あの子は私が教えた事を覚えているだろうか私が教えたゲヱ厶を覚えているだろうか私が教えた本を覚えているだろうか。と云う気持ちで心の中は森の中に煙が漂う様な気持ちでした。生き物と云うのは物事を忘れるものです。其れが親を殺された日でも、自分の生まれた日も全て忘れてしまうのです。「時間よ、時間よ。私は君が嫌いだ。どうしてそこ迄記憶を無くすのに拘り、違う物を適当にやるのだ。怒り、泣き、絶望を覚えたあの日を何事も無かったかの様に喜びがある日にするのはどうも都合が良すぎないか?」だがそんな事を動物に聞いても時間に聞いても誰に聞いても分かりャしないと私は分かっていた。だが私は空に向かって云った「苦しみの昨日があり、喜びの今日が来るのなら、喜びの昨日にし、嬉しみの今日にして時間を返してくれ!」と叫んだ。やはり何も返答はない。傍から見れば唯の可笑しな青年だ。まァ私がいた場所はかなりの村だったので、車も人も、いず、歩いているのは穴熊が猿くらいでした。私は雪の中でも考えていたのです。かなり時間が過ぎたがあの子は私が教えた事を覚えているのだろうか。私の友達が教えた勉強は、遊びは覚えているだろうか。と静かに考えていました。やがて雪は溶け、段々と春の温もりが出てきており、桜の香りもほのかに香って来ました。私は再び云いました「時間を返せ!」と。喉が枯れる迄、血が出る迄。其のまま憎たらしい時間だけが過ぎ、やがて桜は散り、夏を迎え、毎年の様に祭りを行い、花火を打ち上げ、酒で盛り上がり、その後は段々と肌寒くなった空気と地面に触れながら厚めのジャンパーを身に纏い、唯ひたすらに暖かい家へ帰っていたのです。ですがある日「怒りの昨日がないと今日の喜びは分からなかった。なによりも時間がなければ何も出来ない。時間こそが私の生きる理由、原動力、終わりの鐘をならす者」と何故か急に思ったのです。終わりの鐘と云っても除夜の鐘やキリスト降誕祭の鈴の様な立派な物ではなくもっとこう…何か違うくて言葉ではとてもでは無いが表せなかった。素朴と云うか孤独と云うか。例えるなら、壊れて掠れた様な音しか出なくなったベルだ。私はあの日の良く聞こえた鐘の音を忘れる事はないだろう。「あの日の事をあの子は覚えているだろうか。」春は暖かい桜の気の中を歩き、夏は夜道で虫を捕まえ、秋は紅葉、冬は冷たい雪を。嫌に思いながらも、その時間を過ごすのだ。そう云う事は人間誰もおぼえちゃいない。
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