テラーノベル
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三度目の着信が鳴り始めたとき、スンホはもう動けなくなっていた。
出なければ、と思うのに指先が冷たくて、画面をタップするのが怖かった。
けれど、鳴り続ける音が、胸の奥をぐしゃぐしゃに掻き回す。
意を決して親指をスライドさせた。
「……はい……」
スピーカーから、無機質な声が流れた。
「イ・スンホさんの携帯でお間違いないでしょうか?」
「……はい、そうです……」
「こちら〇〇銀行 不正取引モニタリングセンターの△△と申します。」
スンホの背筋が、一瞬で冷たくなった。
「え、……あの……」
「先日新規開設いただいた口座について、確認させていただきたい点がございまして。」
机の上に置いた封筒が、視界の端で白く光った。
「……何、ですか……?」
「お客様ご本人による取引である確認が取れず、一部の入出金を一時保留させていただいております。」
スンホは思わず息を飲んだ。
「保留……って……」
「念のためですが、口座はお客様ご自身で管理されていますか? 第三者へ通帳やキャッシュカードを渡しておられませんか?」
頭の奥で、何かが弾けたように真っ白になった。
「……いえ……、……自分で……」
「承知しました。では、後日改めて、取引状況についてお電話差し上げます。」
「……はい……」
プツッ、と切れたスマホの画面に、自分の青白い顔が映った。
しばらくスンホは息を殺して、その場に座り込んだ。
口の中が渇いて、言葉が出なかった。
その夜、男からメッセージが届いた。
『何か言われた?』
スンホは震える指で、「銀行から確認が来た」とだけ返した。
すぐに返事が来た。
『大丈夫だって言ったろ。放っとけば平気。明日、またちょっとだけ手伝ってくれ。すぐ終わるから。』
スンホの胸の奥で、小さな後悔が音を立てて膨らんだ。
電話が切れてからずっと、スマホを握ったままスンホは動けなかった。
部屋の隅に置いた安いデスクライトだけが、小さな光を落としている。
時計を見ると、針は夜の11時を指していた。
けれど、時間の感覚なんてとうに失くしていた。
「……大丈夫……大丈夫……」
誰に言い聞かせるでもなく、小さくつぶやく。
頭の中では何度も、『やめろ』『もうやめろ』『でも金がない』という声が交互に鳴った。
韓国にいる頃のことを思い出す。
詐欺にあったときのあの虚しさ。
それでも、自分が騙される側だったからまだマシだった。
今は、自分が“やる側”だ。
誰かが泣くかもしれない。
誰かの金が消えるかもしれない。
でも、知らない誰かだ。
俺じゃない。
そう思わなきゃ、眠れない。
喉が渇いて、冷蔵庫を開ける。
空っぽのペットボトルと、安い焼酎のボトルが一本だけ転がっていた。
蓋を開けて、喉に流し込む。
アルコールの匂いが鼻を抜けた瞬間だけ、何も考えなくて済んだ。
スマホの画面には、男からの「すぐ終わる」という言葉が残っている。
すぐ終わる。
すぐ。
「……すぐ……終わる……」
口の中で転がした言葉は、何の意味も持たないまま夜の空気に溶けていった。
スンホはそのまま、ベッドに倒れ込んだ。
明日のことを考えないように、瞼を強く閉じた。
天井を見つめながら、スンホは浅く息を吐いた。
雨も風もない、ただの東京の夜。
外から聴こえてくるのは、かすれた車の音と、遠くの誰かの笑い声だけだった。
韓国を出てから、もう一年になる。
初めて一人で仁川空港に立ったときの、あの空虚な心をまだ覚えている。
家族は、止めなかった。
というより、関わる余裕もなかった。
母はいつも仕事で疲れ果てていたし、
父は数年前に家を出てから、たまにしか連絡をよこさなかった。
弟がひとりいた。
まだ高校生だったあいつに、何も言わずに日本へ逃げるように来た。
一度だけ、メッセージが来た。
『ヒョン、どこにいるの?』
既読をつけたまま、返信はしていない。
“お前が兄を持ったことを後悔しないように”
そんなことを思ったのに、
今の自分を見せられるはずがない。
小さく笑った。
自分が「守る側」になるなんて、どの口が言ってたんだろう。
今、自分が関わっているのは、
誰かの金を、誰かの名義で動かす、顔の見えない犯罪。
昔の自分なら――
あのまま大学に残って、まっとうに働いて、
ソウルの小さな部屋で暮らしていた自分なら――
今の俺をどう思うんだろうか。
スンホは、目を閉じた。
何も考えないようにしても、記憶は波のように押し寄せる。
こんなことになるなんて、思ってもみなかった。
でも、それでも――
生きなきゃならなかった。
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