、めっちゃ泣きそうだったし」
「でも、泣かなかったでしょ?それって、強いってことだよ」
瑠々は、颯天の言葉に少しだけ救われた気がした。 朔夜は何も言わなかった。 でも、颯天はちゃんと見てくれている。
「……ありがと」
その瞬間、沙羅が遠くからふたりを見ていた。 静かに、でも確かに、目が揺れていた。
「……また、あの子」
沙羅の心に、小さな火が灯った。
昼休み。 教室の隅で、沙羅は静かに本を読んでいた。 ページをめくる手は、いつも通り丁寧。
でも、視線は何度も、ある方向へと逸れていた。
——如月瑠々。 転校してきたばかりなのに、男子たちと笑い合っている。 特に、颯天と。
「……また、あの子」
沙羅はページを閉じた。 本の内容が、頭に入ってこない。
颯天は、沙羅にとって“特別”だった。 誰にでも優しいけれど、沙羅には少しだけ違う笑顔を向けてくれていた。
そう思っていた。
でも、今—— その笑顔は、瑠々に向けられている。
「……あの子、何者なの?」
沙羅は立ち上がり、ゆっくりと教室を出た。 廊下の窓から、瑠々と颯天が並んで歩く姿が見える。
颯天が笑っている。 瑠々も笑っている。 その距離は、昨日よりも近い。
「……絵が上手いだけじゃない。人を惹きつける何かがある」
沙羅は、ポケットからスマホを取り出す。 検索欄に、そっと打ち込む。
“如月圭一郎 娘”
画面に表示された記事。 そこには、小さく——
“娘が描いた挿絵が話題に”
沙羅の目が細くなる。
「……やっぱり、あの絵。あの子が描いたのね」
その瞬間、沙羅の中で何かが決まった。
「なら、私が確かめる。あの子が、どこまで本物なのか」
放課後。 沙羅は図書室の窓際に座っていた。 手元には、如月圭一郎の小説『夕暮れの約束』。
そして、その隣には、瑠々の描いた絵をスマホで撮った画像。
「……やっぱり、同じ」
沙羅はページをめくりながら、静かに考えていた。 颯天が笑っていた。 瑠々と一緒に。
あの笑顔は、沙羅が見たことのないものだった。
「……なら、確かめるしかない」
その瞬間、図書室のドアが開く。 瑠々が入ってきた。
「わっ、沙羅さんもいたんだ。……邪魔しないようにするね」
沙羅は本を閉じて、ゆっくりと立ち上がる。
「如月圭一郎の小説、読んだことある?」
瑠々は一瞬、動きを止めた。
「え?……うん、まあ、ちょっとだけ」
「“夕暮れの約束”の挿絵、見たことある?」
「……あるよ。すごく綺麗だった」
沙羅は、スマホの画面を見せる。 そこには、瑠々が昼休みに描いていた絵。
「これ、あなたの絵よね?」
瑠々は、少しだけ笑ってごまかす。
「似てるだけかも。よくある構図だし」
「……R.Kって、あなたでしょ?」
その言葉に、瑠々の目が揺れる。 でも、すぐに笑顔を作る。
「……どうだろうね。秘密って、ちょっと楽しいじゃん?」
沙羅は微笑む。 でも、その目は冷静で、鋭かった。
「私は、秘密より真実のほうが好き」
ふたりの間に、静かな火花が散った。
放課後の美術室。 誰もいないはずのその空間に、瑠々は一人で絵を描いていた。
窓から差し込む夕陽が、キャンバスをオレンジ色に染める。
「……もう少しで完成」
そのとき、ドアが静かに開いた。 入ってきたのは——月城沙羅。
「……やっぱり、ここにいたのね」
瑠々は振り返る。
「沙羅さん?どうしたの?」
沙羅はゆっくりと歩み寄り、瑠々の絵を見つめる。 そこには、夕暮れの横断歩道。 手を差し伸べる少年の後ろ姿。
「……その絵、何度も描いてるわね」
「うん。ずっと、忘れられないから」
「その“少年”って、誰なの?」
瑠々は少しだけ目を伏せる。
「……まだ、わかんない。でも、探してる」
沙羅は腕を組み、冷静な声で言った。
「颯天と仲良くしてるけど——本気なの?」
瑠々は驚いた顔をする。
「え?……颯天くんとは、ただの友達だよ。たぶん」
「“たぶん”って、曖昧ね。彼は優しいから、誰にでも笑顔を向ける。でも、私は——その笑顔を、特別だと思ってた」
瑠々は、沙羅の目を見つめる。 そこには、揺れる感情が確かにあった。
「……沙羅さんって、完璧で、強くて、ちょっと怖いけど——今の沙羅さんは、すごく人間っぽい」
沙羅は一瞬、言葉を失う。 でも、すぐに微笑む。
「あなたって、ほんとに不思議な子ね。敵なのか、味方なのか、まだわからない」
「それはこっちのセリフ。……でも、絵を見てくれてありがとう」
ふたりの間に、静かな火花が散った。 でも、それは“戦い”ではなく、“理解”への第一歩だった。
放課後。 空は曇っていたけど、瑠々は気にせずスケッチブックを抱えて歩いていた。 駅までの道。
ぽつぽつと雨が降り始める。
「うわ、傘持ってない…」
瑠々は立ち止まり、空を見上げた。 雨脚はどんどん強くなっていく。
「どうしよ…走るしかないか…」
そのとき——
「……おい」
低い声が背後から聞こえた。 振り返ると、そこには氷室が立っていた。 無表情のまま、傘を差し出す。
「……入れよ」
瑠々は驚いた顔で氷室を見る。
「え、でも…氷室の傘じゃ——」
「俺んちは近い。濡れても平気」
「……でも、私、駅までけっこうあるし——」
「だから、入れって言ってんだろ」
その言葉に、瑠々はそっと傘の中に入る。 氷室の肩に、ほんの少し触れる距離。
「……ありがと」
「……別に。お前が風邪ひいたら、うるさそうだし」
瑠々は笑った。
「それ、優しさだよね?」
氷室は何も言わず、前を向いたまま歩き出す。 でも、瑠々にはわかっていた。
この人は、誰にでも冷たいけど—— 自分にだけ、少しだけ優しい。
「……氷室って、やっぱり……」
その言葉は、雨音にかき消された。
雨が止んだあとも、瑠々の心は静かにざわついていた。 氷室と並んで歩いた帰り道。
