テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第30話:苛立ちの理由は、薬か、それとも
菊の宴から数日が過ぎても、私の机は一向に片付く気配を見せなかった。椿の稽古に日を取られた分、後回しにしていた調合の依頼が、崩れる寸前まで積み上がっている。軟膏に煎じ薬、それぞれの配合を覚書に起こし、材料の在庫と突き合わせ、足りないものを書き出す。地味で、けれど手を抜けば必ず自分に返ってくる類の仕事だった。
この夜も、蝋燭を三度取り替えた。窓の外は夜半をとうに回った闇に沈み、虫の音は絶えている。遠くで夜番の拍子木が一度だけ鳴って、それきりだった。
筆先が紙を滑るたび、瞼が少しずつ重くなる。あと一行、それを書き終えたら寝よう。そう思ったところまでは覚えていた。
気づけば額が机についていた。頬の下で、書きかけの紙がかさりと鳴る。指の間から抜けた筆が、覚書の端に黒い川を一本、長々と引いていた。頭の芯だけが、綿でも詰められたように遠い。
その綿の詰まった頭を、誰かの手が、肩ごと遠慮なく揺さぶった。
「……おい。何時だと思ってる」
頭上から降ってきた声は、不機嫌を隠そうともしていない。背中の側から、冷えた夜気と、議事堂で染みついたらしい伽羅の香が流れ込んでくる。振り返るまでもなかった。こんな時刻に、こんな起こし方をする人間は、この国に一人しかいない。
「……陛下? まだ、あと少し――」
寝ぼけた声で答えつつ、覚書へ手を伸ばす。その指先より早く、大きな手が紙の束をひったくった。
「黙れ。今すぐ寝ろ」
焔は散らばった紙を片手でまとめ、空いた手で私の二の腕を掴んで、椅子から引き剥がすように立たせた。足がもつれる。そのまま部屋の隅の長椅子まで、荷物さながらに引きずられていった。
乱暴なのは間違いない。けれど、腕を掴む指の加減が、妙だということに気づいた。関節をひねらず、肩の付け根を庇う角度、歪みがないように気を付けているような。まるで、手入れを欠かさない持ち主が愛刀の反りを見る時の、あの手つきによく似ていた。
「乱暴です。せめて、この一行だけでも……」
「船を漕ぎながら書いた字が読めるか。身体を壊すと後が面倒だ。それだけの話だ」
長椅子に放り出された私を見下ろしもせず、焔はそう言い捨てた。
「壊れてはいません。少し目を閉じていただけです」
「頬に紙の跡がついてる。それを壊れかけと言うんだ」
道具、壊れかけ。並べられた言葉のどこにも、労りの響きは欠片もない。そのはずなのに、胸のどこかで、すとんと何かの収まる音がした。……なぜか、それで十分だった。
「……分かりました。今日はもう、休みます」
「最初からそう言え」
焔は満足そうに鼻を鳴らすと、長椅子の空いた隙間に、当然の顔をして腰を下ろした。外套越しに、夜気の冷たさと、それに逆らうような体温が伝わってくる。その袖口には、さきほど私が引いた墨の川が、細い尾を残して擦れていた。指摘するのは、明日にしよう。今夜はもう、瞼が持たなかった。
〇
それから数日が経った昼下がり、往診鞄を提げて研究棟を出ようとしたところへ、取次の女官が小走りにやって来た。地方から陳情のために上京したという老人が、どうしても一言礼を述べたいと、門前で待っているのだそうだ。
焔は入口脇の柱に背を預け、腕を組んでいた。この日は珍しく議会が午前のうちに引け、昼過ぎからずっと、私の支度を眺めていたのだ。付きっきりの約束は、どうやら完全には反故になっていないらしい。
通してもらうと、腰の曲がった小柄な老爺が、女官に手を引かれて入ってきた。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、継ぎの当たった野良着の上に、この日のために引っ張り出したのだろう、袖丈の合わない羽織を重ねている。胸に抱えた風呂敷包みからは、日向と土の匂いがした。
