テラーノベル
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ある日の午前四時。
シェアハウスの中で、まだ眠りの気配が濃く残っていた。
リビングの時計は、秒針の音だけを規則正しく刻んでいる。キッチンの窓には夜の色が張りつき、庭の木々も、駐車場に停められた車も、まだ誰にも見られていないように静まり返っていた。
その静寂を、防音室のドアが閉じる音がわずかに揺らした。
K-Tは照明を一つだけ点け、ドラムセットの前に座った。
室内には、昨日の演奏で使ったケーブルや譜面、マイクスタンドが整然と並んでいる。K-Tはそれらを一つずつ確認した。シンバルの角度。スネアの位置。ペダルの踏み込み。椅子の高さ。
問題ない。
そう判断すると、K-Tはドラムスティックを手に取った。
最初の一打は、低く短かった。
続けて、バスドラムが鳴る。
ドン、ドン。
一定の間隔で刻まれていた音は、やがて細かく分かれ、スネアとハイハットが加わった。右手と左手、両足が別々の動きをしながら、ひとつの流れを作っていく。
K-Tは目を閉じていた。
楽譜は見ていない。
決められたパターンを繰り返しているわけでもない。ただ、昨日の最後に残った感覚を探るように、音を重ねていた。
一小節。
二小節。
そこから、急にテンポが変わった。
速くなったわけではない。間が広がったのだ。
音と音のあいだに、わずかな空白が生まれる。その空白を埋めるように、K-Tの左足がペダルを踏み、低い音が防音室の床を震わせた。
防音室の外では、誰も起きていない。
少なくとも、K-Tはそう思っていた。
演奏を始めてから十五分ほど経ったころ、廊下に小さな足音が近づいた。
ドアの前で、足音が止まる。
K-Tは演奏を止めなかった。
ドアが開いた。
「……やはり、ここでしたか」
アオノだった。
髪を軽くまとめ、まだ眠気の残る顔で、片手に小さなタブレットを持っている。アオノは室内に入ると、音量計の表示を確認した。
「午前四時十五分。昨日より、低音域の振動が強いです」
K-Tはハイハットを刻みながら答えた。
「そうか」
「防音処理に異常はありません。床下への振動も許容範囲です。ただし、ドラムの音圧が昨日より約八パーセント上昇しています」
「続ける」
「はい」
アオノはキーボードの前に座った。
まだ演奏に加わるつもりはなかったらしい。タブレットを置き、シンセサイザーの電源を入れ、音色の一覧を確認し始めた。
K-Tのドラムが、一定のリズムを刻んでいる。
アオノはその音を聞きながら、いくつかの設定を変更した。低音を削りすぎず、中音域の輪郭だけを少し持ち上げる。ドラムの一打が埋もれないように、キーボード側の音の密度を調整する。
K-Tが突然、リズムを変えた。
アオノの指が止まる。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間には、アオノは新しいテンポに合わせてコードを鳴らしていた。
最初は、薄い音だった。
長く伸びるパッドの音が、ドラムの周囲に淡い空間を作る。K-Tの演奏は乾いていて、硬く、鋭い。その鋭さを消すことなく、アオノは背後に広がりを加えていった。
K-Tは一度だけ、アオノのほうを見た。
アオノは画面を見たまま、演奏を続けている。
二人は言葉を交わさなかった。
ただ、K-Tがリズムを変えるたびに、アオノが音の形を変えた。
しばらくすると、防音室の外から、また足音が聞こえた。
今度は先ほどより重い。
ドアが開く前に、マサカゲの声がした。
「……朝から始めてると思ったら、もう二人いるのか」
マサカゲが入ってきた。
片手には水筒、もう片方には小さなノートがある。寝起きのようには見えない。おそらく、K-Tの練習時間に合わせて起きたのだろう。