無言だったけど、傘の中の空気は、どこかあたたかかった。
「……氷室って、やっぱり不思議な人だな」
翌朝、教室に入ると、颯天がすぐに声をかけてきた。
「昨日、雨すごかったよね!瑠々ちゃん、濡れなかった?」
「うん、ちょっとだけ。……でも、なんとか」
「そっか。俺、傘持ってたのに、見つけられなかった〜。ごめん!」
「え?別に颯天くんのせいじゃないし!」
颯天は笑って、瑠々の頭を軽くポンと叩いた。
「でも、次は俺が守るからね」
その言葉に、瑠々は少しだけ笑った。 でも、心の奥では——
「……昨日は、氷室が守ってくれた」
そのとき、教室の隅で氷室がちらりとこちらを見た。 目が合った瞬間、瑠々は小さく手を振った。
氷室は、ほんの一瞬だけ目を細めて—— すぐにそっぽを向いた。
でも、瑠々にはわかっていた。 あれは、彼なりの“返事”だった。
昼休み。 瑠々はスケッチブックを広げて、廊下のベンチで絵を描いていた。 そこに、男子たちが数人集まってくる。
「お、また絵描いてる〜!モデルになろうか?」 「俺のイケメンフェイス、描いてくれていいよ?」
「てか、転校生って絵うまいだけじゃなくて、反応もかわいいよな〜」
瑠々は笑って返す。
「ありがと〜!でも、イケメンは自称じゃなくて他称だからね〜」
男子たちは笑いながら去っていく。 でも、瑠々の笑顔は少しだけ曇っていた。
「……慣れてるけど、やっぱちょっと疲れるな」
そのとき、背後から声がした。
「……お前、無理して笑うなよ」
振り返ると、そこには氷室が立っていた。 腕を組んで、いつもの無愛想な顔。
「え?……笑ってたつもりだけど」
「……からかわれて、嬉しいやつなんていねぇだろ」
瑠々は少しだけ目を伏せる。
「……でも、転校ばっかだし。馴染むには、笑ってる方が楽だから」
氷室は黙って、スケッチブックをのぞき込む。 そこには、昨日描いた“傘の中のふたり”の絵。
「……俺の背中、でかすぎじゃね?」
「えっ、あ、そっか……ごめん、ちょっと盛ったかも」
氷室は、ほんの少しだけ笑った。 それは、誰にも見せない表情。
「……お前の絵、好きだよ。……なんか、懐かしい」
瑠々は目を見開いた。
「……氷室って、やっぱり……優しいね」
「……うるせぇ」
そう言って、氷室は歩き去っていく。 でも、瑠々の心には、あたたかい何かが残っていた。
放課後の教室。 修学旅行の班決め会議が始まった。 大河原先生がホワイトボードに書いたのは——
「班は5人ずつ。男女混合で、男子3人・女子2人。くじ引きで決めるぞ〜!」
ざわつく教室。
「え〜!くじ引き!?」「好きな人と一緒がいい〜!」 「俺、沙羅さんと同じ班がいい!」 「それはやめとけって…」
瑠々は笑いながら、くじの箱を見つめる。
「なんかドキドキする〜。でも、転校ばっかだから、こういうの慣れてるかも」
ひよりが隣で「私、瑠々と一緒がいい〜!」と言ってる。
颯天は余裕の笑顔。
「誰とでも楽しめるけど、できればかわいい子と一緒がいいな〜」
「チャラいな〜!」と男子たちがツッコむ。
氷室は、腕を組んだまま無言。 でも、くじを引く手だけは、少しだけ早かった。
そして——
「班表、発表するぞ〜!」
班5:如月瑠々/春野ひより/氷室朔夜/河野颯天/佐伯悠真(さえき ゆうま)
「えっ……このメンツ、濃くない!?」 瑠々が思わず声を上げる。
ひよりは「やった〜!瑠々と一緒!」と喜ぶ。 颯天は「お、俺もいるじゃん!最高!」と笑う。
佐伯悠真は、物静かな読書男子。 沙羅とは別班になり、少しホッとしたような顔。
沙羅は班表を見て、静かに目を細める。
「……あの子、氷室と同じ班なのね」
氷室は何も言わない。 でも、瑠々の方をちらりと見た。
「部屋割りは、男女別。男子は3人部屋、女子は2人部屋」
大河原先生の声に、女子たちがざわつく。
「ひよりと瑠々は絶対一緒でしょ?」 「沙羅さんと一緒の部屋とか緊張する〜」
沙羅は静かに言う。
「私は誰でもいいわ。……ただ、うるさいのは遠慮したいけど」
瑠々は「え、私うるさいかも〜」と笑う。
結局、女子部屋は——
部屋A:如月瑠々/春野ひより
部屋B:月城沙羅/その他女子
男子部屋は——
部屋C:氷室朔夜/河野颯天/佐伯悠真
部屋D:その他男子3人
「えっ、氷室と颯天が同じ部屋!?それ、空気どうなるの…」
「俺、寝言で告白とかしないように気をつけよ…」と颯天が冗談を言う。
氷室は無言。 でも、ほんの少しだけ、口元が動いた。
瑠々はその様子を見て、心の中で思う。
「……修学旅行、なんかすごいこと起きそう」
夕方。 瑠々は学校から帰ってきて、すくばをソファにぽんっと放り投げる。
「ただいま〜!修学旅行の班、決まったよ〜!」
奥の書斎から、ゆっくりとした声が返ってくる。
「おかえり、我が娘よ。班は、どんな運命の組み合わせだった?」
如月圭一郎——世界的な小説家。 だが、家ではただの“ちょっと変な父親”。
「ひよりと一緒!あと男子は颯天と氷室と佐伯!」
「ふむ……颯天、氷室、佐伯……なんだか物語が始まりそうな名前だな」
「いやいや、始まってるから!てか氷室ってちょっと怖いけど、なんか優しいんだよね〜」
圭一郎は、書きかけの原稿を閉じて、瑠々の方を見た。
「……その“氷室”という少年。君が描く“夕暮れの絵”に似ているか?」
瑠々は、手を止める。
「うん。なんか、背中が似てる気がする。でも、顔は覚えてないから……わかんない」
圭一郎は静かにうなずいた。
「人は、忘れたはずの記憶を、絵に残すことがある。君の絵は、君の心の地図だ」
「……なんか、詩的すぎてよくわかんないけど、ありがと」
瑠々は笑って、部屋に戻る。 スーツケースを開いて、服を詰めながら、ふと思う。
