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ジニとカーサには、エイカの行き先に心当たりがあった。
クヴラフワ北方に広がるヴォルデン領は、北方から降臨せし神々が最初に踏み入ったというガレイン半島に接し、歴史あるものないもの大小無数の湖沼に覆われた水と泥と藺草の土地だ。しかし、湿地と鬼火の多い不便な土地ながらも王国時代には一定の自治権を維持し、諸公国時代を通じてクヴラフワ諸侯国連合に多大な影響力を保持した。名高き堅牢な城砦に守られた不落の王都は、防衛魔術の聖地として多くの魔法使いの巡礼地でもあった。それもクヴラフワ衝突までのことであるが。
それがエイカの故郷だ。
「知りませんでした」ユカリは感慨深げに呟く。「そういえば聞いたことありませんでしたね。エイカが拾われた場所なんて。てっきりオンギ村の近所かと」
ユカリとジニは残留呪帯を突破すると霧煙る陰気な湿地を歩き通し、諸公連合の一角となってからも王都と呼ばれ続けた街沼の民の都にたどり着く。その間ずっとカーサはユカリに巻き付いていて、時折興味深げに鎌首をもたげていた。元からそうだが、この旅路ではいっそう言葉少なだ。
「そうだっけね」ジニは素っ気なく呟く。「しかし、まあ、酷い有様だ。最も苛烈な戦場はカードロア市だったんだろうけど、あっちは呪いのせいで酷い有様すら残ってなかったからね」
一行の前には雲を貫き天を衝くほどの巨大な門が聳えていた。まるで山脈の如き威容は距離感を狂わせるのに十分だ。威嚇するように鋭い牙を剥き出しにし、鼻面に深い皴を寄せた狼が群れと積み重なった彫刻が門扉に施されている。ユカリにとっては懐かしき狼の王フロウを思わせる勇ましい姿だ。
門の名は『死霊も通さぬ堅き門』。時の偉大なる魔術師たちによる防衛魔術の極致として破城槌も邪な風も悪い夢も全て追い返して王都アギムユドルを守り続け、今なお毛の先ほども毀れることなく聳え立っている。その魔導書の如き堅牢さはクヴラフワ内外に知れ渡り、その流れを汲む模倣魔術ですらグリシアン大陸各地で数多くの成果を収めた。
ユカリたちは門の直ぐそばまでやってくる。遠目に見れば狼の彫刻だが、近寄って見れば狼の一本一本の毛が槍と盾を構えた戦士たちであることが分かる。その厳めしい表情一つ一つに不埒な魔性や傲り高ぶった敵対者を退ける神秘の力が込められているのだ。
ただでさえ光の足りないクヴラフワにおいて門のそばは夜のようだ。近づいてみれば封呪の長城にも引けを取らない巨大な門だと分かる。シシュミス神の姿も、一時的に隠された。
「この門はクヴラフワ衝突を生き延びたんですね」ユカリは伝説を目の当たりにして感嘆する。
「この門はね」とジニは呆れたような笑みを浮かべる。
門の傍にやってくるまでにユカリたちは遠目にも十分に門とその周囲を眺められた。門の左右に伸びているべき城壁は無残に破壊されていた。その残骸はしかし十分に往時の勇姿を想起させ、であるが故に悲劇的だった。結局のところ、門は破られずとも、城壁が破られてしまい、アギムユドルの都は滅びたのだ。
「こんにちは、『死霊も通さぬ堅き門』さん」ユカリは率直に【語り掛ける】。「少しお話しても良いですか?」
「人間! 人間! なんて懐かしいんだ! もう滅びたものかと」と耳を聾する巨大な歓迎、そして嘆きがユカリにだけ聞こえる。「ずっと寂しかったんだ! ずっとずっと誰もいない滅んだ都のために立ち尽くしていたんだ! みんなみんないなくなってしまった! 私は落ちなかったのに! 都は落ちた!」
「お気持ち察するに余りあります。では、私たちがここへ来るまで誰も来なかったのですか? 四十年もの間」
エイカもハーミュラーもここには来ていないのだろうか。道中でもハーミュラーかエイカを見かけた物はいなかった。
