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見慣れない景色が静かに流れていく。
左右に広がった初秋の街路樹が、風に吹かれて色を変えつつある葉を揺らしている。
きれいに剪定された街路樹と、車に振動を全く与えない道路は、いわゆる高級住宅街と呼ばれているだけのことはあるな、と妙なところで感心してしまう。
先ほどから骨壷を抱きしめて、泣き腫らした目のまま窓の外を眺めていたチヒロは、これからこの街に住むというのに、どこか他人事のような感想を抱いていた。
チヒロは外の景色から視線を外し、隣で運転している男にそっと目をやった。
あまり表情を変えることのない男は、やはり何を考えているか分からない顔で、先ほどから運転を続けている。
自身の表情の変化の乏しさを棚に上げてそんなことを考えつつ、チヒロはこれまでのことを思い返した。
男は、父を亡くしたばかりのチヒロの目の前に唐突に現れた。
二十代という異例の若さで人間国宝に認定されたチヒロの父、六平国重は刀匠であった。
幼い頃から父の作り上げた刀と共に育ったチヒロは、そんな父を心から誇りに思っていたが、あまりに早すぎる認定に当時はさまざまな憶測を呼んだらしい。
嫌がらせが頻発し、作刀に影響が出るばかりか、身の危険を感じるようなこともあり、幼いチヒロと共にあった父は若い身空で隠居の道を選んだ。
とは言っても、ひっそりと山奥に移した工房で作刀を続けていた父は隠居の意味を理解していないのではないか、と幼い頃のチヒロは思った。
それでも、父が刀匠を辞めないでいてくれて良かったとも思っていた。
普段のズボラさが嘘のように、作刀時の父は真剣に刀と向き合っていた。
チヒロにとって父は憧れであった。
いつか自分の手で刀を作り上げたいと、父のようになりたいと思っていた。
「お前も十五になったしな、そろそろ本格的に刀匠として鍛えてやらないとな」
先日、誕生日を迎えたばかりのチヒロに父はそう言った。
嬉しかった。
今までも作刀の手伝いはさせてもらっていたけど、あくまでも父の手伝いだった。
これから自分自身の手で刀を作り上げられるようになることと、父がそれを認めてくれたことに気分が昂揚した。
盆が明けたら始めるからな、覚悟しておけよ、と父は笑いながらチヒロの頭をガシガシと撫でた。
そうして、お盆には、父が作ったひどく独創的な精霊馬とチヒロが作った手本通りの精霊牛を並べて、いつもと変わりなく過ごした。それでも、お盆の最終日には、明日から教えてもらえるのだと思うと、なかなか寝付けなかった。
無意味な寝返りを繰り返していると、そんなんじゃ鍛える前からばてちまうぞ、と隣で寝ていた父が寝かしつけるよう優しく頭を撫でた。俺、もう十五なんだけど、とチヒロはぼそりと文句をこぼしたが、決して父の手を払うような真似はしなかった。
長年、鋼を叩き続けた無骨な父の手は、決して触り心地の良いものではないかもしれない。
それでも、ずっと、ずっと真摯に刀と向き合い続けてきた父の大きな手が、チヒロは好きだった。
素直に甘えるのは気恥ずかしい。だけど、もう少しこのまま…そんなチヒロの考えなどとうに見通しているかのように、父は微笑みながらチヒロの頭を撫で続けた。
そうして大人しくしていると、先ほどまでは影も形も無かった睡魔があっという間にやってきた。
チヒロは遠くなる意識の中で父に声を掛けた。
「…おやすみなさい、父さん」
「ああ、…おやすみ、チヒロ」
唐突に目が覚めた。
外が明るくなっている。
寝過ごしたかと焦って飛び起きるが、すぐに違和感に気づいた。
ひどく焦げ臭い。
隣にいたはずの父がいない。
窓の外の光が揺れ動いている。パチパチと爆ぜる音が聞こえてくる。
……火事だ。
火の始末には気をつけていたはずなのに、慌てて飛び起きたチヒロが引き戸を開けると、途端に炎の熱気に襲われる。想像以上に火の手が回っている。
「父さん!!大丈夫!?返事してっ!!」
必死に父を探すが、姿が見当たらない。
「父さんっ!!どこにいるのっ!!」
その時、何人かの足音と金属音が聞こえたかと思うと同時に、父の声が響いた。
「チヒロ、来るなっ!!外へ逃げろ!!」
「父さんっ!?」
聞こえた父の声はひどく苦しげだった。父の言葉を無視し、チヒロは急いで声のした方へと走った。
家中の至るところが燃えている。足の裏がジクジクとした痛みを訴えるが無視して走り続ける。
おかしい、どうしてこんなにも火の回りが早いんだ。これではまるで…
嫌な予感が頭をよぎる中、刀の保管庫の前に蹲るように倒れている父を見つけた。
「父さん、大丈夫っ!!……っ!?」
急いで父に駆け寄り、抱き起こそうとしたチヒロの動きが止まる。
父の背に触れ、その手にべっとりと付いてきたモノ。
炎に照らされ、どろりと反射するそれは紛れもなく血だ。
父がうずくまっていた床には、じわじわと血が広がり続けている。
周りにはこんなひどい怪我をするようなものは見当たらない。
呆然としたまま保管庫に目を向ければ、父とチヒロが日頃から大切に手入れしてきた刀たちが1本も無くなっていた。
それはつまり、誰かが、父さんを…
「……チ、ヒロ」
父が苦しそうにチヒロの名を呼ぶ。ハッとしたチヒロは慌てて父に声を掛ける。
「父さん!待って、今すぐ助けるから!!すぐに救急車を!!」
必死に声を掛け続けるが、父の目から生気が失われていく様がありありとチヒロの瞳に映る。
「死なないで!!父さん!父さんっ!!」
早く早く、ここから出て、早く病院へ…まだ間に合う、まだ間に合うはずだ。
チヒロは酷く焦りながらも、父を連れて外へ出られる所はないかと懸命に周りを見渡す。
けれども、チヒロが入ってきた場所にも既に火の手が回っている。
どうする?どうすればいい!?どうすれば父を助けられる!?