「氷室って、なんで私にだけ優しいんだろ」
そのとき、スマホが鳴る。 ひよりからのメッセージ。
「瑠々〜!パジャマ何持ってく?あと夜のお菓子、何買う〜?」
瑠々は笑って返信する。
「パジャマはうさぎのやつ!お菓子はチョコとラムネ〜!」
修学旅行の準備は、ワクワクとドキドキでいっぱいだった。 でも、瑠々の心には、もうひとつの“準備”が始まっていた。
「……氷室のこと、もっと知りたいな」
秋の風が、校舎の窓を揺らす。 放課後、教室にはまだ数人の生徒が残っていた。
瑠々は、スケッチブックを抱えて美術室へ向かっていた。
今日はなんとなく、いつもの場所じゃなくて、静かな空間で絵を描きたかった。
「……あ、誰かいる?」
扉を開けると、そこには——氷室がいた。 一人で窓際に座り、外をぼんやり眺めている。
「……あ、ごめん。邪魔だった?」
氷室はちらりと瑠々を見て、首を横に振る。
「別に。描くなら、そこ使えよ」
「ありがと〜。……てか、氷室が美術室にいるの、なんかレアじゃない?」
「静かだから、たまに来る」
瑠々は笑いながら、隣の机にスケッチブックを広げる。 しばらく無言の時間が流れる。
「……氷室って、何考えてるか分かんないよね」
「お前がうるさいだけだろ」
「ひど〜い!でも、ちょっと嬉しいかも」
氷室は目を細める。 その表情は、誰にも見せない“柔らかさ”だった。
その頃、廊下では颯天がサッカーボールを片手に歩いていた。 ふと、美術室の前で立ち止まる。
中をのぞくと——瑠々と氷室が並んで座っている。
「……あれ?なんか、いい感じ?」
颯天は、ボールを軽く回しながら、静かにその場を離れた。
「……俺、ちょっと焦ってる?」
昼休み。 校庭の木々が、秋の風に揺れていた。
瑠々は、スケッチブックを持って中庭のベンチに座っていた。 風の音を聞きながら、落ち葉を描いていると——
「……お前、外で描くの好きだな」
ふいに背後から声がした。 振り返ると、氷室が立っていた。
「お、氷室!なんか風が気持ちよくてさ〜」
「……寒くねぇの?」
「ちょっと寒いけど、絵描いてると忘れるんだよね〜」
氷室は無言で隣に座る。 風がふたりの間を通り抜ける。
「……氷室ってさ、風とか好き?」
「……嫌いじゃねぇ。音が、落ち着く」
瑠々は笑う。
「わかる〜。なんか、昔のこと思い出すよね」
氷室は、ふと目を細める。
「……お前、昔のこと、よく描くよな」
「うん。忘れたくないから。……でも、顔は思い出せないんだよね」
氷室は何も言わない。 でも、風が吹いた瞬間、瑠々の髪がふわりと舞って—— 氷室が、そっと手で押さえてくれた。
「……風、強ぇな」
「……ありがと」
ふたりの距離は、風の中で少しだけ近づいた。
放課後。 教室では、颯天がサッカーボールを片手に遊んでいた。
「瑠々〜!ちょっとボール蹴ってみてよ!」
「え〜!?私、運動オンチだよ〜!」
「いいからいいから!ほら、パス!」
颯天が軽く蹴ったボールを、瑠々が慌てて受け止める。 そこに佐伯が静かに近づいてくる。
「瑠々さん、ボールはこう持つと安定しますよ」
「お〜!佐伯、詳しい〜!ありがと〜!」
さらに、別の男子が「俺も教える〜!」と加わってくる。
「え、ちょっと待って!なんか男子多くない!?」
瑠々は笑いながら、ボールを抱えて逃げる。 教室の隅では、氷室が腕を組んでそれを見ていた。
「……騒がしいな」
でも、瑠々が男子たちに囲まれて笑っているのを見て—— 氷室は、ほんの少しだけ眉を動かした。
「……なんか、モヤモヤする」
その様子を、沙羅も見ていた。 静かに、でも確かに、視線が鋭くなる。
「……あの子、ほんとにただの転校生?」
夜。 瑠々は、なんとなく眠れなくて、家の近くの公園まで散歩に出ていた。
秋の風が心地よくて、スケッチブックを持ってベンチに座る。
「……夜の空って、なんか描きたくなるよね〜」
そのとき、遠くからボールを蹴る音が聞こえた。 振り向くと、グラウンドの端に颯天がいた。
「……あれ?颯天?」
颯天はボールを止めて、瑠々に気づく。
「おっ、瑠々じゃん!こんな時間にどうしたの?」
「なんか眠れなくて〜。ちょっとだけ散歩」
颯天は笑って、ボールを脇に抱えながら近づいてくる。
「俺もさ、夜の方が集中できるんだよね。サッカーのこととか、考えすぎちゃって」
「へぇ〜、颯天って意外と真面目なんだね」
「意外って何!失礼な〜!」
ふたりは笑い合う。 夜風が、ふたりの間を通り抜ける。
「……瑠々ってさ、絵描いてるとき、すごく楽しそうだよね」
「うん。描いてると、いろんなこと忘れられるから」
「俺も、ボール蹴ってるときはそんな感じ。……なんか、似てるかもな」
瑠々は少しだけ照れたように笑う。
「颯天って、誰にでも優しいけど——今のはちょっと、特別っぽかったかも?」
颯天は目を細めて、冗談っぽく言う。
「え〜?どうだろうね。瑠々には、つい本音言っちゃうかも?」
その言葉に、瑠々の心が少しだけ揺れた。
「……なんか、ドキドキするじゃん」
翌朝の教室。 いつも通りのざわつきの中、瑠々は笑顔で教室に入ってきた。
「おはよ〜!今日、めっちゃ空気きれいじゃない?」
ひよりが「それ天気予報の人みたい!」と笑う。 その隣で颯天が手を振る。
「昨日の夜、ありがとな。なんか話せてスッキリしたわ」
「こちらこそ〜!颯天って、意外と悩んでるんだね〜」
「いやいや、俺だって人間だし!」
ふたりは笑い合う。 その空気は、昨日よりも少しだけ近い。
その様子を、氷室は教室の隅から見ていた。 腕を組み、無表情のまま。 でも、視線は確かに、瑠々に向いていた。
「……なんか、違う」
氷室の胸に、言葉にならない感情が渦巻く。