「どうだろうね。私に比べると君たちは小さすぎる。うじゃうじゃいたならともかく、一人二人そばを通ったって気づきっこない。君のように語り掛けてくれたなら、もちろん気づいただろうけれど」
ユカリはジニとカーサにも門の言葉を伝える。
「そうかい。概ね聞いていた通り、少なくとも住民はいないんだね。信仰対象に魔導書が力を集めるのだとしても、この土地では成立しないってことになる」
その偉大で寂しがりやな門によると、少なくとも四十年前までは『死霊も通さぬ堅き門』こそが信仰対象だったのだそうだ。しかし今やどこにも敬虔なる信徒はおらず、門のそばにも合掌茸は生えていなかった。
「でも魔導書の気配は感じるんですよ。なぜか方向が分からないですけど」
すぐそばにあるようにも、とても遠くにあるようにも感じられた。他にあてはないが必ずしもあてにならない霊感だ。
「仕方ない。先にあたしらの個人的な人探しでもしようじゃないか。ハーミュラーが来ているか、エイカが来ているか。どちらも来ていないか、どちらも来ているか」
ユカリも賛成だった。話を聞くのも大事だが、自分の足で探すのも大事だ。
「お話ありがとうございます。どうか気を落とさないでください」ユカリは亡霊のように嘆き悲しむ門を励ます。「クヴラフワの呪いが解けた日には、この都にも再び人が集まることでしょう。少なくとも貴方の立派な姿を一目見たいという人は大陸中にいるはずですから」
「もう行くのかい!? お願いだからひとりにしないで欲しい!」
「いいえ、しばらくはこの街にいることになると思います。貴方の姿も声もこの街にいれば見えますし聞こえますから、ひとりにはなりませんよ」
しかし約束もできない。それは『死霊も通さぬ堅き門』も察しているようだった。
「どうか、少しでも長い間、アギムユドルに滞在してくれることを願うよ」
門をくぐることはできないので、崩れた城壁を越えることになった。それもほとんど山登りのようなものだ。飛んでしまえばいいのだが、あまり目立ちたくはない。ハーミュラーがいたなら気づかれないように探りたいからだ。仄かに輝く魔法少女の姿では難しい。
「何とでも話せるのかい?」崩れた城壁の瓦礫を両手両足を使って上り越えながらジニは興味深げにユカリに尋ねる。
「はい。相手に話す気があれば、ですけど。結局のところ性格次第です」
「性格ねえ。門の性格はどうだった?」
「寂しがり屋でした。ずっと誰の声も聞こえなかったせいでしょうか、喜んで話してくれたのは良かったです」ユカリも釣られて寂しい気持ちになり、ジニに尋ねる。「でも戦後しばらくは人がいたんですよね? つまりエイカに出会った時とか」
「ああ、そうだね。あちこちを旅していた頃、クヴラフワの戦争を聞いて訪れた。何か助けになれることがないかと思ってね。孤児が沢山いたから全員引き取った」
「全員!?」とユカリは驚く。
「ああ、そうさ。数百人はいたかね。とはいっても、もちろんあたし一人で育てられるわけもない。引き取り手を探して回ったのさ。別に孤児たち連れて大陸中を引き回したわけじゃないよ。何年かかったけかな、一年か二年で全員里親を見つけたはずだけど」
ユカリは不思議そうに首を捻る。「じゃあエイカは? エイカだけなんで引き取ったんですか?」
「あの子は他の何人かと一緒にミアティラの精霊学舎に預けたのさ。正統アムゴニムの魔術研究と教育の機関だよ。が、知っての通りあの子には魔法の才能が欠片もない」
「欠片もないってことはないですよ」とユカリは罪悪感混じりに弁護する。
少なくとも扉を移動させる魔術はルキーナことエイカから学んだのだ。
「魔法が使えなくたって生きる術は山のようにあるんだけどね。あの性格だもの。馴染めなかったのさ、周りがね。三歳くらいまでは預けてたんだけど、結局引き取ることにした。丁度その頃、ルドガンと結婚して、お腹にイーディアもいたんだけど」
一度も会ったことのない長男の名前がユカリには全くしっくりとこなかった。聞き覚えはあるような気がする。