極度の緊張状態と、炎による酸欠状態で思考がまとまらない。自分の喘ぎ声だけが頭の中でわんわんと木霊する。
刹那、周りを炎に包まれているにも関わらず、チヒロは息が止まりそうになる程のぞわりとした悪寒を感じた。
父の死を予感したからか、いや、違う、もっと別の何かが……。
そのことに意識を向けようとした瞬間、焼け焦げた天井梁がミシミシと音を立て始めた。
「父さんっ!!」
チヒロは咄嗟に父に覆いかぶさり、そして…強い衝撃と共に意識を失った。
気付けばチヒロは病院のベッドに寝かされていた。
全身が倦怠感に包まれ、感覚もひどく鈍い。それに加えて、どうやら左目も見えないようだ。
身動きの取れない中、チヒロが焦点の合わない右目を必死に動かしていると、直ぐ側から慌てたような声が掛けられた。
「チヒロ君?目ぇ覚めたんか!?」
「……っぁ、」
柴さん、と声を掛けたつもりだが、実際口から発せられたのは言葉の形を成さない吐息だけであった。
「悪い、無理せんとじっとしとき、…チヒロ君、俺のこと分かるか?分かるんやったら、一回ゆっくり瞬きしてみ?」
その言葉に従いゆっくりと瞬きをすると、柴はほっとしたように息を吐いた。
「記憶飛んどるっちゅう事は無さそうやな。チヒロ君、今左目見えへんようになっとるけど、近くの傷に響かんように固定してあるだけやから、包帯取れるまで辛抱しいな」
ほんまに良かったと安堵し、言葉を続ける柴に対し、チヒロは掠れて張り付く喉を必死に震わして、言葉を絞り出した。
「…父、さんは?」
すると、それまでチヒロの視界に入るように、大仰に身振り手振りで話をしていた柴の動きが止まった。
「すまんチヒロ君、国重は、間に合わへんかった……」
半ば予期していた言葉ではあった。父が無事であれば、柴は真っ先にそのことをチヒロに伝えていたはずだ。
悔しい、苦しい、悲しい、様々な感情がチヒロの中でぐるぐると渦巻き、チヒロの目から涙が溢れ出す。
「…父、さんは、殺された」
「チヒロ君、……」
柴も現場の状況を知っているのだろう、チヒロの言葉を否定しなかった。
憎い。父を殺した奴らが。
憎い。父の誇りを奪った奴らが。
そして何より、一番憎いのは……
「……俺、が」
だが、元々回復に至っていない体で無理をしたせいなのだろう、チヒロは再び意識を失った。
再度チヒロが目を覚ました時にも、側には柴がいた。
自身の仕事もあるだろうに迷惑をかけて申し訳ない、と思うと同時に、あの夜に起きたことを早く知りたいという思いが強く湧き上がる。
この頃には、チヒロの体力も多少は回復しており、渋る柴に何があったのかを尋ねることが出来た。
柴曰く、通報により駆けつけた消防隊が、燃え盛る家の前で一人血を流して倒れているチヒロを見つけたそうだ。
その話を聞いたチヒロは、訝しげに柴に尋ねた。
「俺はあの時、外へ出られるような状態では無かったはずですが」
「ああ。そのことなんやが…」
そもそも、通報自体がおかしなものだったらしい。
チヒロ達が暮らしていた家は、山奥にひっそりと立っており、近くの民家にたどり着くには歩いて数十分はかかる。近隣に住む者であっても、真夜中のあの火事に気付くのはかなり難しい。
通報があったのは、さらに離れた駅近くの公衆電話から。もちろん、そこからチヒロ達の家を見ることは出来ない。
そして警察が通報時の音声を調べた結果、合成音声によるものだと判明した。
よって、通報者は十中八九、犯人に関わる者だと思われるが、状況的に人物特定は絶望的だ。
また、犯行に使われた車は既に発見されているが、盗難車であり、遺留品もめぼしい物は無かった。
盗られた物は刀のみ。現場に犯人の手掛かりとなるものが少なすぎること。
これらのことから、警察は今回の件をプロの窃盗団の線が濃厚だとして、捜査を進めている。
「チヒロ君にとっては気分悪いやろうけど、チヒロ君のことは、犯人の中に温情的な奴がおって、そんで助けられたんちゃうかって言われとる」
確かに、何が温情だ。
父を殺しておいて、子供の自分を助ければ、その罪が軽くなるとでも思っているのだろうか。だとしたら、反吐が出るような思考回路だ。
そんな奴らに父と父の誇りを奪われたというのか。
許せない。怒りで頭がおかしくなりそうだ。上掛けに隠れた手がギリギリと拳を握りめる。
それでも、チヒロはなんでもないような振りをして柴に尋ねた。
「その情報は全部、薊さんからですか?」
「まあな。やっぱり事件の初動に関しちゃ、しがない探偵家業なんかより、警察におる薊の方が早いからな」
「それでも、事件が難航すればするほど警察の中にいたら身動きが取れなくなる。だから柴さんは警察を辞めたんですよね?」
「その通り!チヒロ君はやっぱ分かってんね。組織っちゅうのは力はあるんやが、個人の問題となると動きが鈍うてしゃあないからな」
「そんなこと言って。薊さんが聞いたら、誰のお陰で情報手に入れられてるんだって怒りますよ」
「まあ、薊は頭は固いが、やることはきっちりやる奴やからな。…特に今回のことは俺も薊も一個も譲るつもりはあらへん。必ず犯人捕まえて、おのれの仕出かした事のケリつけさせたる……だからなチヒロ君、この件は俺らに任しとき」
そう言って、柴は握りしめて真っ白になったチヒロの手にそっと触れた。
「チヒロ君には酷なこと言うてるのは分かってる。それでも、チヒロ君はまだ子供なんや。大人の俺らを信頼して欲しい」
……きっと、この手に父の刀があれば、それが許される世界なら、チヒロは間違いなく父を殺した奴らを皆殺しにしていただろう。
だけど現実は違う。
柴の言葉は最もだ。柴や薊とは違い、一介の学生である今のチヒロに出来る事はない。