沙羅もまた、席からふたりを見つめていた。 完璧な姿勢のまま、目だけが鋭く動く。
「……颯天が、あんな顔するなんて」
沙羅は、瑠々の笑顔に目を細める。
「……あの子、やっぱりただの転校生じゃない」
教室の空気は、いつも通りのようで—— どこか、少しだけ違っていた。
視線が交差する。 それぞれの“気持ち”が、まだ言葉にならないまま。
昼休み。 教室の窓から、柔らかい光が差し込んでいた。
瑠々はひよりと話しながら、笑顔でお菓子を分けていた。 その隣には颯天。 自然な流れで、会話に混ざっている。
「昨日の夜、瑠々と話してさ〜。なんか、めっちゃ元気もらったわ」
「え〜、そんなこと言われると照れる〜!」
「ほんと、瑠々って太陽みたいだよな」
その言葉に、ひよりが「それわかる〜!」と笑う。
その様子を、氷室は教室の隅から見ていた。 腕を組み、無表情のまま。 でも、視線は確かに、瑠々に向いていた。
「……なんか、違う」
昨日までと、何かが違う。 瑠々の笑顔は変わらない。 颯天の態度も、いつも通り優しい。
でも—— その“距離”が、ほんの少しだけ近づいている気がした。
氷室は、立ち上がって瑠々の机に近づく。
「……おい」
瑠々が振り返る。
「ん?氷室〜、どうしたの?」
「……お前、昨日の夜、颯天と会ってたのか?」
瑠々は少し驚いた顔をする。
「え?うん、たまたま公園で。なんか眠れなくて、散歩してたら」
「……そうか」
氷室はそれだけ言って、去ろうとする。 でも、瑠々が呼び止める。
「ねえ、氷室ってさ……なんか怒ってる?」
氷室は立ち止まり、振り返る。
「……別に。怒ってねぇ。ただ……」
言葉が続かない。 瑠々は、少しだけ寂しそうに笑う。
「そっか。じゃあ、またあとでね」
そのやりとりを、沙羅は静かに見ていた。 完璧な姿勢のまま、目だけが鋭く動く。
「……氷室が、動いた?」
沙羅の中にも、小さな違和感が芽生えていた。
宿泊体験学習を目前に控えたある日。 教室の隅で、ひそひそと声が交差する。
「ねえ、聞いた?瑠々と颯天って付き合ってるらしいよ」 「え、マジ?昨日もふたりで話してたって」
「颯天が“特別”って言ってたって、誰かが聞いたらしいよ」
その噂は、あっという間に広がった。 瑠々は最初、気づいていなかった。 でも、教室の空気が少しずつ変わっていく。
「……なんか、みんなの目が変じゃない?」
ひよりが心配そうに言う。
「たぶん、噂のせいだよ。颯天と仲良くしてたから」
「え〜!そんなのただの偶然なのに!」
そのとき、瑠々は氷室の視線に気づく。 でも——彼は、目をそらした。
「……氷室?」
放課後。 瑠々は氷室を追いかけて、声をかける。
「ねえ、なんか変じゃない?私、何かした?」
氷室は立ち止まる。 でも、振り返らない。
「……別に。お前の勝手だろ」
「え……?」
「颯天と仲良くしてるのも、噂になってるのも。俺には関係ねぇ」
その言葉に、瑠々は言葉を失う。
「……氷室って、そんな言い方する人だったっけ」
ふたりの間に、静かな距離ができた。
バスの中。 瑠々は窓側の席に座り、外を見つめていた。
隣にはひより。 でも、心はどこか、ぽっかりと空いていた。
「……氷室、ずっとそっけないまま」
颯天は、前の席から振り返って笑いかける。
「瑠々〜、今日の班行動、俺が引っ張るから任せて!」
「うん、ありがと〜」
でも、その笑顔に、瑠々は少しだけ疲れたような笑みを返す。
氷室は、後ろの席で黙って座っていた。 窓の外を見ながら、心の中で何かが揺れていた。
「……なんで、こんなに気になるんだよ」
女子トーク:湯気の中の本音
「は〜〜〜、極楽〜〜〜!」
瑠々が湯船に肩まで浸かって、思わず声を漏らす。 ひよりは隣で笑いながら、髪をまとめている。
「瑠々って、ほんと自由だよね〜。転校ばっかって言ってたけど、全然そんな感じしない」
「慣れてるだけだよ〜。でも、ここのみんなは優しいから、居心地いいかも」
「特に颯天とか?」
「え?……うん、話しやすいし、気が合うっていうか」
ひよりが少しだけ目を細める。
「でもさ、氷室のことも気にしてるでしょ?」
瑠々は、湯船の水面を指でなぞりながら、ぽつりと答える。
「……なんか、気になるんだよね。無口だけど、時々すごく優しいし。私にだけ、ちょっと違う気がする」
「それ、絶対気になってるじゃん!」
ふたりは笑い合う。 湯気の中で、瑠々の頬はほんのり赤く染まっていた。
その頃、沙羅は別の湯船で静かに髪を洗っていた。 耳には、ふたりの会話がうっすら届いている。
「……颯天と瑠々。やっぱり、距離が近い」
沙羅の目が、湯気の向こうで鋭く光った。
男子トーク:布団の中の揺れ
男子部屋。 布団を敷き終えた颯天が、ボールを抱えて笑っていた。
「いや〜、今日も楽しかったな!肝試しとか、絶対盛り上がるっしょ!」
佐伯は静かに本を閉じて、眼鏡を外す。
「颯天くんは、いつも元気ですね。……でも、瑠々さんとは、特別な関係なんですか?」
「え?いや、別に付き合ってるとかじゃないけど……なんか、話してると楽しいんだよな」
颯天は天井を見ながら、ぽつりとつぶやく。
「瑠々って、笑ってるけど、時々すごく寂しそうな顔するんだよ。……放っておけないっていうか」
氷室は、布団に寝転びながら、目を閉じていた。 でも、その言葉に、眉がわずかに動いた。
「……お前、瑠々のこと好きなのか?」
颯天は笑って返す。
「どうだろうね。……でも、氷室こそ、気にしてるじゃん」
「……うるせぇ」
その声は、少しだけ揺れていた。
肝試し:暗闇のペア
夜9時。 宿の裏庭に、懐中電灯の光が揺れていた。
「じゃあ、ペアはくじ引きで決めま〜す!」
