テラーノベル
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翌朝。
午前四時。
K-Tは、いつもどおり防音室のドアを開けた。
前日の早朝練習で録音した二つのデータは、すでにアオノによって整理されていた。防音室のモニターには、波形と時間、使用された音域が細かく表示されている。
K-Tは画面を一度見ただけで、すぐにドラムの前へ座った。
昨日の演奏を再現するつもりはなかった。
最初の音を、少しだけ変える。
スネアを叩く位置をわずかにずらし、バスドラムの間隔を広げる。昨日は音と音のあいだに空白があった。今日は、その空白に自分の呼吸を置くように叩いた。
ドン。
タッ。
ドン、ドン。
タッ。
単純なリズムだった。
だが、何度か繰り返すうちに、音の奥に別の流れが生まれた。
K-Tは目を閉じた。
ドラムを叩く。
右手でハイハットを刻み、左手でスネアを打つ。両足で低い音と細かい反動を作る。体全体が、ひとつの機械のように動いていた。
午前四時二十分。
K-Tは、短く息を吸った。
そして、声を出した。
「――遠く、遠く」
低い声だった。
防音室の中に、ドラムとは別の音が生まれる。
K-Tは叩く手を止めなかった。
「戻れない場所まで」
声は大きくない。
しかし、一音ごとに明確な意志があった。
普段、K-Tが話す言葉は短い。
「下がれ」
「問題ない」
「続ける」
必要なことだけを切り取ったような声だ。
だが、歌になると違っていた。
言葉が長く伸び、ドラムの一打に重なり、音の中へ溶けていく。低く押し出す部分と、鋭く跳ねる部分があり、どちらにも普段の無口さとは違う感情が込められていた。
K-Tは歌いながら、ドラムのパターンを変えた。
歌に引っ張られてリズムが崩れることはない。
むしろ、声が入ったことでドラムの輪郭がはっきりした。ドラムが歌を支え、歌がドラムの向かう先を示している。
その声を、廊下で聞いている者がいた。
アオノだった。
防音室のドアの前で、足を止めている。
アオノは、K-Tが歌うことを知っていた。
だが、これまで実際に聞いたことはなかった。
録音された声ではない。
演奏の途中で、K-T自身が出している声。
アオノはドアノブに手をかけたまま、しばらく動かなかった。
#スクラッチャーズ
K-Takasaka
214
#異世界転生
#K-T
防音室の小窓から、赤いランプが見える。
録音中だ。
アオノは、勝手に入るべきか迷った。
K-Tは集中している。演奏を止める理由はない。
しかし、今の音を記録しない理由もなかった。
アオノは小さくノックした。
歌が止まった。
ドラムだけが数回鳴り、最後にシンバルの音が消える。
「入れ」
K-Tの声がした。
アオノが入ると、K-Tはドラムスティックを膝に置いていた。
「今の歌は、録音されています」
「そうか」
「歌唱と演奏を同時に行っていました」
「そうだ」
「なぜ、これまで記録していなかったのですか」
K-Tは少し黙った。
「必要なかった」
「今は必要ですか」
「分からない」
アオノはタブレットを起動した。
「分からない場合は、保存します。後で必要かどうか判断できます」
「好きにしろ」
アオノはキーボードの前に座った。
「歌詞はありますか」
「ない」
「今、歌っていた言葉は?」
「覚えてない」
「記録から抽出できます」
「要らない」
「ですが――」
「音でいい」
短い答えだった。
アオノは画面に表示された歌声の波形を見つめた。
「音でいい、というのは、言葉を確定させないという意味ですか」
「そうじゃない」
「では?」
K-Tはドラムのほうを見た。
「叩けば分かる」
アオノには、その答えの意味が完全には理解できなかった。
だが、問い直す代わりにキーボードの電源を入れた。
「では、もう一度お願いします」
「歌うとは言ってない」
「先ほどと同じパターンを再現するだけでも構いません」
「同じにはならない」
「予測できない変化は、記録対象として価値があります」
「理屈か」
「はい」
K-Tはアオノを見た。
数秒後、ドラムスティックを持ち直した。
「弾け」
アオノは、昨日使った音色ではなく、少し硬質な音を選んだ。
K-Tが叩き始める。
昨日の構成に似ているが、完全には同じではない。
アオノは低い音を一つだけ加えた。
K-Tの右手が、わずかに強くなる。
アオノはすぐに気づいた。低音の位置が、K-Tのリズムを前へ押している。
キーボードの音を少し広げる。
K-Tのドラムが、さらに変化した。
そこにマサカゲの足音が近づいてきた。