マサカゲは室内を見回し、時計を確認した。
「午前五時三十二分。予定より二分早いな」
K-Tがドラムを叩きながら言った。
「来るのか」
「来た以上は参加する。ただし、今日は三十分だけだ。七時から生活当番の確認がある」
アオノが演奏を続けながら尋ねた。
「マサカゲは、昨日の睡眠時間を記録していますか」
「一応な」
「五時間四十三分です。推奨値を下回っています」
「その話はあとでいい」
「しかし、集中力と反応速度に影響が――」
「あとでいい」
マサカゲはため息をつき、ベースを取り出した。
防音室の隅に置かれた機材ケースを開き、ケーブルを手早く接続する。動作に無駄がない。必要なものだけを取り出し、使わないものはすぐに戻していく。
K-Tが演奏を止めた。
音が消える。
突然、室内が広くなったように感じられた。
マサカゲはベースを肩にかけ、K-Tを見た。
「何か決めているのか?」
「決めてない」
「コード進行は?」
「ない」
「テンポは?」
「変わる」
「拍子は?」
K-Tは少し考えた。
「たぶん、四拍子」
「たぶん、か」
アオノが淡々と補足した。
「現在までの記録では、基本拍子は四拍子です。ただし、三拍目の後ろに不規則な空白が入っています」
「それを最初に言ってくれ」
「今、言いました」
「そういう意味じゃない」
マサカゲはベースの音量を調整した。
K-Tがドラムスティックを構える。
「一回、聞く」
「了解」
「俺は最初から入るのか?」
「待て」
「待つのは俺か?」
「そうだ」
「分かった」
K-Tがカウントを取らずに叩き始めた。
バスドラムが一度。
スネアが二度。
ハイハットが、遅れて入る。
マサカゲはすぐには音を出さなかった。K-Tのリズムを聞き、アオノのコードの位置を確認し、それから低い音を一つだけ置いた。
その一音が、防音室の中で長く残った。
K-Tのドラムがそこへ戻ってくる。
マサカゲは同じ音を繰り返さず、ドラムの間にできた空白へベースを差し込んだ。音と音のあいだをつなぐのではなく、空白そのものを形にするような弾き方だった。
アオノのキーボードが、少し高い位置から三人の演奏を包む。
それだけで、さきほどまでばらばらに聞こえていた音が、ひとつの構造を持ち始めた。
K-Tは目を閉じていた。
マサカゲは眉間にしわを寄せている。
アオノは画面を見ながら、右手で演奏し、左手でつまみを調整していた。
三人とも、演奏中の表情は違う。
K-Tは音そのものに集中している。
マサカゲは全体の流れを把握しようとしている。
アオノは音の配置と変化を分析している。
しかし、三人の演奏は不思議なほど噛み合っていた。
K-Tが強く叩けば、マサカゲが低音で受け止める。
マサカゲが音を引けば、アオノが空間を埋める。
アオノが音を薄くすれば、K-Tのドラムが前へ出る。
しばらくして、マサカゲが片手を上げた。
K-Tは即座に気づいた。
次の小節で、三人の音が止まった。
一瞬だけ、完全な無音になる。
防音室の外の音も聞こえない。
三人の呼吸だけが残った。
その直後、K-Tのドラムが戻った。
今度は最初より強かった。
マサカゲのベースが重なり、アオノのキーボードが大きく広がる。三つの音はぶつかりながらも崩れず、ひとつの流れになっていった。
K-Tの右手がシンバルを打つ。
マサカゲの指が低い弦から高い弦へ移る。
アオノが音色を切り替える。
一曲のように聞こえた。
だが、まだ曲名はない。
まだ、誰もそれを曲だとは言っていない。
演奏が終わると、K-Tはドラムスティックを膝の上に置いた。
マサカゲはベースの音を切り、ノートを開いた。
「今の、録音したか?」
「しています」
アオノはタブレットの画面を見せた。
波形が、画面いっぱいに広がっている。