無理に動けば、却って迷惑を掛けるだけだ。
頭では分かってる。それでも、そう簡単に飲み込めるものではない。
だけど、いざそれを言葉にしようとすると、チヒロの喉は張り付いたように動かなくなってしまう。
これ以上失いたくないと懇願するように、親子ほどに歳の離れたチヒロを見つめる視線。先ほど触れられた手は、今では柴の両の手でしっかりと握りしめられているが、そこから微かに震えが伝わってくる。
……もうこれ以上、この優しい人たちに心配を掛けることは出来ない。
「…分かりました、柴さん。父の件は柴さんたちにお願いします。ご迷惑をお掛けしますが、」
「何言うてんねん、迷惑な訳ないやろ!むしろチヒロ君に止められても、俺らはどこまでも首突っ込んだるから安心しとき!」
「それは、俺も心配するので…あんまり無理はしないで下さい」
大仰に話す柴に適当な相槌を打ちながら、少しだけ眦に涙が滲む。
これでいい。これで良かったんだ。
これが正しい形なんだ。
ああ、それでも自身の中に渦巻く一番の憎しみだけは無視することは出来ない。
憎い。父を助けられなかった自分が。
憎くて憎くてたまらない。それでも何も出来ない自分が。
きっと、この感情はいつまでも心の奥底にこびり付いたままになるだろう。
それからしばらく、チヒロは病院のベッドで過ごす日々が続いた。
怪我のこともあるが、事件のことは大きく報道されており、連日、病院にはマスコミが押し掛けている。下手に病院を出られて、チヒロの身に何かあれば、病院の対応を問われる可能性があるための措置だろう。
その間に警察から当時の状況を聞かれたが、その際にチヒロの病室に訪れたのは、薊とその後輩と思われる少し若めの警官であった。
「ごめんねチヒロ君、こんなとこに押し込めるような形になっちゃって」
「いえ、状況を考えれば仕方ないことです」
薊と軽く挨拶をした後に紹介してもらった隣の男は、やはり薊の後輩であった。
その人は、随分と薊のことを尊敬しているらしく、自身の紹介もそこそこに、薊が六平家と懇意にしていた事を理由に、担当から外されそうになった際の見事な論弁を、それこそ熱弁を振るってチヒロに語った。
歳上に向かってこんな事を思うのは失礼かもしれないが、随分人懐こい人だなと思う。
隣の薊も苦笑いしながらもそれを止めないのは、おそらく今のチヒロの状態を考慮した上での人選なのだろう。
そうして上層部と部下の信頼を勝ち取った上で、しれっと事件の情報を柴に流している辺りは流石だ。
二人には無理をしなくてもいいからと言われつつも、チヒロは少しでも事件に進展があるならと、覚えてる限りのことを話した。
だけど一つだけ、ほんの少しだけ嘘をついた。チヒロの顔の傷は父を姿を認めて直ぐに天井梁が落ちてきたからだと思うと説明した。今際の際の父の言葉に犯人につながるようなものは無かった。だから助けようとして、何も出来なかった惨めな自分をこれ以上無意味に晒すのは耐えられなかった。
そうしたチヒロの話の中に、警察としての目新しい情報は無かったようだ。二人が残念そうに目配せをするのを見て、胸が苦しくなる。
「すみません、役に立てなくて…」
「いや、逆に俺たちの想定に齟齬がないこと確認出来た。チヒロ君には嫌な思いをさせたけど、助かったよ」
「そうっすよ、チヒロ君ってまだ十五歳になったばっかりなんすよね?いや、すげえしっかりしてて驚いたっす!」
「……ありがとうございます」
その後、しばらく雑談をしてから、まずは自身の回復に努めるように、とチヒロに言い含めて薊たちは帰っていった。
気を遣われてるな、と思う。状況を考えれば当たり前のことだ。それでも、自分が無力な子供だということをまざまざと突きつけられているようで、やるせなさばかりが募る。
そうして、日が経つにつれ、顔に大きく巻かれていた包帯も取れ、左目も見えるようになった。医者の話では、顔の左側の大きな傷以外はそれほど目立った痕は残らないだろうとのことだった。
その顔の傷も整形手術を行えば、かなり目立たなくなるだろうとも言われたが、今後の生活のことがあるのと、自分は男なのでこれぐらいの傷なら問題無い、と言って手術は断った。
その話を聞いた柴は、金のことなら俺が用意したるから心配せんでも…、と言ってくれたが、それにもチヒロは横に首を振った。
柴はそう言うが、実際にはかなり無理をしているはずだ。今だって、チヒロに構っていた皺寄せに寄るものだろう、1週間ほどの長期出張で病室に顔を見せにこられないことを謝りに来ているところだった。
いくら父の友人でチヒロとも交流があったとはいえ、柴とチヒロは赤の他人だ。柴にチヒロの面倒を見る義務はない。
それを言えば柴が怒り出すのは目に見えていたため、口に出すことは無かったけれども、柴の献身を心苦しく思う気持ちは消えなかった。もっと素直に甘えられていれば、柴も安心してここまで足繁く通う必要は無かっただろう。
こんなことばかり考えているから、周りに心配を掛けるのだ。頭では分かっている。それでも同じ事を堂々巡りに考えてしまう、そんな自分の性根が本当に嫌気が差す。
いつまでここにいればいいのだろう。
ぼんやりと目が覚めた。
横から人の気配がする。そのせいで目が覚めたのだろうか、窓から差し込む光に今が昼間である事がわかる。珍しく深く眠っていたようで、覚醒し切らない頭のままでその人物に声を掛ける。
「柴さんすみません、何度も来てもらって……っ!?」
側に居たのは見知らぬ男であった。
真っ黒のスーツに身を包んだ男がチヒロの側に腰掛け、無言でこちらを見つめている。
「……あ、の」
驚きすぎて、言葉が出てこない。
