テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「あなたは一体――何を企んでいるんですか」
近すぎる距離のまま、二人の間に沈黙が落ちた。
幸人の片手は、まだ詩乃の顔のすぐ横で壁についている。逃げ場を塞がれた状態で真正面から疑いの眼差しを向けられ、詩乃は早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吸った。
「……何も、企んでいません」
声は小さかったが、今度は目を逸らさなかった。
幸人の視線がわずかに鋭くなる。
「では、なぜ急に母親らしいことを始めたんです。家政婦の前でいい母親を演じて、私に“変わった自分”を見せつけて……何が目的ですか」
逃げ道のない問いだった。
詩乃の喉が乾く。
本当のことなど、言えるはずがない。
自分は果穂ではなく、事故をきっかけにこの身体へ入ってしまった姉の詩乃なのだと話したところで、信じてもらえるとは思えなかった。
答えを探しているうちに、ふと乃亜の姿が脳裏に浮かぶ。
怯えた目。
触れられるだけで強張っていた小さな身体。
叱られることを恐れて、泣くことさえ我慢していたあの子。
すべてを説明することはできなくても、一つだけ確かに言えることがある。
「……私は」
詩乃は一度息を吸い、まっすぐに幸人を見返した。
「乃亜を傷つけることだけは、絶対にしません」
その言葉にだけは、迷いがなかった。
幸人の瞳が、ほんの一瞬揺れた。
けれど、それはすぐに消えた。
幸人は壁についていた手を下ろし、詩乃から離れる。
「……口で言うだけなら、容易いでしょうね」
静かな声だった。
冷たいというよりも、何かを信じそうになる自分自身を戒めるような響きがあった。
それ以上何も言わず、幸人は背を向ける。
さっきまで吐息が触れそうなほど近くにいたのに、数歩離れただけで、その背中がひどく遠く感じられた。
詩乃は追いかけることもできず、その場に立ち尽くす。
幸人が簡単に信じられないのも当然だった。
これまで果穂が乃亜にしてきたことを思えば、数日優しくした程度で信用してほしいという方が無理なのだろう。
(それでも……)
詩乃は静かに息を整えた。
自分がいつまでこの身体でいられるのかも、元に戻る方法があるのかも分からない。
それでも、与えられたこの時間の中でならできることがある。
言葉ではなく、これからの行動で証明していくしかない。
詩乃は遠ざかる幸人の背中を見つめながら、そう心に決めた。
***
翌朝、いつもと寸分違わぬ時間にインターホンが鳴った。
「おはようございます」
玄関の扉を開けて一恵を迎えた詩乃だったが、その陰には乃亜の姿があった。
一恵がわずかに目を見開く。
これまで乃亜が自ら玄関まで出てきたことはない。それどころか、一恵が訪ねてくれば遠くから様子を窺い、自分から近づこうともしなかった。
「おはようございます、奥様。乃亜様」
一恵がいつも通りに挨拶すると、乃亜の肩がぴくりと跳ねた。
それでも詩乃の後ろへ隠れることはなく、一恵の顔を見上げたまま、小さく頭を下げる。
ほんのわずかな仕草だった。
けれど、一恵はそれを見逃さなかった。
視線を詩乃へ移すと、彼女は何かを促すこともなく、ただ乃亜の背中へそっと手を添えている。
無理に前へ押し出すのでも、庇って隠すのでもない。
乃亜自身がそこにいようとすることを、静かに見守っているだけだった。
一恵の目元が、わずかに柔らかくなる。
「本日も、よろしくお願いいたしますね」
***
午前中、詩乃が席を外した時のことだった。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
そう声をかけてリビングを出ていく詩乃の背中を、乃亜は扉が閉まるまで目で追っていた。
やがて、テーブルの上に置かれた紙へ視線を戻す。
小さな手には、クレヨンが握られている。
紙の上には丸や線が幾重にも重なり、さまざまな色が自由に広がっていた。年齢相応の絵とは言い難かったが、乃亜は時折首を傾げながら、夢中になってクレヨンを動かしている。
しばらくして手を止めると、完成した絵をじっと見つめた。
それから、顔を上げる。
キッチンでは一恵が背を向け、手際よく家事をしていた。
乃亜は紙と一恵を何度も見比べた。
見せに行きたい。
けれど、自分から近づくことへの不安もあるのだろう。
紙の端を握る小さな指に力が入る。
それでもしばらくすると、乃亜は椅子から降りた。
一歩ずつ、確かめるように一恵へ近づいていく。
途中で何度か足が止まりかけたものの、引き返すことはなかった。
やがて一恵のすぐそばまで辿り着くと、声をかける代わりに、持っていた紙をそっと差し出した。
気配に気づいた一恵が手を止める。
「……乃亜様?」
見下ろした先には、色とりどりの線が重なった一枚の絵がある。
一恵はそれをじっと見つめた。
三歳という年齢を考えれば、描画の発達はかなり幼い。
それでも今、乃亜は自分から誰かに「見てほしい」と伝えようとしている。
「描けたのですね」
一恵はいつもと変わらない落ち着いた声で言った。
「きれいな色ですね」
乃亜は答えなかった。
けれど、その口元がほんの少しだけ緩む。
その時、廊下から足音が聞こえた。
戻ってきた詩乃は、リビングへ入ったところで足を止める。
一恵のそばに立つ乃亜と、その間に広げられた一枚の絵。
何が起きたのか察すると、詩乃の表情がふわりとほどけた。
「乃亜、できたんだね」
ゆっくり近づき、隣へしゃがみ込む。
「ここ、きれいに描けたね」
詩乃が色の重なった部分を指差すと、乃亜はその指先を見つめたあと、またわずかに口元を緩めた。
昨日初めて見せたばかりの、小さな笑顔。
けれど今日は、詩乃以外の人にも自分から近づくことができた。
ほんの数歩。
声さえ出ていない。
それでも乃亜にとっては、大きな一歩だった。
一恵は二人の様子を静かに見つめる。
母親に心を開き始めたことで、この子はようやく、その外側にいる人間へも目を向けられるようになったのかもしれない。
閉じていた小さな世界が、少しずつ広がり始めていた。
132
#王子
すっこ
364
碧星_Aoi
124
コメント
1件
**はる。** 詩乃の「乃亜を傷つけません」って言葉、めっちゃ響いた…。あの距離感の詰め方、逃げ場のない追及からの真っ向勝負。でも口だけじゃなくて、行動で示そうとしてるのが伝わってくる。家政婦さんにも自分から近づいていった乃亜の小さな一歩、めちゃくちゃ沁みたわ…。閉じてた世界が広がっていく様子が丁寧に描かれてて、続きが気になる🔥