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二人と一匹はかつて大いなる驚異の城壁だった瓦礫の山を下り、アギムユドルの街へと踏み入る。やはり人の気配はない。それどころか生き物の気配も、人間の視界の隅を寝床とする妖精や瓦礫の隙間に好んで巣食う魔性のような不思議な気配もない。あとは湖沼の茂みの間からやってきた静寂と呪わしい戦を伝える古い嘆きだけが通りを行き交っている。
初めは慎重に物陰から物陰へと移動し、エイカとハーミュラーを探したが、本当に誰もおらず気配も何もないので、ユカリたちは気が付けば少しばかり大胆に通りを歩いていた。
「呪いもなくて人もいないなら本当に何も用はないんですけどね」とユカリは呟く。
しかし人がいない原因が呪いならば放っておけない。
「これまでの呪いの傾向から分かることはないのか?」とカーサに尋ねられる。
「こことは違って、これまでに解呪した呪いはほとんど大王国のもたらした呪いです。唯一、マローガー領の『快男児卿の昇天』だけ機構の呪いですが、傾向というには……。そういえばマローガー領の呪いの中心、バソル谷に関しては結局生き残りがいなかったんですよね。そう考えるとまるで機構の呪いは衝突した大王国ではなく、クヴラフワの民を狙っているかのようです」
ユカリの推測にジニはうんうんと頷く。
「呪いがクヴラフワに蔓延したのは結果的なものだけど、確かにいかにも直接的に攻撃的な大王国の呪いと違って、機構の呪いは妙だね。高所を渇望させて塔を築かせる呪い? 使えなくもないけど冗長だね。とはいえ戦場ってのは工房の次に人気の実験場だからね。ある種の魔術師たちにとっては本番だけどさ」
ユカリは嘆かわしい事実を憂鬱に感じつつも街の中心部へ向けて歩を進め、話を進める。
「救済機構と大王国に東西で挟まれたのが運の尽きですね」
「一応言っておくが、ユカリ」と蛇が耳元で囁く。「シグニカ側はクヴラフワの同盟国としての支援を名目に参戦したんだぞ。北のガレインは自分のところで手一杯、南のハチェンタはライゼンに南下するつもりがないと知るや静観を決め込んだからな。他に頼れるところはなかった」
だからクヴラフワの民を狙うはずがない? そうだろうか。ユカリにとっての救済機構への評価は落ちる所まで落ちていた。
「救済機構が他所の国々を助けるために……。当時の聖女は良い人だったんですね」
「第五聖女、優しきヴィクフォレータの時代だね」ジニが懐かしむように語る。「まあ、優しさなんかで戦争はしないけど。単にライゼンの属州と隣接したくなかっただけさ。同盟が無かったとしても首を突っ込んだだろうね」
その時、廃れた街では聞かない音が聞こえた。何かの軋む音。生活音のようなささやかな音だったが、一際静寂に満ちた廃墟ではよく響いた。想像するに扉の開閉音だ。
「聞こえました? やっぱり誰かいるんでしょうか?」
二人と一匹は息を潜め、身を潜めて獣を追う狩人の如く足音静かに、軋む音の聞こえたまだ形を残している路地へと入っていく。しかし腐った扉も薄汚れた窓蓋も全て閉じている。それ以上遠くではないはずだ。ユカリが耳を澄ますと再び軋む音が、今度は直ぐ近くで聞こえて振り向くが、しかしそちらの家屋の扉はやはり閉まったままだ。
「中の扉かねえ」
「だが足音が聞こえない」
「あれ、見てください」
ユカリの指さす開いたままの窓から朧げな光が漏れていた。丁度蝋燭の火のような揺らめきだ。
ユカリがそっと近づいて窓を覗き込むと変わらず光っている。しかし蝋燭はなく、しかし窓辺に蝋燭立てがあり、蝋燭なしに蝋燭の光を放っていた。人の姿はない。
すぐ後ろで足音が聞こえ、振り返るがジニは最初の扉のそばで聞き耳を立てている。ユカリから足音が遠ざかるが足音の主の姿はない。何も知らなければ幽霊だと思うことだろう。
「まるでカーサさんみたいじゃないですか?」とユカリは首や腕に巻き付いている者に同意を求める。
「ああ、俺からも見えないが、これは深奥に沈んでいる者の気配に違いない」とカーサが答える。
「あちらからは見えているんでしょうか? こちらに気づいていないような」