老爺は敷居の手前で膝を折ろうとする。私は椿に叩き込まれたとおりに、素早く歩み寄ってそれを制し、相手の目線に合わせて腰を落とした。
「年貢の割り当てをお願いに、村から三日がかりで出て参りましたんじゃが。着いてみれば、城下の油問屋に奉公に出しとった孫が、熱と発疹で寝付いておりまして。医者は首を振るばかり、店の者も次々に倒れる中、爺は枕元に座っておることしかできませなんだ」
老爺は乾いた唇を湿らせて、先を続けた。
「治療所の列で頂いたお薬を、煎じて飲ませて三日目の朝でございます。あの子が目を開けて、腹が減った、と」
「熱が下がった朝は、決まって腹が減るものです。良い兆候でした」
「へえ、へえ。たったそれだけのことが、この爺には、何よりの知らせに聞こえましてなあ」
老爺は節くれ立った指で目尻を何度も拭い、居住まいを正して、深々と頭を下げた。
「月白様のおかげで、孫が助かりました。……このご恩は、一生忘れません。村へ戻りましたら、皆に話して聞かせます。王都には、白い髪のお薬師様がおられたと」
白い髪、という言葉が、悪意のない文脈で口にされるのを聞いたのは、これが初めてかもしれなかった。返事が、半拍だけ遅れる。差し出された風呂敷包みを、私は両手で受け取った。
「頂戴します。お役に立てたなら何よりです。お孫さんは、しばらく粥から。……お大事に」
包みの中身は、縄で括られた干し柿だった。柿のへたはしゃっくりに効く、と薬師の頭が勝手に算段を始める。老爺はそれから何度も辞儀を繰り返し、女官に支えられて、来た時よりも軽い足取りで門の方へ去っていった。
扉が閉まるか閉まらないかのうちに、背後で、小さな舌打ちが聞こえた。
老爺の話の間、斜め後ろの空気が、じりじりと尖っていくのは感じていた。ところが振り向いてみれば、焔は同じ柱に、同じ顔で寄りかかっている。眉間の皺だけが、心なしか一本増えていた。視線は私ではなく、老爺の出ていった扉の方に据えられている。
「陛下?」
「……なんだ」
「何か、ご不満でも」
「ない。……用が済んだなら、次に行くぞ」
柱から背を離すなり、焔は私を待たずに歩き出した。理由を口にする気は、初めから持ち合わせていないようだった。
不満がない、という顔ではなかった。あの顔なら、つい先日にも見た覚えがある。宴の夜、広間の向こうから私を眺めていた、誇らしげとも不機嫌ともつかない顔だ。
干し柿の包みを机に置き、往診鞄を抱え直して、私はその背中を追った。
似たようなことは、その後も続いた。中でもある日は、朝から三度も重なった。
一度目は、回廊ですれ違った老官吏だった。書類の束を抱えたまま足を止め、深々と腰を折る。
「疫病の折には、月白様に命を拾われました。この老骨、何とお礼を申し上げたものか」
二度目は、治療所の炊き出しを手伝っていた女たちだった。私を見つけるなり互いの袖を引き、拝むように手を合わせる。
「ほら、あの方がお薬師様よ」
そのたびに、半歩前を行く背中の気配が、目に見えて尖った。舌打ちで済む時もあれば、口を閉ざしたまま、歩幅だけが荒くなる時もある。
妙な話だった。以前、宮中で私が悪し様に噂された時、この人は殺気立って噂の出所を探していた。私はそれを、自分の判断に泥を塗られたことへの怒りだと分析したはずだ。だが、その理屈が正しいなら、私の腕が褒められて悪い気はしない、むしろ見る目があったと得意になっていいところだろう。貶されれば煮え、褒められても煮える。私の推論は、そこで行き止まってしまう。
三度目は、夕刻の研究棟だった。
菓子折りを携えて訪れた椿は、菊の宴の後の後宮の様子を、扇の陰で愉快そうに語って聞かせてくれた。歌仙会で顔を並べていた令嬢のうち幾人かが、椿を通じて茶の席への誘いを寄越してきたという。萩乃などは、宴の礼にと菓子の箱まで届けさせたらしい。桔梗だけは、いまだに扇の骨を噛みしめておいでだそうだ。
