テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
目を閉じても、何も変わらなかった。
闇の向こうに、弟の声が聞こえた気がした。
『ヒョン、どこにいるの?』
ただの文字だったはずなのに、耳元で囁かれているようで、
スンホは思わず耳を塞いだ。
「……もう……」
声が出たのは自分でも意外だった。
こんなふうに、誰もいない部屋で声を出すなんていつぶりだろう。
「もう……無理かも……」
掠れた声が壁に吸い込まれていく。
やめようと思ったことは何度もあった。
でも、気づけば次の日にはまた“指示”を聞いている。
バイトじゃ稼げない金額を、一瞬でくれるあの男たち。
それを断る勇気なんて、自分にはない。
「……どうすれば……いいんだ……」
誰に問いかけているのかも分からない。
焼酎の瓶は空になって、床に転がっていた。
冷たい部屋の中、ふと体が小さく震えた。
「ヒョンって……呼ばれたの……いつだっけ……」
思い出そうとしても、頭の奥がざわざわと軋むだけだった。
もう一度、スマホを見た。
メッセージの通知が一件、増えていた。
『明日、また頼むわ』
スンホは、小さく息を吐いた。
「……もうダメかもな……」
その言葉だけが、ひどく現実味を帯びて、
部屋の壁にじっとりと染み込んでいった。
朝の空気は冷たくて、眠っていない頭には余計に刺さった。
スンホはコンビニの袋を片手に、小さな公園のベンチに座っていた。
いつもの待ち合わせ場所。
昨夜の焼酎の匂いがまだ喉に残っている。
数分後、スーツ姿の男が二人、いつも通り無言で近づいてきた。
その顔を見ただけで、胃がきりきりと痛む。
男のひとりが小さく笑った。
「おう、今日は早いじゃん。感心感心。」
スンホは俯いたまま、手の中の袋を握りしめた。
「……あの……」
声が小さすぎて、自分でも聞こえたかどうか分からなかった。
男が顔を近づける。
「ん? 何?」
スンホは一度、息を飲み込んだ。
喉が焼けるみたいに痛い。
「……もう……やめたいです。」
男の顔から、笑みがすっと消えた。
もうひとりの男が、口の端を吊り上げて笑った。
「え? 今なんて?」
スンホは視線を落としたまま、震える声を押し出した。
「……行きたくないです……今日の……仕事……行きたくない……」
公園の木々の葉が風で揺れる音だけが耳に入った。
男の一人が近づいて、スンホの肩にぽんと手を置く。
その手の重みが、急に自分を地面に押しつぶすように重かった。
「……スンホくんさ。」
男の声は笑っているのに、目は笑っていなかった。
「“行きたくない”ってのは、どういう意味だろうね?」
もう一人の男が口を開く。
「怖いのか? バレるのが? それとも金が足りてんの?」
スンホは小さく首を振った。
「……ちが……ちが……でも……」
「でも?」
肩の手が、ぐっと力を込めてきた。
スンホはその痛みに、言葉を失った。
男は小さくため息をついて、耳元でささやく。
「……行きたくないっていうのはな、ちゃんと代わりの話を持ってきてから言え。」
スンホの鼓動が、嫌な音を立てて早くなる。
男は笑ったまま、肩を叩いて離れた。
「ほら、行くぞ。時間だ。」
そう言って、スンホの腕を乱暴に引っ張った。
スンホの口から、小さな声が漏れた。
「……いやだ……」
でも、誰も聞いちゃいなかった。
古い黒のセダンの後部座席。
スンホはドアに体を押しつけるようにして座っていた。
隣にはスーツの男が一人、前の席には運転席と助手席に二人。
外は昼なのに、空はどんよりと曇っている。
エンジン音だけがやけに大きく響いた。
スンホの心臓はまださっきの“NO”を言ったままの音を立てていた。
窓の外を見ても、知らない道ばかり。
どこに連れていかれるのかも分からない。
ふと、運転している男が舌打ちをした。
「おい、見ろ。」
助手席の男が身を乗り出す。
スンホもつられてフロントガラス越しに前を見た。
パトカーの赤色灯が、遠くで回っていた。
「検問か? この時間に?」
「うぜぇな……」
男たちの空気が一気に張り詰める。
スンホの喉がひゅっと鳴った。
「……ねぇ、降りたい……」
小さく言った声に、隣の男が睨みを利かせる。
「黙ってろ。」
前のパトカーが近づいてくる。
すれ違うだけかと思ったその瞬間、
ルームミラー越しに赤色灯が回り始めた。
パトカーが車線変更してきて、彼らの車の真後ろにつく。
「……止まれってか……」
運転席の男が舌打ちした。
スンホの視界がぐらぐらと揺れた。
警察が来れば、このまま助かるかもしれない――
そんな小さな希望が喉の奥で泡のように膨らんだ。
しかし次の瞬間、隣の男が小さく笑って、スンホの太ももをぐっと掴んだ。
「いいか、変なこと言ったら……分かってんだろ?」
スンホの首筋を冷たい汗が伝った。
パトカーのサイレンが一段高く鳴り響く。
車はゆっくりと減速し、路肩に止まった。
運命が、自分の口ひとつにかかっている。
スンホの呼吸が、凍りついた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!