「つまるところ俺よりは深く、エイカよりは浅いところにいるのだろう。本人の資質にもよると思うのだが」
ジニもユカリたちのもとへやってくる。
「深奥に潜るしかないね。今度はあたしが準備するよ。ベルニージュより上手くね」
そんなことできっこない、とベルニージュなら反論するだろう。
「要するに残留呪帯を再現すればいいんだよ」とジニはこともなげに言い、大通りに魔術を施す。
ジニが指でなぞると石畳が経年の轍のように削られ、文字が刻み込まれる。普段から持ち歩いているという毒々しい色の草木の粉末や異臭を放つ粘り気のある液体を辺りに振りまく。あらゆる言語で様々な形式の詩を組み合わせて呪文を唱え、手と腕を揺らめかせ、足を踏み鳴らし、魔術の準備のために数多の魔術を行使している。
鞄に足を生やす魔法。靴が脱げやすくなる魔法。居ても立ってもいられなくなる魔法。操り人形の糸を切る魔法。小石を一瞬硬貨と見間違える魔法。十分に働いた気になる魔法。胡桃を割る魔法。丁度いい長さの木の枝が光る魔法。お喋りになる魔法。体が柔らかくなる魔法。利き手が逆になる魔法。爪が速く伸びる魔法。自分だけの星座を見つける魔法。自然と笑顔になる魔法。花の花弁を一枚多くする魔法。魔法の数を数えるのが苦にならない魔法。
ユカリは邪魔にならないように通りの端で魔法使いジニと助手のカーサの仕事を眺めている。
「残留呪帯ってクヴラフワ衝突の時に生まれたものなんですよね? 沢山の魔術師が戦争に使った呪いの残滓だって聞きました。そんなものを再現できるんですか?」
「別に全く同じじゃなくたっていいのさ」ジニはまるで子供を安心させようとするみたいに微笑む。「この辺りの空間の秩序を破壊すればいいんだから、別に危険な呪いである必要もない。クヴラフワだから他の土地よりも容易いしね」
義母に魔法を教授され、ユカリの胸の内に幼い頃の炉辺にいるような懐かしい気持ちが湧いてくる。
「クヴラフワは魔法を使いやすいってことですか? どうして?」
「どうしてか。これまでは、ここが神々と巨人たちの最終決戦の地だからだ、と考えられてきた。それはあんたも知ってるよね?」
「はい。北方の神秘の土地から海を越えて、ガレイン半島に上陸した神々は千古の昔グリシアン大陸を支配していた巨人たちと対立し、争った。何百年、何千年もの戦いの果てに巨人の骸を山と築き、特にガレインからクヴラフワにかけては巨人の死骸で埋め尽くされたとか」
「古来クヴラフワほど魔術の生み出された土地はない」ジニは準備が整ったことを再度確認しながら話す。「その巨人どもの亡骸が魔法の触媒として機能しているんじゃないかってね。だけどそんなには見つかってない」
じゃあどうして、と言いかけてユカリは考え直す。答えは明らかだ。
「実際には魔導書が触媒として機能していたってことですね」
「そういうこと、なんだろうね。さあ、準備ができた。あんたはそこら辺で休んでな」
「待ってください」ユカリは慌てて呼び止める。「私だって行きますよ。大体義母さんは深奥に潜ったことないじゃないですか」
「ベルニージュに聞いたよ。大体掴んだから大丈夫」
「私は完全に掴んでます!」
ジニがわがままを言う子供をたしなめるような表情になる。
「あんた結局深奥への扉を開けられなかったじゃないか」
「それは! そうですけど……。それは入る時だけの問題ですし、戻ってくるのに扉を開く必要はないですから」
ジニが溜息をつきつつも折れる。「分かったよ。ただしきちんと扉が開けたかどうか確認するためにもあたしがまず入る。その後についてきな」
「はい。分かりました」ユカリは満足げな笑みを浮かべて首肯する。
「ところで、今もシシュミス神は見えてんのかい?」とジニに尋ねられ、ユカリは緑の空を一瞥する。
相変わらず蜘蛛神シシュミスの八つの瞳が朧げな緑の光をクヴラフワに投げかけている。
「はい。残念ながら」
「そうかい」ジニは少し思案するように混沌を起こすための魔術の具合を眺め、納得したように頷く。「よし。始めるよ。準備しな。ほら、深奥への扉を開けられるようになりたいんだろう?」
ユカリはしっかりと頷く。そして挑戦する。しかし結局、一度も成功しなかった。