――私は、大切な人を自死で亡くしたことがあります。
――自殺って止められたんじゃないかと言う思いが常に心の奥底にあって……彼を死なせてしまったことを、今でもずっと自分のせいだと責め続けています。
そういう想いが消せないのだと、たっくんには言えない気持ちをネットでこっそり吐き出すと、当たり障りのない柔らかな言葉に紛れ込むように、辛辣なコメントが書き込まれることがあった。
――生きたくても病気で生きられない人が沢山いるのに、自殺する人は自分勝手で最低な人間です。そんな人のために貴女が自分を責めたりする必要なんてありません。
きっとそれは、うじうじと思い悩んでいた私への、その方からの心の底からの叱咤激励なんだろう。
でも――。
母を病気で亡くし、最愛だった人を自殺で亡くした私が思うのは、どちらもきっと、本人の力ではどうしようもない〝死に至る病〟なんだということで。
お母さんは癌に身体を蝕まれて生きることが出来なかった。
そうしてなおちゃんもまた、鬱という病いに心をズタズタにされて生きることが出来なかったのだ。
どちらが正しくてどちらが間違っている死だなんて、きっと誰にも決められない……。
生きている私たちがそう言うことを軽々しく口にしてはいけないんじゃないかなって……そんな風に思う。
実際救いを求めるように色々読み耽った、『大切な人を自死で亡くした人たちが思いを綴っているサイト』では、私と同じように、亡くなった大切な人を周りから〝命を粗末にした悪者〟だと決めつけられた人たちからの、悲痛な思いが書き連ねられていた。
良かれと思って遺された人を励ますために投げかけた言葉が、更に手負いの人を傷つける。
死因が何だったとしても、遺された人間には〝大切な人を失ったと言う事実だけが全て〟なのだ。
他者から亡くした大切な人のことを悪く言われて、平気な人なんていないと思う。
死者に鞭打つような発言が、理由はどうあれ良くないことは火を見るよりも明らかなのに。
少し考えれば分かりそうなことだけれど、恐らく同じ立場になった事がない人には気付きにくいことなんだろう。
私はなおちゃんの死で、そう言う想いがあることにも気付くことが出来るようになれた。
人の痛みに、少しだけ沢山寄り添えるスキルが身に付いたんじゃないかと、そんな風に思う時がある。
悲しいけれど、私はそれをなおちゃんからの贈り物だと思っているの。
***
あれから数年。
たっくんとの間に可愛い男の子と女の子に恵まれた私は、短期間の間に大切な人を一気に二人も喪失ったにも関わらず、そんなことを感じさせない程度には幸せに暮らしているように見えていると思う。
その上で、やはり一人になるとなおちゃんを死なせてしまったことを思い出さない日はないし、後悔だってずっと抱えて暮らしているのだけれど。
そのくらいに、私の中で大切だった人の自死というのは重く心に伸し掛かっていて……下手をすると母の病死を凌駕するほどの想いに捕らわれていることすらある。
でも――。
だからと言って、じゃあもう一度人生がやり直せますってなった時、なおちゃんと関わらない人生を選ぶかと言われたら、私は胸を張って「いいえ」と答えるの。
例えどんなに頑張って回避しようとしても、絶対に同じ結末を迎えるのだとしてもそこだけは譲れない想いだから――。
なおちゃんに出会わなかった私は、私じゃない。
私はなおちゃんを愛したことも、なおちゃんを失ったことも。
そうしてなおちゃんを失うことでたっくんに出会えたことも。
全部全部受け入れて、迷いながらもしっかりと生きて行く道を選択する。
そう。
例えどんなに不毛な、叶わぬ恋だと分かっていても……。
私は何度でもなおちゃんと出会って、何度でも恋に落ちて、何度でも彼に失恋する人生を選びたい。
END(2021/03/01-2023/07/01)
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