マスコミがこの部屋まで入って来たのだろうか、いや、その割には男はチヒロが目を覚ましたにも関わらず、慌てた様子は無い。むしろ、驚くチヒロを観察するかのようにじっと視線を固定したまま、身動きすらしない。
「あ、チヒロ君、目が覚めたんすね。ちょうど良かったっす!」
男と対峙したまま動けなくなったチヒロの硬直を解いたのは、病室のドアからひょこっと顔を覗かせた薊の後輩の警官だった。
「あの、こちらの方は…?」
「この人、チヒロ君の後見人になったんすよ。いや、本当にチヒロ君の周りの人ってすごい人ばっかりっすね!こんなにも良い人が集まってくるのは、やっぱりお父さんの人徳のおかげっすかね?」
ニコニコと薊の後輩は話すが、正直言ってチヒロは訳が分からなかった。後見人という言葉は聞いたことがある。確か判断能力のない者を保護する人物だったかと思うが、目の前の見知らぬ男がそうであると言われても困惑するだけだ。
結局固まってしまったチヒロを前にして、先ほどまで微動だにしなかった男はふと笑みを浮かべ、名刺を差し出しながらチヒロに話しかけた。
「君とこうして直接話すのは初めてだな。俺は、■■幽という者だ」
戸惑いながらも名刺を受け取ったチヒロは、その時に初めて、男が右手のみにスーツと同じく真っ黒な指抜きグローブをしているのに気付いた。動揺が抜けないのか、どうでも良いことばかりが気になってしまう。慌てて、男の手元から視線を引き剥がし、受け取った名刺に目を通す。
「…ゆ、ら?」
■■という凡庸な氏に対して、幽という人につけるには印象の良くない名の漢字に、思わず声に出して読み上げてしまった。
「ああ、変わった名だろう?昔は苦労したが、今ではすぐに名前を覚えてもらえるのでな、案外役に立っている」
「いえ、あの、すみません…」
確かに、名刺に書いてある美術商という職業には、印象に残る名の方が便利な場面は多いかもしれないが、チヒロは失礼な事を言ったと謝罪を口にする。
けれども、男はその言葉に小首を傾げ、チヒロの次の言葉を促すように待ったまま、動こうとしない。
…本来なら、何故あなたが俺の後見人に?という疑問を真っ先に口にすべきだと思うが、何故だか、どうしてもそれを聞くことは出来なかった。
男の纏う独特な雰囲気のせいだろうか。
先ほどは幽という名に驚いてしまったが、ほんの少し話しただけでも、目の前の男にこれほど似合う漢字は無いと感じてしまった。男はチヒロの目の前にいるというのに、輪郭が掴めないというか、本当にそこにいるのかと疑念を抱いてしまうような印象がある。
ありていに言えば、まさしく幽霊のような薄気味悪さを感じてしまう。
初対面の人間に対して随分と失礼な感想だが、どうしてもその印象を拭い切れず、チヒロは素直に疑問を口にすることが出来ずにいた。
そんなチヒロを気遣ってか、もしくは全く気付いていないのか、薊の後輩が男との会話に割り込んできた。
「というか、■■さんってチヒロ君とは初対面なんすか?」
「ああ、言ってなかったか?」
「いやあ、会ったこともない子にここまでするとは思ってなくて。だって、ここの入院費や全焼した家の撤去費用とか、諸々一切合切面倒みるって相当やばいっすよ」
「後見人になったんだ、それぐらいのことはするさ」
「いやいや、普通の後見人ってそこまでするもんじゃないっすよ」
「それだけ世話になったと言うことだ…おっと、悪いな、君にこんな話を聞かせるつもりは無かったんだが」
男が唖然としたままのチヒロに話し掛ける。
知らなかった。確かに入院中にお金の話が出てこないのは内心おかしくは思っていたが、そんなことになっていたとは。
「いえ、…そんなことまでしてもらっていたなんて、何も知らず申し訳ありません」
「いや、謝ることはない。元々、君にこのことを伝えるつもりは無かった。最近の警察官はどうにも口が軽いようだ」
「本当、すんません。すっげえ頼りになる人がチヒロ君の味方になってくれたって、つい嬉しくなって話し過ぎたっす。薊先輩は別件でどうしても動けないからって俺一人で来たんすけど、一緒に居たら絶対に怒られてたっす。あとチヒロ君、この人の身元は警察でばっちり確認してるんで、騙りとかじゃ無いんで安心して欲しいっす!」
悪い人ではないのだが、男が言うように警官にしてはお喋りが過ぎる。今も謝罪をしつつ、大分失礼なことを口にしてしまっている。
しかし、そのおかげで男がチヒロに関して、既に相当の働きをしていることが分かった。
「あの、世話になったと言うのは、やはり父のことでですか?」
「ああ、君の父親の作る刀は唯一無二だった…実は、俺は君の母方の親類筋にあたっていてな、と言っても傍から見ればほぼ他人のようなものだが。それでも、その縁で隠居前の彼の刀を取り扱わせてもらえたのは、俺の人生の幸運の一つだ」
知らないことばかりだ。母はチヒロが生まれてすぐに亡くなったとしか聞いていなかったため、父の仕事相手にそんなつながりがある人が居ただなんて。
「俺のことは父親から聞いたことはなかったか?」
「いえ、あの…はい、すみません。父さんは家ではあまり、隠居前のことは話さなかったので…いや、これは言い訳です。俺が父さんにしっかり話を聞いてれば…」
「いや、考えてみれば当たり前のことだ。俺の仕事は君の父親の誇りに値打ちをつけて売り買いをするものだからな。いくら生活があったとは言え、幼い君にはあまり積極的に話したいものではなかったのだろう」
確かに、そういうことなのかもしれない。男の話に筋は通っているし、警察がそれを確認してると言うのなら疑う必要はない。
それでも不安が拭えないのは何故だろうか。
