沙良行きつけの書店のドアを押し開けて店内へ入ると、乾いた紙とインクの匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
外の冷たい空気とは別の、やわらかく温かな空気。
他の本屋でも幾度となく嗅いできたはずの香りなのに、沙良が出入りしている書店だと思うだけで、やけにその香りが鮮明に感じられた。
沙良自身が、胸の奥にゆっくりと染み込んでいくようで、僕は無意識に呼吸を深くしてしまう。
ぐるりと店内を見回した僕は、心ともなく店舗奥の文庫コーナーへと足を向けた。
レジ近くの平台には新刊が整然と平積みされていた。
その中の一冊。淡い色合いのカバーが目に入る。
沙良なら、まず表紙の色を見るだろうな。タイトルや著者よりも、手に取ったときの印象を大事にしそうだ。
そういう本の選び方をする人間は、読み終わってからもカバーを大切に扱う。もっと言うと販促のために掛けられた帯すらも。
だけど沙良は恥ずかしがり屋だから、読んでいる間は他者から自分がどんな本を読んでいるのか知られたくなくて、表紙を隠すみたいにブックカバーを掛けるだろう。もしかしたらその方が本を汚さなくていいとか……考えていそうだ。
ブックカバーはきっと、生成り色の布地に淡く小さな花模様が散ったやつ。糸目の細かいリネンで、手触りはやわらかく、指先にほんのり温もりを残す。
もしくは表紙のところに小さく、控え目な花束が配されたデザインも似合うかな?
ページをめくるたび、その布に沙良の手の温度がゆっくりと移っていく。
読書に集中している時の、油断した彼女の指先――。
そこに僕の指を重ねたら、どんな反応を見せるだろう。
沙良の小さな手指に隠れていて一見無地にも見えるブックカバーは、近づいてみて初めて模様がわかる。
沙良の好みは、そういう控えめな可愛らしいものに違いない。
書架から、沙良が好きそうな色味の恋愛短編集を抜き取り、ページをぱらぱらとめくってみる。
紙がこすれ合う音に、少し湿った香りが混じる。
チラチラと飛び込んでくる文字の羅列――その内容――がちょっぴりエロティックさをちりばめた、だけどしっかり純文学系のものだと訴えてくる。
僕にはその中身よりも、沙良がこの本を手に取ってページをめくる指先や、知らず緩む口元を思い描く方がよっぽど刺激的なんだ。
この本を手に、温かい紅茶を飲んでいる沙良――。
唇に触れそうな距離まで近づいてその視線を奪ったら、きっとキミは本の世界から一瞬で引きずり出されてしまう。
それでもなお本を放さない沙良の指先をそっと辿って、彼女の華奢な手首を捕まえたなら……きっとキミは抵抗より先に頬が熱くなったのを隠そうとするんだろうね。
僕は捕らえたままの沙良の手首へ唇を這わせながら、もう一方の手で彼女の首筋をゆっくりとなぞり降りていく。そのまま指先を沙良の胸元へと滑らせて……柔らかな双丘の下、彼女の鼓動がどのくらい速くなっているのかも確かめてから、沙良に逐一報告してあげるんだ。
沙良はきっと、視線を逸らしながら耳まで赤く染めて、僕の言葉を否定できずに泣きそうな顔をする。
その頃にはきっと、沙良は読書どころじゃなくなってるね?
僕はまんまと沙良がページをめくろうとする指を止めさせることに成功するんだ。そうやって沙良から物語の続きを奪ったまま、彼女の意識を僕に縛りつける――。
想像するだけで、口元が勝手にほころんだ。
文房具コーナーへ移動すると、栞やノートが整然と並んでいた。
革張りの栞を指先でなぞりながら思う。
きっと沙良はこういう重厚なものよりも、季節の花や動物が描かれた薄い紙の栞を選ぶはず。
それを本にはさんで、ページの間に香りを閉じ込めてしまうのだ。
……いつかその香りごと、彼女を自分の手の中に閉じ込められたら。
気がつけば、カゴには淡い色合いの文庫本――恋愛短編集が一冊と、生成りのブックカバーがひとつ。そうして花柄の栞が一枚入っていた。
必要かどうかなんて、考えても仕方がない。
ただ、沙良が手に取るだろうものを、僕が先に持っているという事実が大事なんだ。
会計を済ませ、小ぶりな紙袋を受け取る。
外に出ると、冷たい空気が一気に鼻腔を満たした。
でも、僕の手元にはまだ、本屋の匂いが残っている。
――そして、その香りの奥に、沙良の輪郭も。
いつか沙良の部屋の本棚も、僕が選んだもので埋め尽くすつもりだ。
そうして、その部屋ごと沙良を僕の管理下へ置いてしまおう。
そのための準備は、すでに少しずつ進めている。
その日のことを思い描くと、自然やんわりと口角が上がった。
【了】2025/08/15
妄想暴走男・朔夜(笑)のお話をお読み頂き、有難うございました!(本編も暴走しまくりですみません)
ぶっちぎりでヤバい執着男を書いてみたくて(爆)。←私、一人の女の子に執着して策を巡らせる闇深男、大好物なんです。
これで『僕キミ』は本当に完結です。お付き合い頂き、有難うございました。
鷹槻れん
コメント
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ゾワゾワするお話しでしたが、楽しかったです!