瑠々が引いたくじには——颯天の名前。
「おっ、また俺か!よろしくな、瑠々!」
「うわ〜!怖いの苦手なんだけど〜!」
ふたりは懐中電灯を持って、暗い庭へと進んでいく。 木々の間を抜けるたびに、瑠々は颯天の腕にしがみつく。
「ちょっと!なんか音した〜!」
「大丈夫大丈夫、俺がいるって!」
その様子を、氷室は遠くから見ていた。 腕を組み、無表情のまま。 でも、目だけが、瑠々を追っていた。
「……なんで、あいつなんだよ」
沙羅が隣でつぶやく。
「嫉妬してるの?氷室くん」
「……うるせぇ」
でも、その声は、確かに揺れていた。
星の下で、ふたりきり
肝試しが終わったあと。 宿の灯りが消え、夜の静けさが戻ってきた。
瑠々は、ひとりで外に出て、星空を見上げていた。 スケッチブックを持ってきたけど、描く気にはなれなかった。
「……なんか、いろいろ考えすぎて眠れないや」
そのとき、背後から足音が聞こえる。
「……お前、また夜に出歩いてんのか」
振り返ると、そこには氷室がいた。 制服のまま、ポケットに手を突っ込んで立っている。
「氷室……」
ふたりは並んでベンチに座る。 星が静かに瞬いていた。
「……ごめん。なんか、怒ってる?」
氷室は少しだけ目を伏せる。
「……怒ってねぇ。ただ……お前が颯天といると、なんか……」
「……嫉妬?」
氷室は黙っていた。 でも、瑠々は笑って言った。
「私、颯天のことは友達って感じ。でも、氷室のことは……なんか、特別かも」
氷室は、星空を見上げたまま、ぽつりとつぶやく。
「……お前だけには、優しくしたくなる」
その言葉に、瑠々の心が静かに震えた。
「……それ、ずるいよ」
「……俺も、そう思う」
ふたりの間にあった誤解は、星の下で静かにほどけていった。 風が吹いて、瑠々の髪が揺れる。 氷室は、そっと手で押さえてくれた。
「……風、強ぇな」
「……ありがと」
その瞬間、ふたりの距離は、確かに近づいた。
第27章:朝の静かな仕草朝の宿。 廊下にはまだ眠そうな顔の生徒たちがちらほら。
空気はひんやりしていて、窓の外には朝霧がうっすらと漂っていた。
女子部屋では、瑠々が制服に着替えながら鏡の前で悪戦苦闘していた。
「うわ〜、髪めっちゃはねてる〜!」
寝癖があちこちに跳ねていて、手ぐしで直そうとしても全然まとまらない。
「ひより〜、ヘアピン貸して〜!」 「ごめん、部屋に置いてきちゃった〜!あとで取りに行こ!」
「え〜〜〜、このままじゃ外出られないよ〜!」
瑠々は鏡の前で髪を押さえながら、困った顔をしていた。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてくる。 制服の襟を整えながら、無表情で歩いてくるのは——氷室。
「……おい」
瑠々が振り返る。
「ん?氷室、おはよ〜」
「……髪、跳ねてる」
「え?あ、うん。寝癖が……」
氷室は何も言わず、瑠々の前に立つと、そっと手を伸ばした。 指先で、跳ねた髪をなぞるように整えていく。
その動きは、驚くほど丁寧で、静かだった。
そして最後に、軽く—— 瑠々の頭をポン、と優しく叩いた。
「……これでいい」
瑠々は目を見開いたまま、言葉が出なかった。
「え、ちょ……なにその……不意打ち……」
氷室はそっぽを向いて、歩き出す。
「……寝癖くらい、ちゃんと直せ」
「え、え〜!?なんか、照れるじゃん!」
瑠々の頬は、朝の光よりも赤く染まっていた。 心臓が、さっきまでの寝癖よりも暴れてる気がする。
その様子を、廊下の端で見ていた颯天が、ぽつりとつぶやく。
「……あれは、ずるいな」
沙羅もまた、遠くから視線を送っていた。 完璧な姿勢のまま、目だけが鋭く動く。
「……氷室、やっぱり動き出したわね」
午前10時。 班ごとの自由行動が始まった。
瑠々たちの班は、古い町並みが残る観光通りを歩いていた。 石畳の道に、木造の店が並び、風鈴の音が涼しげに響いている。
「うわ〜!めっちゃ風情ある〜!」 瑠々はスケッチブックを片手に、あちこちを見回していた。
「写真撮る?インスタ映えしそう!」とひよりがスマホを構える。
颯天は笑いながら、店先の団子を指さす。
「お、団子あるじゃん!買ってみようぜ!」
「え〜!食べ歩きって最高〜!」
佐伯は静かに地図を見ながら、次の目的地を確認している。
「次は寺院ですね。拝観時間に間に合うように動きましょう」
氷室は無言で歩いていたが、時々瑠々のスケッチブックに目を向けていた。
「……描いてんのか?」
「うん!この通り、めっちゃ絵になるよね〜。氷室も描いてみる?」
「……俺はいい」
「そっか〜。でも、氷室の目線って、なんか絵になる気がする」
氷室は少しだけ目を細めた。
「……意味わかんねぇ」
でも、その声はどこか優しかった。
昼ご飯:笑いと沈黙のテーブル
正午。 班は、予約していた古民家風の食事処に入った。
畳の部屋に通され、窓からは庭の紅葉が見える。
「うわ〜!めっちゃ落ち着く〜!」 瑠々は座布団に座って、メニューを見ながら目を輝かせる。
「私、天ぷら定食にする〜!」 「俺はそば!長野といえばそばっしょ!」と颯天。
佐伯は「私は湯葉御膳にします」と静かに注文。
氷室は、メニューを見ずに「……同じで」と瑠々の注文に合わせた。
瑠々は一瞬驚いて、氷室の顔を見た。
「え、私と同じ?珍しい〜」
「……別に、深い意味はねぇ」
でも、ひよりはそのやりとりを見て、ニヤニヤしていた。
「ふたり、なんかいい感じじゃん〜」
その言葉に、瑠々は「やめてよ〜!」と笑いながらも、少しだけ頬が赤くなる。
食事が運ばれてくると、みんなの会話は自然と弾んだ。
「この天ぷら、サクサク〜!」 「そば、めっちゃ香りいいな!」
でも、氷室はほとんど喋らず、静かに箸を動かしていた。