チヒロの交友関係は決して広くはない。父の隠居に伴って山奥に住んでいたチヒロが通えるような学校は周りに無く、これまでずっと通信教育のみで勉強を続けてきた。
けれども、初対面の人間にこれほどまでに警戒心を抱くほどの人見知りでは決して無かったはずだ。
今ここに、柴や薊が居てくれたらと心から思う。チヒロはまるで自身が迷子にでもなったかのように、視線を彷徨わせた。そんなチヒロを男はただ見つめる。
…ああ、やはりこの視線だ。
父や柴がチヒロに向ける視線とは決して異なるけれども、同等、もしくはそれ以上の熱量を孕んだこの視線がどうしても受け入れられないのだ。
チヒロは相槌を打つことも出来なかったが、男はそのまま話を続けるようにしたようだ。
「早速だが、明日には退院できるように既に手続きは済ませてある」
「っ!?明日、ですか?」
「ああ、君の住むマンションも既に契約して、一通りの家具は運び込んである。このタイミングでどこかの中学に転入すれば、問題しか起きないだろうからな。君にはこれまで通り通信教育を続けてもらうつもりだが良いか?」
確かに早く退院したいと思ってはいたが、いきなり話が進みすぎてついていけない。
まだ、後見人のことも受け入れ切れてないのに。いや、そもそも後見人を断ることなんて出来るのか。ここまで物事が進んだ状態で、チヒロが我が儘を言ってちゃぶ台をひっくり返したらどうなる。その後のことを自分で全て始末がつけられるのか…無理だ、出来るはずがない。
もう既に事は決している。
……大丈夫だ。この感情は、全てを失った自分に降って沸いた幸運に、怖気付いているだけのことだ。現状を受け入れるんだ。何も問題は無い。男がチヒロの目の前に現れたことは酷く幸運なことなんだ。
チヒロは必死に自分に言い聞かせ、男にぎこちなく微笑みかけた。
「はい、問題ありません。そこまで気にかけてくださってありがとうございます」
「俺は彼が生み出したモノに心底惚れていてね。…このようなことになってしまったのは残念なことだが、これから君の役に立てると思うと嬉しいよ」
そう言って男は右手を差し出した。握手のつもりなのだろうが、やはりグローブは外されない。
けれども、もうそんなことを気にしている余裕はない。
「これからよろしく頼む、六平千鉱」
「…はい、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
チヒロは男の手を握り返した。グローブ越しだからだろうか、その手は酷く冷たく感じた。
良かったっすねチヒロ君、そんな言葉が遠くに聞こえた。
それからは怒涛の日々だった。
退院後、滞っていた父の葬儀をすぐに執り行った。本当なら柴と薊だけには参列して欲しかったのだが、男から親類以外を参列させれば、後々の軋轢を生じさせるからと止められた。
確かに、チヒロの知り合いはその二人だけだが、父の知り合いは男もそうだったように知らない人ばかりだ。その人達から見れば、何故その二人だけが、と見られてもおかしくはない。
必然、男とチヒロの二人きりの家族葬となる。
父の遺体は検死に回されていた為、警察署から直接火葬場に搬送される。職員にはあまり見ない方がと言われたが、頼み込んで父の最後の姿を見せてもらった。
…そこにあった物は黒い塊であった。
蹲った姿勢のまま焼けたであろうその姿に、チヒロは思わず駆け寄ろうとしたが、男に後ろから掴まれ引き留められた。
「父さんっ!父さんっ!!」
父はこのような死に方をすべき人では決して無かった。こんな最期を迎えるような生き方では無かったのに。チヒロは、父が死んでから初めて声を上げて泣いた。
火葬を終え、骨壷に入れられた父の遺骨はチヒロの両手で軽々と抱えられる物であった。
生前はあんなに大きな背中であったのに。今ではこんなにも小さくなってしまった。
憔悴したチヒロの肩を男がそっと抱き寄せたが、チヒロはそのまま静かに涙を流し続けた。
この時ばかりは、何も話さない男の態度が救いになった。
「着いたぞ」
男の言葉にハッとする。いつの間にか男の運転する車が停車していた。チヒロは慌てて骨壷を抱え直し、涙でパリパリに乾いた頬を強引に拭った。
葬儀の後は、てっきり男と共に暮らすようになるのかと思っていたのだが、男の仕事は多忙らしく、しばらくはマンションで一人暮らしをしてもらいたいと言われていた。
正直に言うと、その申し出は非常に有り難かった。
これだけ世話になっておきながら、やはり男への不審感は拭いきれないままで、物理的な距離を置けることにほっとした。家のことは幼い頃からほとんど自分で行っていたため、一人で生活しろと言われても全く問題が無い。
本来なら引っ越しの作業があるのだろうが、チヒロの元々の荷物は火事の際に全て燃えてしまっていた為、今では両手に抱える骨壷のみがチヒロが持つ唯一の荷物となる。他は全て男が用意したものだ。
不安を抑え込むように骨壷を抱きしめながら、チヒロはこれから自身が住む事になる高層マンションを見上げる。今の自分には明らかに分不相応な場所だ。
そんな風に立ち止まってしまったチヒロを黙って見つめていた男が、ふと面白いものを見つけたように目を細める。そうして、身を屈ませ、チヒロの肩を抱くように顔を近づけた。
「…どうやらあの二人は、千鉱のことがよほど心配だったらしい」
男にそう声を掛けられて、マンションの入り口に目を向けると、見慣れた人影を見つけた。
「柴さん!薊さん!」
急いで駆け寄ると、二人揃ってほっとしたようにチヒロを迎えた。
「チヒロ君、大変な時に側に居れなくて悪かった。僕達も後見人のことは寝耳に水でね」
「そう、だったんですね…ただ、後見人の方には本当に親切にしてもらっています。住む場所だってこんなに良いところを用意してもらって…柴さんはどうしてここに?まだ出張中の筈ですよね?」