「……今日は、歌ってるのか?」
防音室のドアが開く。
マサカゲは、いつもの水筒とノートを持っていた。
だが、入ってきた瞬間に動きを止めた。
K-Tは歌いながらドラムを叩いていた。
低い声が、楽器の音の中からまっすぐ伸びている。
マサカゲはしばらく黙って聞いていた。
K-Tは歌っていることに気づかれたからといって、止めることはなかった。
「……なるほど」
曲の一区切りが終わる。
K-Tはドラムを叩きながら、次の言葉を歌った。
「まだ、ここにいる」
マサカゲは、ノートを開いたまま聞いていた。
K-Tの歌声は、感情を説明しているわけではない。
悲しいのか、怒っているのか、寂しいのか。
どれか一つに決めることはできなかった。
ただ、遠くへ向かいながらも、どこかに踏みとどまっているような声だった。
ドラムの音は激しい。
けれど、歌声はその上を無理に突き抜けず、音の中心に留まっている。
アオノのキーボードが、声の背後に薄い和音を重ねた。
マサカゲは、しばらく入るタイミングを探した。
昨日なら、全体の構成を確認してからベースを合わせていただろう。
だが、今は構成が決まっていない。
歌も、ドラムも、毎回変わる。
マサカゲは考えるのをやめた。
ベースを肩にかけ、ケーブルをつなぐ。
そして、低い音を一つ鳴らした。
K-Tの歌が、その音に反応した。
次のフレーズが、少しだけ低くなる。
アオノがキーボードの音を変えた。
三人の音が重なっていく。
マサカゲはベースで、K-Tのドラムの下に道を作った。
ただ追いかけるのではなく、次に来る音を予測する。K-Tが強く踏み込む前に低音を置き、あえて音が減る場所では弦を鳴らさずに待つ。
アオノは二人の間をつないだ。
キーボードで空間を作り、歌声の周囲だけ音を薄くする。
「音量を下げたのか?」
マサカゲが演奏中に尋ねた。
「歌声の周波数と重なるためです」
「歌を中心にするのか?」
「現状では、そうなっています」
K-Tが歌った。
「消えない音を――」
その先の言葉は、はっきり聞き取れなかった。
K-Tは意図的に歌詞を崩したようだった。音だけが残り、意味が追いつかなくなる。
アオノは、キーボードの音を止めた。
マサカゲも一瞬だけベースを引いた。
K-Tのドラムと声だけが、防音室の中に残る。
「消えない音を」
今度は、はっきり聞こえた。
その言葉のあと、K-Tのドラムが一気に強くなった。
マサカゲが低音で支える。
アオノが高い音を重ねる。
三人の演奏は、昨日の曲とは別の方向へ進み始めた。
昨日は、最初の一打がすべての始まりだった。
今日は、その一打に声が加わっている。
ドラムだけなら、音は前へ進む。
歌が加わると、音は何かを伝えようとする。
K-Tは、普段なら言葉にしないものを、音の中に押し込んでいた。
マサカゲはそれを感じ取っていた。
だが、何について歌っているのかは尋ねなかった。
アオノも、歌詞の意味を分析しようとはしなかった。
今、必要なのは問いではなく、演奏だった。
曲が終わった。
最後にK-Tがシンバルを叩き、声を止めた。
余韻が消える。
誰もすぐには話さなかった。
防音室の時計は、午前五時四十六分を示している。
アオノが、録音を停止した。
「保存しました」
マサカゲはベースを下ろした。
「今のは、昨日の曲とは別だな」
「構成上は、関連しています」
アオノが答える。
「関連しているが、同じではない」
「はい」
マサカゲはK-Tを見る。
「歌うなら、事前に言ってくれ。ベースの入り方が難しい」
「言った」
「いつ?」
「今」
「演奏中に言われても分からない」
K-Tは黙った。
アオノがタブレットを確認する。
「歌唱時のK-Tは、ドラムのみの場合よりも、テンポの揺れが少なくなっています」
「歌うほうが安定するのか?」
「おそらく、そうです」
「本人に聞けばいい」
マサカゲがK-Tを見る。
「歌うと叩きやすいのか?」
K-Tは少し考えた。
「同じだ」
「同じ?」
「叩くのも、歌うのも」
「別の動作だろ」
「違わない」
K-Tはドラムスティックを見つめた。
「どっちも音だ」
アオノは、その言葉をタブレットに記録した。
マサカゲは苦笑した。
「それを最初に言ってくれれば、もっと早く理解できた」
「言ってない」
「だから今言ったんだろ」
そのとき、防音室の外から大きな音が響いた。
ガンッ、と金属を叩いたような音。
続いて、カキの声が聞こえる。
「おおっ! やっぱり何かあるぞ!」
マサカゲの顔が険しくなった。
「カキ!」
「地下から音がした!」
「庭を掘るなと言っただろ!」