「午前五時三十四分から五時四十八分まで。途中の停止部分を含めて、十四分間です」
「十四分か。長いな」
「実際の構成として使えるのは、三分十七秒程度です」
「もう曲として考えているのか」
「音のまとまりがあります。反復、変化、停止、再開が存在します。曲と判断して問題ありません」
マサカゲは波形を眺めた。
「K-T、最初からこの流れを考えていたのか?」
「違う」
「じゃあ、今のは何だ?」
「叩いた」
マサカゲは黙った。
アオノが補足する。
「K-Tは、演奏中に複数の変化を選択しています。意図がなかったとは考えにくいです」
「考えたことはない」
「無意識の選択ですか」
「知らない」
短い答えだった。
K-Tは立ち上がり、ドラムの各部を確認し始めた。
マサカゲはその背中を見ながら、ノートに何かを書いた。
「仮に、この曲を仕上げるなら、展開を整理する必要がある。最初のドラムを残して、ベースは二巡目から入る。キーボードはその後だ。途中の停止は使える。ただし、無音が長すぎると緊張感が切れる」
アオノが言った。
「無音ではありません。録音上は、K-Tの呼吸音と椅子の微細な振動が残っています」
「それを含めるのか?」
「必要であれば」
「判断は保留にしよう」
K-Tがドラムの前から離れた。
「もう一度」
「今から?」
「続ける」
マサカゲは時計を確認した。
「あと十七分だ」
「足りる」
「何が?」
「一回」
アオノはすでにキーボードの設定を戻していた。
マサカゲもベースを構える。
三人はまた、同じ位置についた。
今度は、先ほどよりも短く確認する。
K-Tは最初のドラムを少し変えた。先ほどよりも音数が少なく、間が長い。マサカゲはその間を待ってからベースを入れ、アオノはキーボードで遠くから光が差すような音を作った。
音の形が、少しずつ定まっていく。
防音室の外では、家が目を覚まし始めていた。
キッチンのほうから、冷蔵庫の扉が開く音がする。
廊下を誰かが歩く。
そして、リビングからカキの声が響いた。
「おーい! 誰か起きてるかー! 朝飯、何かないかー!」
三人の演奏が、一瞬だけ揺れた。
マサカゲが目を閉じる。
「……起きている人間は、ここにいる」
カキの声が近づいてくる。
「防音室か? また朝からやってんのか?」
「入るな」
K-Tが短く言った。
「えー、いいじゃん。俺もギター――」
「入るな」
「二回言った!」
ドアの向こうで、カキが不満そうに声を上げる。
マサカゲはベースを弾きながら言った。
「カキ、今は三人で確認中だ。朝食はメバルちゃんかミステーに頼め」
「メバルちゃん、まだ寝てるぞ。起こしてくる!」
「やめろ」
マサカゲとアオノの声が重なった。
K-Tだけは何も言わず、ドラムを叩いている。
そのリズムに、ほんの少しだけ勢いが増した。
防音室の外で、カキが笑う。
「じゃあ、俺は庭でも見てくる! 昨日、土の中から変な音がしたんだよな!」
「カキ、庭を掘るな!」
マサカゲが叫んだ。
だが、カキの足音はすでに遠ざかっていた。
アオノが演奏を続けながら言う。
「庭の地盤に異常がある可能性があります」
「今は言わなくていい」
「しかし、記録しておくべきです」
「あとで俺が確認する」
「カキが先に確認すると思います」
「だから困ってるんだ」
K-Tのドラムが一度、大きく鳴った。
三人の音が、再びひとつに重なる。
外がどれだけ騒がしくても、防音室の中には別の時間が流れていた。
マサカゲは、演奏の終わりを決めようとしていた。
アオノは、音の余韻を残す位置を探していた。
K-Tは、すでに終わりを知っているようだった。
最後の数小節で、ドラムの音数が減っていく。
ベースが低く沈む。
キーボードが、細い音を一つずつ置く。
最後に、K-Tがスネアを叩いた。
短く、鋭い一打。
その音が消えるまで、誰も動かなかった。
