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✧≡≡ FILE_019: ルミライト ≡≡✧
高エントロピー合金という言葉を、初めて聞いたときの感覚を覚えている。
金属ですら“秩序”を求めるというのに、あえてそれを壊し、混ぜ、攪拌し、元素同士の境界を破壊し──最終的に「安定」する。そんな矛盾が許されるのは、物理法則くらいのものだ。
さて、第六実験室である。
ここは昔、原子炉の制御室として設計されたが、現在はほぼ空の箱だ。
研究員たちは敬遠する。“何だか気味が悪い”だとか。
俺はむしろ、気味が悪いくらいがちょうどいいと思うのだが。
「……記録開始するわ」
コイルが、古びた記録端末のスイッチを押す。
やけに明るい声を出すのは、緊張を押しつぶすための癖なのだろう。
彼女の緊張は、指先の速さに出る。速すぎるタイピングは、呼吸の乱れとほぼ比例する。
背後のスピーカーがかすかに鳴った。
〈こちら裏制御室。──キリス(フラッシュ)だ〉
声だけ聞けば落ち着いている。だが軋む息が混じる。彼が平静を装うときは、決まって失敗を恐れているときだ。
俺は試験台に視線を落とす。
今日の主役──高エントロピー合金試験片。
五種以上の金属を“ほぼ均等”に混ぜるという、もはや合金と呼ぶのもためらう構造体だ。
「温度管理システム、稼働確認」
コイルが読み上げる。
「稼働音は正常です」
「では始めよう」
俺は短く答え、試験片の上部に取り付けられたセンサをチェックした。
〈ペルチェ素子、出力10パーセントで加熱開始します〉
「許可する」
金属の内部で、わずかな振動が生まれた。
それを“音”として認識できるのは、長年材料を見続けた感覚によるものだろう。
科学的根拠ではなく経験値──いわば、研究者人生の副産物だ。
「温度、28.1……28.3……28.5」
コイルが読み上げる。
声の端が震えているのを、俺は見ないふりをした。
ルミライトは28.7度を越えると超伝導を失う。
その常識を壊すための実験なのだから、緊張しないほうがおかしい。
〈28.7度──到達〉
スピーカー越しのフラッシュの声が、空気を刺すように静まった。
試験片は──崩れなかった。
だが“壊れない”ことは、“正常である”こととはまったく違う。
金属表面が、不自然に滑らかになっていく。融解でも固化でもない。内部の原子配列が、まるごと組み換わっている。まさに“別の金属へ変わる途中”の挙動だった。
「ドヌーヴ……これ、安定してるの?」
コイルの声は震えていた。
「安定には程遠い。──だが、崩壊の兆候もない」
重要なのはそこだ。
28.7度で必ず壊れていたはずの金属が、壊れずに“新しい相”を探している。
ありえない現象に、私の背筋さえ粟立つ。
〈結晶応答に変動……いや、違う。これは……安定相の移行?〉
フラッシュの息が裏で詰まった。
俺は試験片に触れかけて──やめた。
この段階の金属に触れるのは、自殺行為だ。
〈温度29.0度〉
その瞬間、金属内部がぼんやりと光り始めた。
外部光源ではない。
熱放射でもない。
“格子が再配置される際の電子放出”──本来、誰も肉眼で見るはずのない現象だ。
コイルが息を呑む。
「これ……安全なの?」
「……………」
俺の心臓も速く打ち始めていた。
危険と成功の境目──そこに立つ快感は、研究者でなければ理解できない。
〈電流ライン、投入準備完了〉
フラッシュの声がかすかに震える。
「電流を流せ」
迷う理由はない。
躊躇は科学の敵だ。
〈了解──通電。0.5アンペアから〉
一瞬。
金属表面に白い線が走った。
稲妻のように見えたが、音がない。
光だけが、内部の再構築された格子をなぞるように移動していく。
「……これは、磁束量子(フラックス)が“線”として可視化されているのか?」
自分の声が低く響いたのは、恐れではない。
見たことのない現象を前にした、純粋な科学的昂揚だった。
光を放つなど──物理学への挑発に等しい。
だがその挑発は、美しかった。
この金属は、美しさの形で“未知”を語っている。
〈ドヌーヴ……この値、確認できるか? 抵抗……ゼロを割ってる〉
「抵抗“ゼロ以下”か」
コイルが息を呑む。
「ゼロ以下って……どういう意味になるの?」
「“我々の計測基準が追いついていない”という意味だ。新しい材料とは、本来こういうものだよ」
今、この瞬間に起きている現象は──“光爆弾”という未来の悲劇に通じる第一歩 でもあり、“人類がまだ見たことのない金属”への扉が開く奏でもあった。
そして俺は、後者を選ぶためにここにいる。
「フラッシュ」
〈……なんだ?〉
「次へ進もう。出力を一段階上げろ。この金属がどこまで“新しい相”を作れるのか、確かめる」
〈……、了解。出力、20パーセントへ……〉
俺は知っている。
この段階が、ただの「次のステップ」ではないことを。
出力20パーセント。
ここが、この実験の“第一の関門”だ。
超伝導体とは、電流を流せば流すほど内部に磁場が生じ、格子が歪む。
それでも形を保てる金属は、強い。だが、“新しい相”へ移行する金属は、その歪みを利用して自ら構造を作り替える。
つまり──20%は、“偶然の成功”と“本物の新素材”を分ける境界線。
この出力で構造が潰れれば、ただの失敗。だが、もし耐え、さらに“別の安定相”へ移り始めるなら──それは 新しいルミライトが誕生する条件を満たし始めた証拠だった。
〈出力、20パーセント──維持〉
フラッシュの声は震えていたが、数字だけはぴたりと正確だった。
直前まで試験片の表面を不規則に走り回っていた白い光が、収束し、一本の“線”として定位置に固定される。
コイルが息を呑んだ。
「……動かなくなった……? 固定されたの?」
「いや、この金属自身が、エネルギーの通り道を“定義した”んだ。」
モニターに映る内部構造は、常温超伝導としてはあり得ない挙動だった。
──内部応力で潰れるどころか、そのストレスを利用して、別の結晶相へ組み替わっている。
温度は29.2℃。
常識的には完全崩壊の領域。
だが、試験片は崩れない。
〈抵抗値、ゼロ……維持。磁化率……上振れていますが、不安定ではありません〉
フラッシュの声が、制御室の静寂に吸い込まれた。
俺はモニターを見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
「……成功だ」
空気が震えた。
科学者の言葉にありがちな歓声も興奮もない。
ただ、“事実を確認する声”だった。
そして、もう一度。
「フラッシュ。成功だよ」
はっきりと彼の名を呼ぶ。
それは祝福の響きを秘めた、珍しい呼び方だった。
制御室のスピーカー越しに、フラッシュが短く息を呑む音がした。
その瞬間──彼の意識は、現在から遠く離れた“あの日”へと引き戻される。
〈……成、功……?〉
声が震える。
だがそれは、今の実験に対するものではない。
「──ああ。紛れもなく成功だ、フラッシュ」
ドヌーヴのその言葉は、他の誰にとってもただの評価だっただろう。
だが、フラッシュにとっては──胸の奥に沈んでいた何かを、揺らす“合図”だった。
成功。
世界を変える。
未来を作る。
その言葉が、彼を“別の時間”へ引きずり込んだ。