硝子細工に追い風の吹く
チリン
その清涼な音に目を開ける。炭酸の抜けた温(ぬる)いラムネのようにシャキッとしない頭を振ってみる。
チリン、また音が鳴る。その出処を目で辿れば、簾の隙間から差し込む光の強さにクラリとして、それからその傍で微弱な風に揺れる1つの風鈴に気が付いた。
何を忘れているのだろう。久し振りに訪れた祖父母の家の、涼しいような温(ぬく)いような香りを吸い込む。幼い頃のここは他のどこよりも落ち着く場所であった。縁側と簾、それからどこから取ってきたのかわからないほど大きくて冷たい西瓜(すいか)。
3年振りのその場所は、何故かある種の切なさを運んできた。それは自分がもう、あと1年で成人してしまうからだろうか。小さい頃見えていた特別なものが見えなくなってしまうような、その類の胸の締めつけは きっと今の時期だからなのだろう。
「久し振りぃ、まあ!でっかくなったねぇ」
「遠かったろこんな暑い中。ほれいつもの西瓜、食うだろ」
祖父母の優しさが、今の自分には少しくすぐったい。成人間近の自分がまだ小さな子供のように扱われることで生まれた小さな反抗心を押し戻す。
シャグ、と1口 大きく切り分けられた西瓜にかぶりついた。
「達彦の様子はどう?」
「…まだ、かかるって」
「どのくらいだとか言ってなかったかぃ?」
「色々難しい治療するらしくて、当分は」
チリン
また、あの音が響く。
難しい治療 という言葉に目を伏せた祖母は、2年前に闘病生活を始めた息子に想いを馳せているのだろう。心配してもし切れないような表情が、皺の刻まれた顔に滲んでいく。
「あンのバカタレが…男なら根性見せてみろってんだまったく。そんなんだからこんな場所まで子供が1人で来てんだってんだよなぁ」
祖父は背中を向けていて、表情まではわからない。だがその言葉が決して文句などではないということと、声に動揺だとか心配だとかの色が含まれていることは自分にだってわかる。
今の祖父母は、何も出来ないことへのもどかしさを抱えている。自分だって同じだ。どんなに願っても、自分に直接父を救う手など無い。そんな自分のちっぽけさを実感してしまったからだろうか、小さな反抗心などは簡単に抑えられてしまう上に、この歳になってもまだ祖父母に甘えていたいと思ってしまう。祖父母も祖父母で、幼い頃の彼らの息子──僕の父親と接しているようで、それで笑ってくれることが嬉しかった。
「こんにちはー!おばさん、調子はどう?」
しんみりとした空気が、凛とした声に掻き消される。勝手知ったる足取りで庭を歩いてきた少女が1人、野菜の詰まった籠を片手にこちらを見ていた。
「いらっしゃい、今日はだいぶ元気よぉ」
祖母の綻んだ声が空間に溶けていく。これおすそ分け、とキュウリやらトマトやらがはみ出した籠を縁側においた少女と、ふと目が合った。
「…!」
「あ、」
2人同時に声が零れる。3年振りに合った少女は、同い年のくせにやけに大人びて見えた。
「もうこっちには来ないのかと思ってた」
少女が文句を言うような調子で言う。その鈴が転がるような音色に、小さな居心地の悪さを感じる。
「…別に、いつかは来るつもりだったから」
誤魔化すような口調になってしまったのは、気の所為なんかじゃない。
「…おばさん、息子さんの病気の詳細は」
「知らない、と思う。少なくとも僕は言ってない」
幼い頃からここに来た時に言葉を交わしていた幼馴染のような存在の彼女は、祖母のことをおばさんと呼ぶ。本当の叔母じゃないけれど、距離感は孫の自分よりも近い。
「……たぶん、わかってるよ」
「え、?」
そんな彼女の声が、少し低くなった。
「わかってて、君が隠してるのも知ってて、それで知らないフリしてる」
「なんでわかるの、そんなこと」
「…最近さ、心配でよく来るんだよね。それで話したりするんだけど」
その時に。そう言って彼女は小さく息を吸う。生温い風に吹かれた髪がふわりと靡いて、ゆるやかに彼女の表情を隠した。
「その時に、おばさん言ったの。
『あの子、前にお医者さんになるって言ってくれたのよ。勉強頑張るから来られないって宣言までしてくれたの。
だからねぇ、独り善がりなのかもしれないけど、あの子が大きくなって、それでうちの子のこと救ってくれるんじゃないかって…信じちゃうんだよ。』
って。」
呼吸が止まる。祖父母の家に来ることがどこか億劫になっていた時に適当に零した嘘の言葉が、今まで忘れていた音の破片が、刹那脳裏に鮮やかに蘇った。
「……ホントに、医者になる気あるの」
ビー玉のような彼女の瞳が揺れる。揺れているのに真っ直ぐなそれは、迷いに埋もれる僕の表情を映して突きつける。それがどこか涼し気で、炭酸のきいたラムネみたいで、変に懐かしい心地にさせられる。
幼い頃彼女の瞳に見入ったあの瞬間と今が重なって、変わってしまったのは自分の方だったのだと悟った。
「目指すの、許されるかな」
親に、ではない。目指すものもなく医者になると適当に言ってしまったような自分に、その行為が許されるのかどうか。目の前の彼女なら答えを知っている気がして、その硝子玉のような瞳を見つめ返す。
「少なくとも、目指すことは罪じゃない」
チリン
また涼やかな音が鳴る。
木霊するそれに応えるかのように、一筋風が吹き抜けて行った。
了
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