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封筒の中に入っていた一枚の紙。
そこに記された文字を見た瞬間、梓の背中に氷の刃が這った。
「ようこそ、“記録者(スクライブ)”へ。貴女の役目は、まだ終わっていません」
意味がわからない。
だが、わからないからこそ、その言葉の奥に潜む何かに
恐ろしいほどの“確信”が宿っていた。
――これは、夢ではない。
そう思った瞬間、梓の周囲の空気が、ふ、と変わった。
まるで、密閉された部屋の中に誰かが忍び込んできたような……
肌の表面を何かが撫でるような感覚。
時間はすでに深夜0時を回っていた。
編集部の他の社員はとうに帰っており、静まり返ったフロアに
パソコンのファン音だけがかすかに響いていた。
「……誰か、いるの……?」
誰に向けたのでもない言葉だった。
しかし、それに応えるように、背後から、風もないのに
何かが「動いた」気配がした。
硬直する。
身体が自分のものではないように、動かない。
冷や汗が、額からこめかみへと流れ、視界の端がにじんだ。
なぜかはわからないが、“見てはいけない”ものがすぐそこにある。
振り返れば、それが視界に入ってしまうという直感。
編集長の佐伯が戻ってくれば――。
一瞬だけ、そんな淡い希望がよぎる。
だが、
(……無理だ。)
その確信とともに、梓は深い孤独の中に突き落とされた。
時間の感覚が狂っていく。たった数分でしかないはずの時間が
異様に長く感じられる。
時計の針は10分も進んでいなかったが、梓には30分にも感じられた。
その時だった。
「おつかれさまです~。あれ、先輩? まだいたんですか?」
ぱたぱたと小走りの足音が聞こえた直後
編集部のドアが開き、若い女性の声が室内を明るくした。
「……水瀬?」
現れたのは、同じ編集社で働く後輩――**水瀬 悠(みなせ はるか)**だった。
梓より数歳下。長い黒髪をゆるくまとめ、細身のジーンズに白シャツ、
淡いベージュのジャケットという飾り気のない装い。
見た目は垢抜けていて、街中では一見フリーライターか
インフルエンサーにも見えるが、実際は根っからの真面目なタイプ。
彼女は、取材の時だけ“賢そうに見えるから”という理由で
伊達メガネをつける習慣がある。
「なんか、取り忘れがあって……え? なんか顔色悪くないですか?」
梓は無理に笑みを作った。
「ちょっと、疲れてるだけ」
「……そうですか? 顔色、マジでヤバいですよ?
もしかして、“見ちゃった系”ですか? また例の手帳の話とか……」
軽口を叩く水瀬の声が、奇妙に遠くに感じられる。
その間も、梓の視界の隅では、
机の上の黒い封筒がじっとこちらを見ているようだった。
「あ……ネタ探しでさまよったけど、結局いいの見つからなかったですよ~」
水瀬が椅子に座りながら、わざとらしく肩を落とした。
「やっぱ、幽霊は出ても顔は映らないし……噂話も都市伝説止まりだし
……っていうか、実際“書ける内容”にするのが一番大変なんですよね。
ね、先輩もそう思いません?」
「……そうだね」
なんとか返事をする梓。
封筒を机の上に置いておくことはできなかった。
それを水瀬に見せてはいけない、そんな予感があった。
梓はそっと封筒を鞄にしまい込む。
しばらくして、水瀬は書類を探し終えると、軽く会釈して帰っていった。
「じゃ、お疲れさまでした。あんまり無理しないでくださいよ?」
ドアが閉まり、再び編集部には静寂が戻る。
先ほどまでの空気の変化は、すでに収まっていた。
けれども、梓の心は落ち着かなかった。
――スクライブ。
あの言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。
夜の電車。
揺れる車内の席に座りながら、梓は鞄の中の黒封筒を思い出していた。
あの言葉は何を意味しているのか。
なぜ自分が“記録者”と呼ばれるのか。
(記録……する? 何を?)
映像? 文章? それとも、“出来事そのもの”?
自分が目にしたこと、夢の中で体験したこと、
それすらも含めて、誰かの“計画”に組み込まれているのではないか。
車窓に映る景色が、なぜか“現実感”を欠いていた。
街灯の光も、通り過ぎる住宅の窓も、すべてが仄暗く、歪んで見えた。
(まるで、世界が少しずつ“あちら側”に引きずられていくような……)
不意に、車内の照明がわずかにチラついた。
それだけで、梓の胸はぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。
自分は、もう日常には戻れないのかもしれない。
そんな予感が、静かに、しかし確かに彼女を包み込んでいた。
(→ 次話に続く)