木曜日、今日こそ癒しの時間を堪能出来るとその時間を心待ちにしていた真昼は|社長《政宗》に「ちょっと来い」と孫の手で呼ばれた。
「なぁに」
政宗は半ば呆れ顔で椅子の背もたれに寄り掛かると背中をボリボリとかいた。
「おまえ、派手にやったそうだな」
「派手って?」
「ニューグランドホテル、龍彦にぶちかましたんだって?」
「あ、あれ?あれーーーー?」
「あれ、じゃねぇよ。興信所のスタッフが腰抜かしてたぞ」
「あれーーーーーーーーー?」
政宗が依頼した興信所のスタッフが、龍彦の不倫現場を写真に収めようとカメラを構えた。「えっ!」シャッターを切ったその瞬間、震え上がるような形相の女性が調査対象者の頬を叩き、茶封筒をその背中に叩き付けたのだと言う。その画像が遅ればせながら昨日仕上がって来た。
「まじか!」
その画像を見た政宗は腹を抱えて笑った。
「で、田村の家は慰謝料請求に応じてくれそうなのか」
「財産分与は辞退した」
「勿体ねぇな」
「まだ家のローンも残ってるし!龍彦一人で背負えば良いわ!」
「こえぇ」
「慰謝料は一括350万円、約束通り、おじさんの傷害罪も差し引きゼロ」
「ーーーーーそりゃ助かった。」
政宗の拳には白い包帯が巻かれたままだ。
「今週中に振り込んでくれるって」
「はぇぇ」
「面倒な女とさっさと縁を切りたいんじゃないの?」
「ところで、凪橙子はどうなったんだ」
「独り身で借家、身内なし、資産らしき物はなし」
「寂しい女なんだな」
「分割で150万円、これで十分でしょ」
「まぁ、払えないもんを請求しても仕方ないしな、妥当だろ」
「うん」
真昼はピンクゴールドの腕時計を見た。16:00、政宗の前に印鑑と伝票を置いた。
「ささ!バンバン捺して頂戴!」
「バンバン」
「そうよ!これからバンバン行くわよ!」
政宗は孫の手を背中に差したまま印鑑を朱肉に押し付けた。
「なんだよ、バンバン行く気満々じゃねーか」
「ふふふふふ」
「気味悪ぃな」
「ふふふふふ」
真昼はデスクに戻ると鼻歌まじりでパンフレットを封筒に入れ始めた。
「ふんふっ♪ふんふんふんふふーふふーんーふふふーん♪」
その横顔は離婚成立直後の女性とは思えない明るさだった。
「真昼さん、それ髭ダンですよね」
「ふんふっ♪」
隣の席で頬杖を突く美香ちゃんは「やる気スイッチ入ってますねーーーなんでーーどうしたんですかーー」と頭の上に疑問符を飛ばしていた。
また伝票の印鑑を捺す途中でまた社長の下らない|小噺《こばなし》が始まってしまった。
「んもうーーー!」
結局、真昼は紙袋を抱えて閉局間際に自動ドアのマットを踏んだ。ガラス扉の向こう側、郵便窓口のカウンターに二つの旋毛が見えた。
(ーーーー玉井さん!)
もうそれだけで真昼の頬は赤らんだ。玉井真一もその姿に気が付き思わずカウンターデスクから立ち上がった。同じ背の高さ、同じ目線の二人は微笑みあい、はっと我に帰った。
「こ、こんにちは」
「いらっしゃいませ」
真昼は紙袋から封筒の束を取り出しながら玉井真一の一挙一動を見つめた。業務に勤しむ真剣な面持ちは魅力的だった。
「いらっしゃいませ、私も手伝います」
するとその時、プロレスラーみたいな名前の小動物系女子、大牟田美々子が玉井真一の隣に立つと封筒に切手を貼り始めた。その距離は二人の肩が触れる程近く、真昼の眉間には皺が寄った。
(んんんむーーーーー、近い、近いっ!)
その気配に大牟田美々子は上目遣いにクスっと笑った。正確には笑ったような気がした。
(な、な、なにこの子!)
それは女性の勘。大牟田美々子は玉井真一の事を異性として好ましく思っている。これは明らかな牽制だと思った。
(な、なに、ちょっと若いからってーーーー!)
艶のある髪、瑞々しい肌、プルプルの唇。
(て、私、もう32歳なんですけどーー!)
そこで思い浮かぶのは田村龍彦の顔、あの男の為に五年間を無駄にしたのかと思うと大きなため息が出た。
(ーーーーーはぁ)
そこで玉井真一と目が合った。怪訝そうな顔をしている。
「あっ、遅いとか!そんな事は思っていませんから!」
「申し訳ありません、急ぎます」
「あっ、そんな意味では無いんです!」
慌てて両手をパタパタさせていると大牟田美々子がクスっと笑った。
(ーーーーおのれ)
「5,400円になります」
「あ、10,000円札でお願いします」
「はい」
真昼と玉井真一が事務的なやり取りをしている間に大牟田美々子は郵便物を抱えてその場から離れた。
「4,600円のお返しになります」
「はい」
青い釣り銭トレーを持つ玉井真一の指先が真昼の中指に触れた。真昼の耳は真っ赤になり、鼻腔がスゥと通った。
(ーーーーや、やだ。見つめ合ってるみたいじゃない)
真昼は慌てて財布と紙袋を脇に抱えて踵を返した。
「あっ、まひ、た、竹村事務機器さま!」
「ーーーーは、い?」
背後から呼び止められると郵便窓口のカウンターの上にゆうパックの小包が置かれていた。玉井真一の頬も赤い。
「あ、ゆうパック、郵便局留めで届いていました」
「は、はい」
「ここに、サインか印鑑をお願いします」
「認印で良いですか」
「はい、ここにお願いします。
真昼が印鑑を捺すと伝票に玉井真一の人差し指が添えられた。
「ーーーーーえ」
「はい」
小包の伝票には(田村真昼さん宛です)と文字が並んでいた。驚いて見上げると玉井真一は銀縁眼鏡をクイっと上げながら左の八重歯を覗かせて微笑んだ。真昼の心臓は早鐘のように鳴り響き、脚が小刻みに震えた。
(な、なに、なにこの破壊力、半端ないんですけれどーー!)
「ありがとうございます」
「よろしくお願いします」
(な、なに、なにを宜しくされたのーー!)
「じゃ、じゃあ」
「ありがとうございました」
真昼は小包を両手に自動ドアで鼻先をぶつけそうになりヘコヘコと頭を下げて郵便窓口を見た。目立たないように手のひらを振る姿に目眩がした。この時ばかりはプロレスラー小動物系女子もクソ龍彦も銀河の100億光年先まで吹き飛んだ。
(はっ、早く見たい!)
小包の中を確認すべく真昼は郵便局裏手のブランコとベンチしかない三角公園へと一目散に走った。
ーーーーその頃、郵便窓口のカウンターで玉井真一は驚くべき真実を知った。
「玉井さ〜ん、今日、局留めのゆうパックなんてありました〜?」
「あったよ、なんで?」
「玉井さん、あの人となにかあるんですか〜?」
「あの人って誰ですか」
「またまたぁ、竹村事務さんとこのお姉さん」
「なにもないよ」
大牟田美々子のプルプルした唇は玉井真一の耳元で囁いた。
「あの人、人妻さんですよ?」
「え、だって指輪」
「やだ、玉井さん、指輪していない|=《イコール》未婚とかふっる〜い」
玉井真一は信じられないという表情で椅子に腰を下ろした。
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