『雨季に泣く父』
タイ南部の、小さなゴム農園の村。
雨季になると毎年、村は静かに沈む。
ソムチャイは、壊れかけの小屋で一人暮らしの男だった。
妻は十年前に病で亡くなり、ひとり息子のナロンも、七年前にいなくなった。
「いなくなった」と、村では言われている。
だが本当は、ソムチャイが――売った。
嵐の夜だった。
大雨で農園は全滅し、借金取りが家の前に立ち尽くしていたあの夜。
「一人、引き取れば借金は消す」
ソムチャイは断った。最初は。
だが、ナロンが高熱でうなされていた。
薬も、金も、なかった。
そして、夜が明けた。
朝、ベッドは空だった。
小さなゴム草履だけが、床に揃えられていた。
ソムチャイは何年も、雨季が来るたびに泣いた。
仕事をしても、酒を飲んでも、眠っても、ナロンの声がする。
「パパ、雨きらい」
「パパ、ぼく、いい子でいるよ」
七年目の雨季の夜。
戸を叩く音がした。
ぎぃ、と扉を開けると、そこに――
痩せ細った、少年が立っていた。
肌は土のように冷たく、目は濁っている。
「……ナロン?」
少年は、ゆっくり笑った。
「パパ、おなかすいた」
ソムチャイは泣きながら、抱きしめた。
細い。軽い。あまりに軽い。
「ごめんな……ごめんな、ナロン……」
少年は、父の背中に顔をうずめて、ささやいた。
「ねぇパパ」
「ぼく、あのね」
「パパが売った日から――ずっと、雨ふってるとこにいたんだよ」
ソムチャイの背中を、冷たい指がつかむ。
「暗くて」 「寒くて」 「おなかすいたままで」
「毎日、パパの名前呼んでた」
ソムチャイの喉から、獣のような声が漏れた。
「ごめんな……殺してくれ……」
少年は、首を横に振った。
「ううん」
「ぼく、帰ってきただけ」
雨が、屋根を打つ音が、突然止んだ。
代わりに、
ぽた、ぽた、ぽた
室内に、水が落ちる音。
見上げると、天井から黒い水が垂れている。
それは水ではなかった。
――泥と、血だった。
少年の身体が、ぬるりと崩れた。
腕が落ち、足が落ち、
最後に、頭だけが父の腕の中に残った。
ナロンの口だけが、まだ動いている。
「ねぇ、パパ」
「ぼく――まだ、おなかすいてる」
ソムチャイの視界が、暗くなった。
翌朝、村人たちが彼の家を訪れたとき、
ソムチャイは梁から首を吊っていた。
その腕には、何もなかった。
ただ、床には小さなゴム草履が揃えて置いてあった。
雨季が、また始まった。
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