瑠々はふと、氷室の湯呑みに手を伸ばす。
「ほら、冷めちゃうよ。お茶、注ぐね」
氷室は一瞬止まって、瑠々の手元を見つめる。
「……ありがと」
その言葉は、短くて、でも確かに優しかった。
颯天はその様子を見て、少しだけ目を伏せる。
「……やっぱ、氷室には敵わねぇな」
午後2時。 宿泊体験学習を終えた一行は、バスに乗り込んで帰路についた。
車内には、疲れと満足感が混ざった空気が漂っている。 窓の外には、秋の山々が静かに流れていく。
瑠々は、窓側の席に座っていた。 隣には——氷室。
「……なんか、あっという間だったね〜」
「……そうか?」
「うん。楽しかったし、いろいろあったし……」
氷室は、窓の外を見ながら静かにうなずいた。
「……お前、よく喋るな」
「え〜、今さら?氷室が静かすぎるんだよ〜」
ふたりは、昨日までとは違う空気の中にいた。 言葉は少なくても、沈黙が心地よい。
瑠々は、スケッチブックを膝に置いて、ふと手を伸ばした。
「ねえ、昨日の星空、描いてみたんだけど……どうかな?」
氷室はスケッチブックを覗き込む。 そこには、夜空とベンチに座るふたりの後ろ姿が描かれていた。
「……俺らか?」
「うん。なんか、描きたくなっちゃって」
氷室は少しだけ目を細めた。
「……悪くねぇ」
瑠々は嬉しそうに笑う。
そのとき、バスがカーブに差しかかり、車体がゆっくりと揺れた。
瑠々の手が、ふと氷室の手の甲に触れた。
「……あ、ごめ——」
言いかけた瞬間、氷室がその手を、そっと握った。
「……別に、いい」
瑠々は目を見開いたまま、言葉が出なかった。
ふたりの手は、静かに重なったまま。 窓の外には、夕暮れが近づいていた。
瑠々は、氷室の横顔を見ながら、心の中でつぶやいた。
「……なんか、好きかも」
でも、その言葉は、まだ口には出さない。 今はただ、手のぬくもりを感じていた。
午後2時。バスの座席に座った氷室は、窓の外をぼんやり眺めていた。
秋の山々が流れていく。その隣には——瑠々。
「……なんか、あっという間だったね〜」
瑠々が笑いながら言う。氷室は、少しだけうなずいた。
「……そうか?」
「うん。楽しかったし、いろいろあったし……」
氷室は、瑠々の声を聞きながら、心の中で思う。
(お前がいると、騒がしい。でも……悪くない)
瑠々はスケッチブックを膝に置いて、ふと差し出してきた。
「ねえ、昨日の星空、描いてみたんだけど……どうかな?」
氷室は覗き込む。そこには、夜空とベンチに座るふたりの後ろ姿。
(……俺らか)
「……悪くねぇ」
瑠々が嬉しそうに笑う。その笑顔を見て、氷室は少しだけ目を伏せた。
(……なんで、こんなに気になるんだ)
そのとき、バスがカーブに差しかかり、車体が揺れた。
瑠々の手が、ふと氷室の手の甲に触れる。
「……あ、ごめ——」
瑠々が言いかけた瞬間、氷室はその手を、そっと握った。
(……離すな)
「……別に、いい」
瑠々は驚いた顔をしていた。でも、すぐに目をそらして、窓の外を見た。
氷室は、瑠々の手のぬくもりを感じながら、心の中でつぶやく。
(……俺は、どうしたいんだ)
(お前のこと、気になる。……たぶん、好きなのかもしれない)
でも、その言葉は、口には出さない。
今はただ、手のぬくもりを感じていた。
(……お前が笑ってるなら、それでいい)
放課後。 校庭の隅にあるベンチ。 夕焼けが、グラウンドをオレンジ色に染めていた。
瑠々は、スケッチブックを膝に置いて、落ち葉を描いていた。 その隣に、颯天が座る。
「……最近、絵ばっか描いてるな」
「うん。なんか、描いてると落ち着くんだよね〜」
颯天は、ボールを指で回しながら、少しだけ黙った。
「……瑠々ってさ、氷室のこと、気になってる?」
瑠々は手を止める。
「え……なんで?」
「見てればわかるよ。目で追ってるし、話すとき、ちょっと声違うし」
瑠々は、スケッチブックを閉じた。
「……うん。気になってるかも。でも、よくわかんない」
颯天は、ボールを止めて、瑠々の方を向いた。
「俺さ、ずっと言おうと思ってたんだ」
「……え?」
「好きだよ、瑠々。最初から、ずっと。笑ってるとこも、絵描いてるとこも、全部」
瑠々は、目を見開いたまま、言葉が出なかった。
「……でも、氷室がいるのもわかってる。だから、無理に答えなくていい。……ただ、伝えたかった」
夕焼けが、ふたりの影を長く伸ばしていた。
瑠々は、胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
「……ありがと、颯天。嬉しい。でも……今は、まだ答えられない」
颯天は、少しだけ笑った。
「そっか。……でも、待つよ。瑠々が笑ってくれるなら、それだけでいい」
その言葉に、瑠々は少しだけ涙がにじみそうになった。
「……なんか、ずるいよ。颯天って、優しすぎる」
「それ、褒め言葉?」
「うん。たぶんね」
ふたりは、夕焼けの中で並んで座っていた。 でも、瑠々の心は——まだ、揺れていた。
翌日。 教室には、いつも通りのざわめきが広がっていた。 でも、瑠々の心は、昨日とは少し違っていた。
(颯天が……私のこと、好きって)
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 嬉しかった。 でも——答えは、まだ出せない。
「瑠々〜、今日の美術、何描くの?」 ひよりが笑顔で話しかけてくる。
「う〜ん……なんか、気持ちがまとまらなくて」
「昨日、颯天に告られたって聞いたよ。すご〜い!」
「ちょ、なんで知ってるの〜!?」
「沙羅が言ってた。……氷室も聞いてるかもね」
その言葉に、瑠々の心がざわついた。
(氷室……聞いてる?)