「でも、これは本当に――」
メバルの声も重なる。
「カキちゃん、スコップを置いて! そこ、昨日より深くなってるよ!」
アオノが立ち上がった。
「地盤の変化を確認します」
マサカゲもベースを片づけ始める。
「演奏は一度止める。カキを止めるのが先だ」
K-Tはドラムスティックをケースに戻した。
「行く」
三人が防音室を出る。
廊下を抜け、庭へ向かうと、カキが芝生の一角にしゃがみ込んでいた。
昨日の小さな穴は、かなり広がっている。
土の下から、古い金属板のようなものが見えていた。
メバルはカキの肩をつかんでいる。
「だから勝手に掘らないでって言ったでしょ!」
「でも見ろよ、これ! 絶対ただの配管じゃない!」
「触らないで!」
マサカゲが穴の前に立った。
「全員、下がれ。まず周囲を確認する」
カキが不満そうに立ち上がる。
「危険かもしれないぞ」
「だから下がれと言っている」
アオノが金属板を観察する。
「材質は鉄。表面に腐食があります。人工物ですが、設置時期は特定できません」
ミステーが、いつの間にか庭の端に立っていた。
「地下のものは、地上に出る前から歌っていた」
カキが振り返る。
「やっぱり音がしてたんだな!」
「歌ではない。金属の記憶」
マサカゲが頭を抱える。
「ミステー、もう少し具体的に話してくれ」
K-Tは穴の中を見た。
金属板の表面に、細い傷がある。
規則的な線だった。
何かの記号か、古い工具でつけられた跡のようにも見える。
K-Tは指を伸ばしかけた。
「触るな」
マサカゲが止めた。
K-Tは手を引いた。
メバルが少し驚いた顔をする。
K-Tが他人の制止に従うのは、珍しかった。
「今日は、俺が確認する」
K-Tが言った。
「K-Tが?」
「後で」
「今じゃないの?」
「演奏がある」
カキが目を輝かせた。
「演奏? 今の歌、K-Tが歌ってたよな?」
K-Tは答えなかった。
カキは三人を順番に見た。
「なあ、歌ってたよな?」
マサカゲがベースケースを持ち直した。
「歌っていた」
「マジか! もう一回歌ってくれよ!」
「後で」
K-Tは短く答えた。
「後でって、いつだ?」
「朝」
「今も朝だろ!」
「次の朝」
カキが口を開けたまま固まる。
メバルが小さく笑った。
「K-Tらしいね」
K-Tは庭の穴をもう一度見た。
金属板の下から、わずかな振動が伝わってくる。
音とは呼べないほど小さい。
しかし、確かに何かが動いている。
K-Tはそれを聞き取っていた。
誰にも言わない。
今はまだ、言う必要がない。
防音室へ戻ると、アオノは録音データを整理していた。
マサカゲはノートに曲の構成を書き足している。
メバルはキッチンから朝食を運び、カキは庭を掘るための理由をまだ説明し続けていた。
「だからさ、あの金属板が地下空洞の入り口なら――」
「まず朝ご飯」
「でも――」
「食べてから」
「はい」
賑やかな声が、家の中に戻ってくる。
K-Tは防音室のドアの前で足を止めた。
アオノのタブレットには、今朝の録音データが表示されている。
ファイル名は、仮にこうなっていた。
『午前四時・声のあるリズム』
「名前をつけたのか」
K-Tが言う。
アオノは振り返った。
「仮称です。変更できます」
K-Tは画面を見た。
「そのままでいい」
「曲名にしますか?」
「まだ」
アオノは頷いた。
K-Tは防音室を出る。
リビングでは、マサカゲが全員に朝の予定を伝えていた。
カキは庭の穴を監視し、メバルはそのカキを監視することになった。
ミステーは金属板のそばに落ちていた古いネジを拾い、アオノは監視カメラの死角を確認している。
その騒がしさの中で、K-Tは椅子に座り、出された朝食を食べ始めた。
メバルが、彼の前に温かい飲み物を置く。
「今日は歌ってたんだって?」
「そうだ」
「また聞かせてね」
K-Tは短く頷いた。
「次の朝」
メバルは笑った。
窓の外では、夜が終わりかけていた。
空が少しずつ明るくなっている。
そして防音室には、K-Tの声とドラムが残した新しい音が、まだ消えずに残っていた。
コメント
1件
**はる。の感想** うわ、K-Tがついに歌い出した! 静かな防音室に低い声が混ざった瞬間、空気が変わったのが伝わってきたわ。ドラム叩きながら無意識に出てる感じとか、言葉より先に音があるスタイルがめっちゃK-Tらしいし、アオノとマサカゲが即座に合わせて曲がどんどん変わっていく流れが熱い。途中の地下の金属板の伏線も気になるし、最後の「次の朝」って返しで笑った。このバンド、普通じゃないけど確実に何かが動き始めてる感じがたまらない。