やがてアオノが録音を停止した。
「午前六時十二分。二回目の演奏を保存しました」
マサカゲは水筒の蓋を開けた。
「今のほうがいい。構成が見える」
「一回目も必要です」
「なぜだ?」
「一回目には、意図されていない変化があります」
K-Tがドラムの椅子から立ち上がった。
「使う」
マサカゲはK-Tを見た。
「一回目を?」
「両方」
「二つを合わせるのか」
「そうする」
マサカゲは少し考え、ノートに線を引いた。
「分かった。最初は一回目。中盤に二回目の構成を入れる。最後は……」
K-Tが答えた。
「最初の音に戻る」
アオノが画面を確認した。
「それなら、開始音と終了音の周波数をそろえられます。循環構造になります」
「曲名はどうする?」
マサカゲが尋ねた。
K-Tは答えなかった。
アオノも黙って波形を見ている。
マサカゲは二人の様子を眺め、ノートの端に仮題を書いた。
「仮に、“朝の三人”ではどうだ?」
「そのまますぎます」
アオノが言った。
「じゃあ、“五時三十二分”」
「時間は変わります」
「なら、考えるのは後だな」
K-Tはケーブルを外し始めた。
マサカゲが時計を見る。
「六時十五分。予定より十五分超過だ。K-T、今日はもう終わりにするのか?」
「終わる」
「珍しいな」
「続きは明日」
アオノがタブレットを閉じた。
「明日の午前四時からですか」
「そうだ」
「私も参加します」
「俺も、生活当番が終われば来る」
三人は防音室を出た。
廊下には、朝の光が細く差し込んでいる。
リビングでは、カキが庭へ向かうための長靴を履いていた。手にはスコップがある。
「お、終わったのか? なあ、庭の下から本当に変な音が――」
「カキちゃん」
メバルの声が、背後から響いた。
カキがゆっくり振り返る。
寝起きのメバルは、髪が少し乱れていた。片手にはフライパン、もう片方にはお玉を持っている。
「それ、どこから持ってきたの?」
「キッチン」
「置いてきて」
「でも、地下に何かあるかもしれないぞ」
「庭を掘る前に、朝ご飯を食べて。あと、勝手に穴を開けないで」
「危険だって言われると、ますます気になるんだよな」
「だからダメなの!」
メバルが一歩近づく。
カキはスコップを背中に隠した。
マサカゲは深く息を吐き、アオノは監視カメラの映像を確認し始めた。
K-Tだけが、庭のほうを見ていた。
芝生の端。
昨夜、カキが掘ったらしい小さな穴。
そこから、音はしない。
だが、土の中に何かがある。
K-Tは一瞬だけ視線を止めた。
そして、何も言わずにキッチンへ向かった。
「K-T、朝食を用意するから待ってね」
メバルが声をかける。
「要らない」
「ダメ。練習したなら食べて」
「問題ない」
メバルの眉がぴくりと動いた。
「問題あるかどうかは、私が決めるの」
K-Tは答えなかった。
ただ、キッチンの椅子に座った。
その様子を見て、マサカゲが小さく笑う。
「今日は珍しく、言うことを聞いたな」
「違う」
「何が?」
「休むだけだ」
K-Tは短く答えた。
防音室には、三人の演奏の余韻が残っている。
アオノのタブレットには、二つの録音データ。
マサカゲのノートには、まだ名前のない曲の構成。
そしてK-Tの中には、次の朝に叩く最初の一打が、すでに決まっていた。
コメント
1件
第7話、めっちゃ良かった! 朝の防音室、静けさの中に音楽が立ち上がっていく感じが鮮やかだった。K-Tの直感、アオノの分析、マサカゲの構成、3人の役割が音でバチバチ噛み合う瞬間がたまらない。「たぶん四拍子」「待て」とか短いやり取りも全部カッコいい。カキの乱入で日常が一気に混ざるのも最高だし、土の穴が気になる…。次の朝の一打、絶対聴きたいです🔥
#スクラッチャーズ
K-Takasaka
214
#異世界転生
#K-T