「あぁ~それが思うたよりも早よ仕事が終わったんや。そいで、チヒロ君が退院した聞いて、急いで来たっちゅう訳や」
「あの、ありがとうございます。二人には心配掛けましたけど、これからは大丈夫です」
父が亡くなってからの二人は、いつもチヒロのことを心配をしていた。けれども、いつまでもそういう訳にもいかないと、チヒロは努めて明るく振る舞った。
ただ、さすがに疲れが出たのか、二人と話しながらも少しふらついてしまった。
「「チヒロ君っ!」」
二人は慌てて手を伸ばすが、そんなチヒロを支えたのは、いつの間にかその背後に居た男であった。男はふらついたチヒロをしっかりと抱き留めて言った。
「大丈夫か千鉱、先に部屋に上がっていろ。俺は二人に挨拶をしてから向かう」
そうして男に電子キーを渡されたチヒロは一瞬躊躇したが、二人が頷いたのを見ると、最後に会釈をしてからそのままマンションの中へと入っていった。
チヒロの姿が見えなくなったのを確認した後、男は二人に向き直った。
「…さて、千鉱の住むマンションを個人的に伝えたつもりはなかったのだがな」
「それは済まないことをした。警察に伝えられた情報をうっかり僕個人宛のものだと思い込んでしまってね、上にバレたら懲戒ものだ」
「問題ない。いずれ千鉱の口から聞くことになるものだ、手間が省けて助かった」
「なるほど、それはお互いに僥倖だったな」
「そちらの君も、千鉱の入院中はずいぶん世話になったな。千鉱に代わって礼を言う」
「いやいや、俺はチヒロ君のために通ってたんで、あんたに礼を言われる筋合いは無いんやけどな」
「そうか?千鉱の後見人として挨拶をと思ったんだが、気に障ったなら済まなかったな」
「ほんまにお構いなく~」
「なら、そろそろ俺も千鉱の部屋に向かわせてもらおうか?初めての場所にあんな状態でいつまでも一人で置いておくのは心許ない」
「ほんなら俺らも邪魔させてもらうで。チヒロ君がこれからどんな場所で生活するのか見してもらいたいしな」
「いや、初めてのことばかりで千鉱も憔悴している。千鉱にはいつでも知り合いを招いて良いと伝えておくので、悪いが今日のところは遠慮願おう」
「あぁ?」
「柴、やめておけ。■■さんの仰る通りです。僕達も初めてのことばかりでどうにも気が動転して、非常識なことを言ってしまいました。チヒロ君にはまた今度会いにきます」
「そうしてもらえると助かるよ。それでは失礼する」
そう言って男はマンションの中へと消えていった。マンションの扉が閉まりきる寸前、男は確かに二人の方を見て笑った。それは決して、微笑みと呼べるような可愛らしいものではなく、明らかに嘲笑を含んだものであった。
「何っやねんっ!あの男は!!」
薊と共に車に乗り込んだ途端に、柴は悪態をついた。
「おかしいやろっ!?なんで今まで影も形も無かった奴がチヒロ君の後見人に収まってんねん!?あんな奴、国重の口から一個も聞いたこと無えへんぞ!!しかも美術商て、不審者どころか犯人繋がっとるレベルやろ!!」
「柴、落ち着け。このままだと、お前の方が不審者扱いされるぞ」
「あぁっ!?じゃあお前は、あの男のこと信頼できるっちゅうんか!?」
「書類上は何の問題も無い。根拠も無く騒ぎ立てれば、立場が不味くなるのは僕達の方だ。それに、今の状況を一番に不安に思ってるのはチヒロ君だ…お前、間違っても今の態度をチヒロ君の前ではするなよ?」
「んなことお前に言われへんでも分かっとる!…だから、お前の前だけで喚いてんやろが」
「僕の前でも抑えてくれると嬉しいんだけどね。まあ、僕もあの男のことを信頼している訳じゃないんでね、今後も色々と調べさせてもらう」
「おうおう、何とも頼もしいお言葉やな」
柴は苛々とした様子でタバコに火を点け、ぷかりと煙を吐き出した。その姿を横目で睨みつつ、薊は小さくため息をついて話を続けた。
「…ただ、さっきも言った通り書類上には何の問題も無いんだ。もしこれが全て偽装されたものだとしたら、相当の労力があったはずだ。それをあっという間にぶち壊すことはしないだろう。当面は、チヒロ君とは定期的に連絡をとって彼の安全を確認する。その裏で、僕達は独自に動く。これでいいな、柴?」
「なるほど、警察お得意の様子見って奴やな」
「柴」
「…分かっとる。下手な真似はせえへん」
状況的に考えて明らかにおかしい。柴と薊がしばらく病院に顔を出せないタイミングで全てのことが終わっていた。偶然の訳が無い。けれども、警察のお墨付きをもらうほど男の身元は完璧だった。チヒロの立場的に不審には思っても、自ら騒ぎ立てることは決してないだろう。
ならば、自分達が動くしかない。
「見とれよ、必ず化けの皮剥がしたるからな」
柴はそう呟き、点けたばかりのタバコを握り潰した。
チヒロの新しい生活は、表面上は平穏そのものであった。
初日こそ心労により倒れ込むように寝てしまったが、それ以降は大きく体調を崩すこともなく、静かな生活を続けている。
男からは特に外出制限はされていないが、学校は通信教育、買い物などはマンションのコンシェルジュに代行依頼をしているので、そもそも外出をしなくても生活が成り立っている。
当初はたかだか買い物ひとつを他人に頼むなんてと思っていたが、男からチヒロの事情をある程度聞いていたらしいコンシェルジュの方からその提案があった。
「この辺りの治安は比較的良い方ですが、六平様の状況を鑑みるに外出は必要最低限に留めた方が良いかと思われます。幸い、こちらにはスポーツジムも併設しておりますので、運動不足のご心配は不要かと、…いかがでしょうか?」
