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「雨季に喰われる父 ― 続・空洞』
家が消えたあとも、
ソムチャイは「いた」。
誰にも見えない形で。
村人は、あの家があった場所を避けるようになった。
夜になると、そこだけ空気が重く、音が沈むからだ。
犬が近づかない。
赤ん坊が、理由もなく泣き出す。
井戸の水だけが、濁る。
――彼は、そこにいる。
だが、自分がいる“場所”が分からない。
目も、指も、声もない。
思考だけが、暗い空間の底に沈んでいる。
最初に戻ってきたのは、音だった。
子どものすすり泣き。
遠くで、連れていかれる足音。
鉄の扉が閉まる音。
それは夜ごとに、増えていった。
やがて、それは――
「外」で起きているものではないと、ソムチャイは気づく。
すべて、自分の“なか”で鳴っているのだと。
ある夜、声がした。
「パパ」
ナロンの声だった。
姿はない。
音だけが、直接、意識に触れてくる。
「ここ、せまいね」
「でも、ぼく、もう慣れたよ」
ソムチャイは、必死に答えようとする。
だが、声にならない。
「パパ」
「ぼく、ずっと探してたんだよ」
「……なんで?」
ソムチャイは、心の底から思った。
なぜ、許されない?
なぜ、償いは終わらない?
ナロンは、静かに――
とても、静かに――言った。
「だって、パパ」
「ぼくは、まだ終わってない」
「向こうはね」
「“終わらせてくれない”場所だった」
その言葉の奥から、
他の“声”が、滲むように重なる。
知らない子の声。
女の声。
掠れた男の声。
数えきれない。
「みんな、帰り道をなくした」
「だから――」
ナロンは、微かに、笑った。
「帰れる場所に、集まるの」
ソムチャイは悟った。
自分は地獄ではない。
出口だ。
終わったはずのものたちが、
終われなかったものたちが、
戻るために――
すがる“穴”。
季節がいくつ過ぎても、
彼は自分が何年「そのまま」なのか分からない。
時間は、進まない。
ただ、積もる。
悲鳴が。
恐怖が。
諦めが。
それらは、波のように押し寄せ、
引かず、消えず、堆積していく。
ソムチャイは、もはや
何を考えているのかも、曖昧になってきた。
“自分”が溶けていく。
最初に失ったのは、顔だった。
次に、名前。
次に、息子の笑顔。
代わりに、残ったもの。
――あの日、振りほどいた感触。
それだけが、永遠に、鮮明だった。
ある年の雨季。
ひとりの少女が、消えた。
泣きながら、家を出て、戻らなかった。
その夜、ソムチャイの中に――
新しい「音」が混じった。
小さな、嗚咽。
「……こわい……」
ソムチャイは、叫びたかった。
ここに来るな。
戻れ。
まだ、引き返せる。
だが、声は届かない。
少女の声は、ゆっくりと――
彼の“奥”に沈んでいった。
そのとき、ナロンが言った。
「ねぇ、パパ」
「いまね、パパのなか」
「いっぱいなんだよ」
ソムチャイは、
その言葉の意味を理解してしまった。
彼は、もう――
誰ひとり、助けられない。
そのくせ、
誰ひとり、離れさせてやれない。
村では、噂が囁かれるようになる。
「雨季になると、夢で見知らぬ男が泣いている」
「その男の中に、子どもがいる」
「出して、と言っている」
だが、誰も探さない。
誰も、救わない。
村は静かに、
その“場所”を避けながら、生きる。
そして、また――
次の雨季。
次の、消失。
ソムチャイは、
もう、息子の声さえ聞き分けられなくなっていた。
区別がつかない。
誰が来て、
誰が泣いているのか。
それさえ、彼自身の感情なのか、分からない。
ただ、分かることは一つだけ。
この物語に、
終わりはない。
彼は、裁かれているのですらない。
許される資格も、
裁かれる価値もない。
ただ、
“使われ続ける”だけ。
村の古地図から、
その家は消された。
地番も、記録も、なにも残らない。
だが――
雨季になると、
そこだけ、足跡が集まる。
外へ向かわない。
散らばらない。
一点に、沈む。
そこにいるものの名を、
誰も知らないまま。