「本当に、さすが薬師殿ですわ。陛下も鼻が高いことでしょう」
そう言って、椿は長椅子の焔へ、ちらりと視線を流した。
焔の顔が、見る間に歪んだ。毎晩の秘薬を飲み下す時よりも、よほど苦い顔だった。眉も口元も、隠す気がまるでない。
(鼻が高い、という顔には、とても見えないが)
椿は扇の陰で目を細めただけで、何も言わなかった。手土産を卓に置くと、衣擦れの音だけを残して、静かに部屋を辞していく。
二人きりになった部屋で、私は焔に向き直った。
「陛下、先ほどから機嫌が悪いようですが」
「気のせいだ」
「気のせいにしては、露骨だと思いますが。本日だけで、これで三度目です」
「数えるな」
「数えるのも仕事ですので。……理由をお聞かせいただければ、数えるのはやめますが」
「……うるさい。お前には関係ない」
それきり、焔は長椅子の背に身体を預け、天井を睨んだまま黙り込んでしまった。
関係がないなら、そもそも訊いたりしない。そう言い返したところで、答えが返ってくるとは思えなかった。私は黙って湯を沸かしに立った。
「お茶は、召し上がりますか」
背中越しに投げた声に、返事はしばらくなかった。
「……いる」
障子の向こうでは、傾いた日が、廊下の板を橙に染め始めていた。
○
その夜、灯りを落とした寝所は、障子越しの月明かりだけが頼りだった。寝る前の薬は、いつも通りに飲ませてある。顔をしかめたまま一息に飲み干した焔は、床に入るなり、待ちかねたように寝入った。私の腰のあたりには、寝ている間の癖で、重たい腕が居座っている。
眠れなかったのは、私の方だった。
仕方なく、隣の寝顔を眺めることにする。ただの暇つぶしではなく、薬師の目で。
呼吸は深く、規則正しい。途中で詰まる気配もない。淡い明かりが、鼻筋に薄い影を落としていた。眉間の皺は眠っていても消えないが、目の下の隈は、初めて会った夜に比べればずいぶん薄くなっている。血色も悪くない。私が斬られる回数は、ここしばらくで指を折るほどに減った。殺人衝動が薄れていく様は、数字の上でも、肌で感じる気配の上でも、疑いようがなかった。
それなのに、苛立ちの沸点だけは、以前より明らかに低くなっている。今日など、朝から三度も煮え立った。
まず疑うべきは、薬だった。投薬を始めて五十余日、そろそろ蓄積が閾値に届く頃合いでもある。長く痺れていた手足が感覚を取り戻す時には、ぴりぴりとした痛みが先に来るものだ。無痛症という長い麻痺の底から、この人の情動が浮かび上がってきているのだとすれば、今の怒りっぽさは、治療が順調に進んでいる証拠ということになる。
だが、それなら苛立ちは、もっと無差別に散らばるはずだった。彼が煮え立ったのは、三度とも、私が褒められた時だけだ。
偏りには、たいてい理由がある。もっとも、たかが数日分の観察で、偏りと呼べるかどうかも怪しい。薬とは何の関わりもない、もっと単純な理由があるのか。その中身までは、見当もつかなかった。
観察の日数が足りないだけだ。結論を急ぐ類の問題ではない。
私は寝顔から視線を外し、腰に乗った腕の重みには気づかないふりをして、目を閉じた。治療の効き目なのか、それとも別の理由なのか。その判断は、眠りに落ちるまで、とうとうつかなかった。
コメント
1件
いやー、この回めちゃくちゃ良かった……。焔が月白を「褒められて」苛立つのが三度も重なるの、もう完全に嫉妬とか独占欲の類でしょ。本人は認めたくないけど、行動が正直すぎる(笑)「人の顔色を数えるのも仕事ですので」って月白の返しも、ちょっと笑っちゃった。黒い川の墨痕のやり取りも好きだなあ。積み重ねがじわじわ効いてくる構成、本当にうまいです。次が待ち遠しい🔥