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孤独

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孤独

4 - 第4話

♥

8

2025年06月30日

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三度目の着信が鳴り始めたとき、スンホはもう動けなくなっていた。
出なければ、と思うのに指先が冷たくて、画面をタップするのが怖かった。


けれど、鳴り続ける音が、胸の奥をぐしゃぐしゃに掻き回す。


意を決して親指をスライドさせた。


「……はい……」


スピーカーから、無機質な声が流れた。


「イ・スンホさんの携帯でお間違いないでしょうか?」


「……はい、そうです……」


「こちら〇〇銀行 不正取引モニタリングセンターの△△と申します。」


スンホの背筋が、一瞬で冷たくなった。


「え、……あの……」


「先日新規開設いただいた口座について、確認させていただきたい点がございまして。」


机の上に置いた封筒が、視界の端で白く光った。


「……何、ですか……?」


「お客様ご本人による取引である確認が取れず、一部の入出金を一時保留させていただいております。」


スンホは思わず息を飲んだ。


「保留……って……」


「念のためですが、口座はお客様ご自身で管理されていますか? 第三者へ通帳やキャッシュカードを渡しておられませんか?」


頭の奥で、何かが弾けたように真っ白になった。


「……いえ……、……自分で……」


「承知しました。では、後日改めて、取引状況についてお電話差し上げます。」


「……はい……」


プツッ、と切れたスマホの画面に、自分の青白い顔が映った。


しばらくスンホは息を殺して、その場に座り込んだ。


口の中が渇いて、言葉が出なかった。


その夜、男からメッセージが届いた。


『何か言われた?』


スンホは震える指で、「銀行から確認が来た」とだけ返した。


すぐに返事が来た。


『大丈夫だって言ったろ。放っとけば平気。明日、またちょっとだけ手伝ってくれ。すぐ終わるから。』


スンホの胸の奥で、小さな後悔が音を立てて膨らんだ。


電話が切れてからずっと、スマホを握ったままスンホは動けなかった。


部屋の隅に置いた安いデスクライトだけが、小さな光を落としている。


時計を見ると、針は夜の11時を指していた。


けれど、時間の感覚なんてとうに失くしていた。


「……大丈夫……大丈夫……」


誰に言い聞かせるでもなく、小さくつぶやく。


頭の中では何度も、『やめろ』『もうやめろ』『でも金がない』という声が交互に鳴った。


韓国にいる頃のことを思い出す。


詐欺にあったときのあの虚しさ。

それでも、自分が騙される側だったからまだマシだった。


今は、自分が“やる側”だ。


誰かが泣くかもしれない。

誰かの金が消えるかもしれない。


でも、知らない誰かだ。


俺じゃない。


そう思わなきゃ、眠れない。


喉が渇いて、冷蔵庫を開ける。


空っぽのペットボトルと、安い焼酎のボトルが一本だけ転がっていた。


蓋を開けて、喉に流し込む。


アルコールの匂いが鼻を抜けた瞬間だけ、何も考えなくて済んだ。


スマホの画面には、男からの「すぐ終わる」という言葉が残っている。


すぐ終わる。

すぐ。


「……すぐ……終わる……」


口の中で転がした言葉は、何の意味も持たないまま夜の空気に溶けていった。


スンホはそのまま、ベッドに倒れ込んだ。


明日のことを考えないように、瞼を強く閉じた。


天井を見つめながら、スンホは浅く息を吐いた。


雨も風もない、ただの東京の夜。


外から聴こえてくるのは、かすれた車の音と、遠くの誰かの笑い声だけだった。


韓国を出てから、もう一年になる。


初めて一人で仁川空港に立ったときの、あの空虚な心をまだ覚えている。


家族は、止めなかった。

というより、関わる余裕もなかった。


母はいつも仕事で疲れ果てていたし、

父は数年前に家を出てから、たまにしか連絡をよこさなかった。


弟がひとりいた。

まだ高校生だったあいつに、何も言わずに日本へ逃げるように来た。


一度だけ、メッセージが来た。


『ヒョン、どこにいるの?』


既読をつけたまま、返信はしていない。


“お前が兄を持ったことを後悔しないように”


そんなことを思ったのに、

今の自分を見せられるはずがない。


小さく笑った。


自分が「守る側」になるなんて、どの口が言ってたんだろう。


今、自分が関わっているのは、

誰かの金を、誰かの名義で動かす、顔の見えない犯罪。


昔の自分なら――

あのまま大学に残って、まっとうに働いて、

ソウルの小さな部屋で暮らしていた自分なら――


今の俺をどう思うんだろうか。


スンホは、目を閉じた。


何も考えないようにしても、記憶は波のように押し寄せる。


こんなことになるなんて、思ってもみなかった。


でも、それでも――


生きなきゃならなかった。


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