視線を教室の隅に向けると、氷室は窓際の席で、外を見ていた。 無表情。 でも——時々、ちらりと瑠々の方を見ている。
(……気づいてる。たぶん)
放課後。 廊下で、瑠々は氷室とすれ違った。
「……あ、氷室」
「……ああ」
ふたりは立ち止まる。 でも、言葉が続かない。
「……昨日、颯天に告白されたの。……知ってる?」
氷室は少しだけ目を伏せた。
「……あいつ、言ってた」
「……そっか」
沈黙。 廊下には、夕方の光が差し込んでいた。
「……氷室は、どう思う?」
瑠々の声は、少しだけ震えていた。
氷室は、答えなかった。 ただ、視線だけが、瑠々をまっすぐに見ていた。
「……俺は、別に。お前が決めることだろ」
「……うん。でも、なんか……氷室の顔、見てると、迷う」
その言葉に、氷室の目がわずかに揺れた。
「……俺の顔で、迷うな」
「……だって、氷室のこと、気になってるから」
その瞬間、ふたりの間にあった“距離”が、少しだけ縮まった気がした。
でも——まだ、手は伸ばせない。 まだ、言葉にはできない。
瑠々の心は、ためらいの中で揺れていた。
昼休み。 瑠々は、スケッチブックを閉じて、氷室の席へと向かった。
「ねえ、氷室〜。ちょっとだけ、いい?」
氷室は顔を上げる。 無表情だけど、目だけが少しだけ驚いていた。
「……なんだよ」
「ちょっと、屋上行こ?風、気持ちいいよ〜」
氷室はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
屋上。 風が髪を揺らし、遠くの山が青く霞んで見える。
ふたりは並んでフェンスにもたれかかる。
「……氷室ってさ、好きな人いる?」
氷室は、風の音に紛れるように、少しだけ目を細めた。
「……なんで急に」
「いや、なんとなく。……気になってるから」
「……俺のこと?」
瑠々は、少しだけ笑ってうなずいた。
「うん。氷室のこと、最近すごく気になる。だから……知りたいなって」
氷室は、フェンスの向こうを見つめたまま、答えなかった。
沈黙が流れる。
「……いるの?」
「……さあな」
「え〜、なにそれ。ずるい〜」
瑠々は笑いながら言うけど、心の中は少しだけざわついていた。
(……なんで、教えてくれないの?)
氷室は、ポケットに手を突っ込んだまま、ぽつりとつぶやいた。
「……言ったら、変わるだろ。いろいろ」
「変わってもいいじゃん。……私は、知りたいよ」
氷室は、瑠々の方を見た。 その目は、いつもより少しだけ真剣だった。
「……でも、俺はまだ言えねぇ」
瑠々は、目をそらして、風を感じた。
「……そっか。じゃあ、待ってる」
「……待つな」
「え〜、待つよ。勝手に」
ふたりは並んで立っていた。 言葉にはできない気持ちが、風に乗って揺れていた。
瑠々は、心の中でつぶやいた。
(……やっぱり、氷室のことが好きかも)
でも、その言葉は、まだ口には出さない。 氷室もまた、胸の奥で何かが静かに揺れていた。
放課後。 美術室の窓から、夕陽が差し込んでいた。
瑠々は机に肘をついて、スケッチブックを閉じたまま、ぼんやりと空を見ていた。 隣では、ひよりが絵の具を片付けながら、ちらちらと瑠々の顔を見ている。
「……ねえ、瑠々。最近、なんかぼーっとしてない?」
「え?そうかな……」
「絶対そう。授業中も、窓の外ばっか見てるし。……氷室のこと、考えてるでしょ?」
瑠々は、手を止めて、少しだけ笑った。
「……うん。たぶん、そうかも」
ひよりは椅子に座り直して、真剣な顔になる。
「好きなの?」
瑠々は、スケッチブックの表紙を指でなぞりながら、ぽつりと答えた。
「……好きかも。まだ、はっきりとは言えないけど……気になる。すごく」
「そっか……」
ひよりは、少しだけ微笑んだ。
「氷室って、無口だけど、瑠々には優しいよね。なんか、特別な感じする」
「うん。なんか、私にだけちょっと違う気がして……それが嬉しくて」
「でも、颯天のこともあるし……迷ってる?」
瑠々はうなずいた。
「颯天は、すごく優しいし、楽しいし……告白されたとき、嬉しかった。でも……氷室のこと考えると、心がざわざわする」
ひよりは、瑠々の手をそっと握った。
「瑠々が笑ってるとき、どっちが頭に浮かぶ?」
瑠々は、少しだけ考えて——
「……氷室、かな」
その答えに、ひよりはにっこり笑った。
「じゃあ、それが答えじゃん。焦らなくていいよ。瑠々らしく、ゆっくりで」
瑠々は、ひよりの言葉に救われたように、ふっと笑った。
「……ありがと、ひより。やっぱ、話してよかった」
「いつでも聞くよ。親友だもん」
夕陽が、ふたりの机を優しく照らしていた。 瑠々の心は、少しだけ軽くなった。
でも——氷室の気持ちは、まだわからない。 それでも、瑠々は前を向こうとしていた。
放課後。 校舎裏のベンチに、ひよりと氷室が並んで座っていた。
風が冷たくなってきて、秋の気配が漂っている。
「ねえ、氷室くんってさ……好きな人、いる?」
氷室は、ポケットに手を突っ込んだまま、少しだけ目を細めた。
「……なんで、急に」
「瑠々が気にしてるから。……って言ったら怒る?」
「……別に」
沈黙。 でも、氷室は空を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
「小1のとき、事故に巻き込まれそうになってた子がいた」
ひよりは目を見開いた。
「え……それって、助けたってこと?」
「……ああ。俺が引っ張った。ギリギリだった」
「その子のこと、今でも……?」
氷室は、目を伏せた。
「泣いてた。俺の袖、掴んで離さなかった。……それが、ずっと残ってる」
「名前は?」
「……覚えてねぇ。転校して、すぐいなくなった」
ひよりは、少しだけ切なそうな顔をした。
「……その子のこと、今でも好きなの?」
氷室は答えなかった。 ただ、風に揺れる木の葉を見つめていた。
「……今は、違うかもしれない。でも、忘れられない」
ひよりは、静かにうなずいた。
「……瑠々とは、違う?」
氷室は、少しだけ目を細めた。
「瑠々は、今ここにいる。……でも、時々、あの子と同じ目をする」
「……そっか」
ひよりは、瑠々の過去を知らない。 でも、氷室の言葉に、何か大切なものがある気がした。
(……瑠々に、この話、していいのかな)
でも、氷室はそれ以上、何も言わなかった。
風が吹いて、ふたりの間に静かな時間が流れた。
夜。 瑠々はベッドに寝転びながら、天井を見つめていた。
部屋の灯りは落とされ、カーテンの隙間から月の光が差し込んでいる。
(……氷室のこと、気になる)
そう思うたびに、胸がざわつく。 でも、それと同時に——もうひとつの記憶が、静かに浮かび上がってくる。
小学1年生の春。 新しいランドセルを背負って、学校の帰り道。