チヒロよりも幾分背の高い初老の男性は、少し背をかがめて礼儀正しくチヒロにそう問いかけた。純粋にチヒロの身を案じているその視線に、チヒロは逡巡したが結局頷くことになった。
元々父と二人で半引きこもりのような生活をしていたのだから、外出しないストレスはあまり感じない。そもそも、禁止されているわけではないのだから、出ようと思えば何時だって出来る。むしろ、無理に外へ出てマスコミによる騒ぎを起こしたらと思うと、そちらの方がよほど心苦しい。
そのような訳で、チヒロは自主的に引きこもりの生活を送っている。
ただ、心配していたそのマスコミだが、いくら外出を控えていたとはいえ、予想に反してその影を感じることすら無かった。
チヒロはそのことを怪訝に思っていたのだが、その理由を教えてくれたのは、チヒロの様子を見るために改めて家に訪れていた薊であった。
「この辺りには昔からの資産家が非常に多くてね、そうしたお家の大切なご子息様たちが通う付属校も近くにあるくらいだ。そんなところにカメラを持った見慣れぬ不審者がいれば、すわ誘拐犯かと騒ぎになるのは目に見えてるだろうからね」
「そうそう、ほんま自衛の意識が高くて結構なこっちゃな」
不貞腐れたように言葉を付け足したのは、共に来ていた柴であった。どうもこの二人は、初日のことを含めて、あのコンシェルジュに不審者判定を降されたらしく、警備員を呼ばれてしまったそうだ。薊がいたから何とかなったものの、柴だけであれば不審者情報が出回っていた可能性がある。
「本当にすみません。俺があの人にきちんと説明していなかったせいです」
「いやいや、チヒロ君は全然悪くないよ。あの人も自分の仕事をしただけだしね。むしろ柴を不審者と判断するあたり、きちんと仕事が出来る人だと分かって安心したよ」
「はぁ!?何いうてんねん!!不審者扱いされてたんは、どう見たって目隠れのジブンやろ!?」
やいやいと騒ぐ二人は、まるで子供のようだ…父が居れば更に賑やかであっただろうに、チヒロは二人のために寝室から持ってきた父の遺骨をそっと横目に見た。
そんなチヒロの姿に思うことがあったのか、二人で目配せをした後、柴が神妙な顔つきでチヒロに話し掛けた。
「……なあチヒロ君、無理してへんか?」
いつか聞かれるだろうとは思っていた。
どう答えるべきだろうか、…どう答えれば二人は納得するだろうか。
無理?無理ならずっとしている。父が殺され、見知らぬ男に連れられ、今までの生活が一変した。父と一緒にいた時に想像していた未来は、永遠に手が届かなくなった。
けれども、それを嘆くにはチヒロの今の生活は恵まれ過ぎていた。
黙り込んでしまったチヒロに得心がいったのか柴は更に言い募る。
「やっぱり、無理しとるんやろ?良かったら俺んとこ来うへんか?そりゃこないなとこに比べりゃ狭っ苦しいとこやけど、チヒロ君さえ」
「柴さん、それは駄目です」
その選択だけは駄目だ。チヒロは柴の言葉を遮った。
後から調べて知ったのだが、後見人とは親とほぼ同等の権利を持つ者だ。いくらチヒロを思っての行動だったとしても、今の状況から見れば、最悪、未成年略取と見なされる可能性だってある。
そっと息を吐いて、呼吸を整えたチヒロは二人に向きあった。
「無理をしているように見えたなら、そうかもしれないです。ただ、それはいきなり環境が変わって落ち着かないだけです」
「チヒロ君、」
「だから、我が儘を言ってすみませんが、もう少し見守っていて下さい。しばらく経っても俺の様子がおかしいというのなら、その時に二人を頼らせて下さい」
深々と頭を下げてそう言った。
二人は何も言わなかった。このような言い方をすれば、二人が何も言えなくなることは分かって言った言葉だ。
結局、二人とはその後当たり障りのない会話をして、玄関まで見送って別れた。別れ際の二人は物言いたげな視線であったが、チヒロはただ、頭を下げて別れの言葉を伝えただけだった。
あのコンシェルジュの人は丁寧に頭を下げてくれたが、チヒロは気にしないでほしいと、心配をして頂いてありがとうございますと声を掛けた。
その後は部屋に戻り、掃除を済ませる。その後は一人分の夕飯を作り、一人で食べる。その後は、勉強の復習をしてから風呂を済ませる。その後は…
平穏な日常を繰り返す。
自分の身に起きたことを考えれば、この平穏な日常は信じられないほどの幸運だ。たとえ、父を殺した奴等に繋がる有力な手掛かりが一切なく、捜査の進展が遅々として進まない現状を鑑みてもだ。
チヒロは暗闇に包まれた部屋の中でベッドに潜り込み、ベッド脇の父の遺骨を見上げた。
「大丈夫、俺は恵まれている」
男と出会った時から何度も自分に言い聞かせている言葉だ。
だからこれ以上は望んではいけない。犯人の行方を追うのは自分の領分ではない。
チヒロが求められているのは、平穏な日常を享受し、憂いの無い自身の姿を見せることだ。
だから、大丈夫。不安を押し込めるのにも段々と慣れてきた。
「…おやすみなさい、父さん」
だから心配しないで。きっと、自分は上手くやれる。
「千鉱、何か問題はないか?」
「はい、大丈夫です。■■さんのお陰で何不自由なく過ごせています。最近は、外にも出るようになって、近くの公園を散歩したりしています」
「それは良かった、不自由していることがあればなんでも言うと良い。すぐに整える」
チヒロの近況報告を兼ねた男との面会は、月に数度ある。大抵は今のように外で食事をしながらと言うことが多い。
当たり障りなく、ただし、男への感謝の言葉だけは忘れないように。いつもの報告だ。
男はチヒロの言葉と態度をどう受け止めているのだろうか。いつもと同じ質問に、いつもと同じ答え。