「義父さんは反対しなかったんですね」
「そりゃそうさ。あたしなんかと結婚してもいいって男が許せないことなんてあるもんかね」
義母が自身を卑下するのは珍しく、ユカリは内心驚いていたが、義母の声色に義父への愛しみと慈しみを感じた。
瓦礫の頂に至り、ユカリたちは顔だけ覗かせてアギムユドルを見渡す。投石による破壊痕と炎による焦げ、多種多様な呪いの傷跡が生々しく残っている。それでも来し方の栄華を垣間見る程度の姿は残していた。半ばで崩れた尖塔も、鈍く輝く青銅葺きの円錐屋根も廃墟には違いないが、令名高き王を戴いた古の王朝の遺跡のような貫禄を保っている。
しかしアギムユドルは王都でありながら王城らしきものがない。アギムユドルの王城とはすなわち城壁だったからだ。都市の周囲を囲み、また中心へと五つの城壁が伸び集っていた。その城壁の上に王は君臨し、その驕りと共に滅んだ。たとえ『死霊も通さぬ堅き門』の神秘に準ずる魔術が施されていたとしても不朽の殿堂ではありえなかった。そしてそれ以上に庶民の住まったであろう住宅は壊滅していた。門と城壁の堅牢さにかまけ、葦や藺草の網代に泥を塗り込めたような簡易な建築だったからだ。
二人と一匹はシシュミス神のように大きく目を見開いて、エイカか巫女ハーミュラーか教団の信徒か神官か、誰のものでもいいから人影はないかと探す。土地神でも祟り神でも構わない。しかし動く者は風に吹き流される塵と八つの光と影の移ろいだけだった。
「誰もいないですね」とユカリは呟く。「呪いのせいでしょうか」
実のところユカリたちはヴォルデン領を支配する呪いについて何も知らなかった。それについてはシシュミス教団すら把握できていないのだとヘルヌスに報告されていた。
ヴォルデン領には誰もいない。故に呪いの正体も分からない。あるいはヴォルデンを呪いに沈めた救済機構なら把握しているかもしれないが、素直に教えてはくれないだろう。
ならば誰もいないことこそが呪いの結果である可能性が高い、とユカリの信頼する二人の魔法使いが事前に推測していた。皆呪いに命を奪われたのか、それとも呪いに追い出されたのか。
それにここへ来るまでにいつも通り残留呪帯を通り抜けた。あれは強力な呪いを取り巻く泡の膜のように形成されるのだ。ここに呪いが無いわけではないということだ。
「門以外にも話しかけてみましょうか」とユカリは一応提案する。
「どの扉?」とジニはからかう。
「別に扉じゃなくてもいいです。まあ、エイカの得意な魔術なので、ここで使っている可能性もありますが」
「あの子に得意な魔術があったなんてねえ。確かにあたしが教えた魔術だけど、そんな素振りちっとも見せなかったよ。感慨深いけど、黙ってたってことはあたしが知らない内に悪戯に利用されてたんだろうね」
「私も教わって何度か利用しました。魔導書を手に入れるための助けにもなりましたよ。まだ得意というほどではないですが。扉を破壊して密室を作るっていう」
そうして禁忌文字の【浄化】を完成させたのだ。同じ魔術で燃える家に閉じ込められたことは黙っておく。
「ん? 扉を破壊しても密室にはならないはずだよ」とジニは首を傾げる。
ジニが魔術の概要を今一度ユカリに教授する。取り外した扉や窓を破壊しても、元々扉や窓があった場所に穴が開くだけだとのことだ。塞がったりはしない。
「それじゃあ、唯一得意な魔術も失敗していたんですね」とユカリは呟く。あまり憐れみという感情を実母には抱きたくないものだ。
「いや、失敗じゃないよ。やりたいことをやる。成したいことを成すのが魔法ってもんさ」ジニは誇らしげに説く。「エイカもあんたも狙い通り作戦通りにやり遂げたんだろう? なら成功だよ。新しい魔術を生み出したのさ、あの子は」
それを聞いたならエイカも喜ぶだろう、とユカリは思った。ユカリも嬉しかったし、ジニも喜んでいるからだ。