交差点で、信号が変わったことに気づかず、瑠々はふらりと歩き出してしまった。
「危ない!」
その瞬間、誰かが腕を引っ張ってくれた。 強くて、でも優しい手だった。
転んだ拍子に、膝をすりむいた瑠々は、涙をこぼした。 でも、その男の子は、黙って自分の袖で瑠々の涙を拭いてくれた。
「……大丈夫?」
その声だけが、今でも鮮明に残っている。
顔は思い出せない。 名前も知らない。 でも——その優しさだけは、ずっと胸に残っていた。
(あのときの男の子……今でも、忘れられない)
瑠々は、枕に顔を埋めながら、ぽつりとつぶやいた。
「……もしかして、氷室だったり……しないよね」
でも、そんな偶然あるわけない。 そう思いながらも、心の奥がざわざわと騒ぐ。
(氷室の目、あのときの男の子に似てる気がする)
(……優しいけど、言葉にしないところも)
瑠々は、胸の奥にある“名前のない想い”を、そっと抱きしめた。
それは、まだ確信にはならない。 でも——確かに、心を動かしていた。
放課後。 校舎裏の芝生に、颯天はひとり座っていた。 サッカーボールを足元で転がしながら、空を見上げる。
(瑠々……まだ、答えてくれない)
告白してから数日。 瑠々は笑顔で接してくれるけど、どこかぎこちない。
その“間”が、颯天の胸をじわじわと締めつけていた。
「颯天くん、ひとり?」
その声に、顔を上げると——沙羅が立っていた。 制服のスカートが風に揺れている。
「……ああ。ちょっと、考えごと」
沙羅は隣に腰を下ろす。 距離は、少し近い。
「瑠々のこと、でしょ?」
颯天は少しだけ目を細めた。
「……なんでわかるんだよ」
「見てればわかる。颯天くんって、わかりやすいから」
沙羅は、笑いながら言う。 でも、その目は鋭かった。
「瑠々って、ふわふわしてるけど……意外と鈍感だよね。颯天くんの気持ち、ちゃんと届いてるのかな」
「……届いてると思う。でも、迷ってるんだろ」
「迷わせてるのは、氷室くんじゃない?」
その名前に、颯天の表情がわずかに曇る。
「……あいつ、瑠々にだけ優しい。ずるいよな」
沙羅は、そっと颯天の袖をつまむ。
「だったら、奪えばいい。颯天くんなら、できるよ」
その言葉に、颯天は目をそらした。
「……俺、そういうの、したくない」
「優しいね。……でも、優しさだけじゃ、勝てないよ」
沙羅の声は、甘くて冷たい。
颯天は、ボールを手に取り、立ち上がった。
「……俺は、瑠々が笑ってくれるなら、それでいい。無理に引っ張る気はない」
沙羅は、立ち去る颯天の背中を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……甘い。だから、負けるのよ」
風が吹いて、校舎の影が長く伸びていた。 颯天の心は、まだ瑠々の返事を待っていた。
でも——その間に、沙羅の一手は確かに動き始めていた。
放課後。 校舎の屋上には、秋の風が吹いていた。
瑠々はフェンスにもたれながら、遠くの山を見つめていた。 制服の袖が風に揺れる。
そこへ、氷室が静かに現れる。
「……呼んだか?」
「うん。ちょっと、聞きたいことがあって」
氷室は隣に立ち、同じようにフェンスにもたれる。
「……小1のとき、誰か助けたことある?」
氷室は、風の音に紛れるように、少しだけ目を細めた。
「……なんで、そんなこと聞く」
「私、小1のとき、事故に遭いかけて。誰かに助けられたの。名前も顔も覚えてないけど……ずっと、忘れられなくて」
氷室は、フェンスの向こうを見つめたまま、答えなかった。
沈黙が流れる。
「……氷室だったり、しない?」
氷室は、目を伏せた。
「……さあな」
「え〜、またそれ。ずるいよ」
瑠々は笑いながら言うけど、心の中は少しだけざわついていた。
「でも……なんか、氷室の目、あのときの男の子に似てる気がする」
氷室は、少しだけ目を細めた。
「……お前、あのとき泣いてた?」
「うん。袖、掴んで離せなかった」
氷室は、ポケットに手を突っ込んだまま、ぽつりとつぶやいた。
「……じゃあ、たぶん、俺だ」
瑠々は、目を見開いた。
「……ほんとに?」
「……ああ。お前のこと、ずっと覚えてた。名前も知らなかったけど……あの目だけは、忘れられなかった」
瑠々は、胸がぎゅっとなるのを感じた。
「……私も、ずっと探してた。あのときの男の子」
ふたりは、風の中で静かに立っていた。
言葉は少ない。 でも——気持ちは、確かに通じ合っていた。
「……なんか、すごいね。こんな偶然あるんだ」
「……偶然じゃねぇよ。お前が、ここにいたからだ」
瑠々は、そっと笑った。
「……氷室って、やっぱりずるい」
「……よく言われる」
ふたりは、並んで空を見上げた。 夕焼けが、雲を赤く染めていた。
まだ、付き合うって言葉はない。 でも——ふたりの心は、もう“ひとつ”になっていた。
昼休み。 中庭のベンチに、瑠々はスケッチブックを広げていた。 風が心地よくて、木漏れ日がページを照らしている。
そこへ、氷室が静かに現れる。
「……よくここにいるな」
「うん。描きやすいから。……氷室も、来ると思ってた」
氷室は隣に腰を下ろす。 ふたりの距離は、もう自然だった。
瑠々は、スケッチブックを見せる。
「見て。昨日の空、描いてみた」
氷室はページを覗き込む。 そこには、夕焼けの空と、並んで立つふたりの後ろ姿。
「……俺らか?」
「うん。……なんか、描きたくなっちゃって」
氷室は少しだけ目を細めた。
「……悪くねぇ」
瑠々は、ふっと笑う。
そのとき、風が吹いて、瑠々の髪が顔にかかる。 氷室は、何も言わずにそっと手を伸ばして、髪を耳にかけた。
「……風、強ぇな」
「……ありがと」
沈黙。 でも、心地いい。
瑠々は、少しだけ勇気を出して、ぽつりとつぶやいた。
「ねえ……氷室って、名前で呼ばれるの、嫌?」
氷室は、少しだけ驚いた顔をした。
「……別に。お前が呼ぶなら、いい」
瑠々は、スケッチブックを閉じて、氷室の方を見た。
「……朔夜」
その名前を呼んだ瞬間、氷室の目がわずかに揺れた。
「……もう一回」
「朔夜」
氷室は、目をそらして、でも口元だけが少し笑っていた。
「……悪くねぇ」
瑠々は、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
名前を呼ぶだけで、こんなに近づけるなんて——知らなかった。
ふたりは、まだ“付き合ってる”とは言っていない。 でも、もう誰が見ても、恋人だった。
風が吹いて、ページがめくれる。 そこには、ふたりの名前が並んで書かれていた。
如月 瑠々 氷室 朔夜
それは、ふたりだけが知っている“始まり”の印だった。
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