チヒロと同じように薄気味悪いと思っているのだろうか、それともいつまでも懐かない可愛げのないガキだとでも。そう思っていた方がマシだと思えるぐらい、男の表情に変化はない。
ほとんど会話の弾まない食事の中で、男は静かにワインを燻らせている。
けれども、今日はいつもの会話の中に変化があった。
「千鉱、高校は何処を考えている?」
もうすぐ冬になる。おそらく、このような時期に進路が全く決まっていないというのは良くない状況なのだろう。
高校進学はしたいと思っている。後見人である男に金銭的な負担をかけることになってしまうが、現状を鑑みるに男にとってそれほど痛手ではないのだろう。
けれども、高校に進んでどのような勉強をしたいかというと、何も頭に思い浮かばない。薊にはこれといったものが無いなら、自分の学力に合わせて適当に見繕えばいいと言われていたが、流石に援助をしてもらっている身でそこまで適当にはなれない。
「すみません、まだ何処に行きたいのかすら決められていなくて…」
「確かに。お前は今まで学校に通っていなかったしな、なんの基準もない状態で選べと言うのも難しいだろう…どうしても決められないと言うのなら、この高校はどうだ?」
そう言った男から、高校のパンフレットを手渡される。
それは、チヒロの住むマンションからも見える位置にある、私立高校のものだった。
もちろん、いくらチヒロでもその存在は認識していた。けれども、この高校は幼稚園から大学院までの一貫教育の名の下の付属校となっており、外部生は認められているが、基本はエスカレター方式、入学金や授業料だって他の私立高校と比較にならないほど高額だ。
これまでだって勉強はしっかりしていたし、今の住まいに移ってからはかなりの時間を勉強に費やしていたため、学力的には狙えなくもないが、今まで学校に通っていなかったチヒロの身からすれば、あまりにも場違いなところだ。たとえ、学力が足りていたとしても、チヒロのような素性の者が通えるはずもない。
「あの、ここには通えません…」
「何故だ?お前の頭なら十分狙える範囲だろう。金なら問題ないことぐらい、今までの暮らしで分かっているはずだ」
「お金のこともそうですが、ここは家柄も重視するような場所ですよね?俺には父のことや、この傷のこともありますし、おそらく面接で落とされると思います」
そういえば、男はチヒロの顔の傷のことについて言及したことは無かった。自分で話題を振っておきながら、傷を消すよう言われたらどうしようと少し焦る。
「なるほど、落とされる心配をしていただけか。なら受験をすること自体は問題ないだろう?必ず合格しろと言っている訳じゃない。記念受験だと思って受けてみろ」
幸い、男は傷のことについては言及しなかった。これまでの男の献身ぶりを振り返ると、チヒロの顔に傷が残っていることに難色を示さないのは多少変に思うが、感性は人それぞれだ。自分にとって都合の良いことなら、あえて触れる必要は無い。
それより受験のことだが、男にここまで言われれば断ることは出来ない。というより、断る理由が無い。落ちることを前提にしても良いということなら、勉強の目標ができる分、却って良いことなのかもしれない。
それならばと男の提案を承諾すると、後で受験対策用の本をいくつか見繕って送っておくと言って男は食事を再開した。それ以降はいつも通りの静かな食事が続くばかりであった。
そうして、遅まきながらも受験勉強を始めたチヒロだが、落とされることを前提とした受験であっても、それを理由に手を抜くことはしなかった。
今まで以上に力を入れて勉強に取り組み、自分に出来ることは全て行なった。
そうして、迎えた合格発表の日、チヒロの手元には合格通知が届いていた。
正直に言うと信じられなかった。確かにテスト問題には手応えがあったし、面接だって滅多な受け答えはしなかった。けれども、面接室に入った瞬間の面接官たちのあの驚いたような表情は、やはりここには受からないだろうなと思わせるには充分なものであった。
そのため、喜びよりも困惑の方が勝るが、目の前の合格の二文字に変わりは無い。
まずはこのことを男に報告せねばと、珍しくチヒロの方から電話を掛けた。
「そうか、良かったな。次の週末には制服の採寸があるから予定を空けておけ」
男は仕事が忙しいのか、それだけ言うとすぐに電話を切ってしまった。
チヒロとて男が喜色満面に喜ぶ姿なんて想像もしなかったが、自分で受験を勧めておきながらこうもあっさりと合格報告を流されると、どうにも収まりが悪い。
今更、男の態度に何を思っても仕方ないかと気を取り直し、柴と薊にも連絡を入れる。二人とも自分のことのように喜んで、後でお祝いをしようと張り切っていた。
他に報告すべき人はと考えると、いつもお世話になっている初老のコンシェルジュの顔が浮かんだ。
早速、エレベーターに乗っていつもの場所にいるコンシェルジュに会いに行く。彼はチヒロの姿を認めると、その表情をほんの少し緩めた。
件の高校に合格したことを伝えると、彼は驚いたようにチヒロの顔を見返した。
「もしや、それを伝えるために私に会いに?」
「……はい」
改めて聞かれると、恥ずかしいことをしてしまったと顔に熱が集まる。チヒロにとってはお世話になっている人で、早く合格の報告をと思って降りてきてしまったが、考えてみれば彼にとってチヒロはただの仕事相手だ。
チヒロの顔色の変化に気付いた彼は慌てて言い募る。
「申し訳ありません六平様、私は嬉しかったのです。失礼ですが、六平様のことはその、…孫を見守るような想いで見ておりましたので、このように大切なことを報告すべき人だと思っていただけたのが、大変に嬉しかったのです」
その言葉にチヒロはぽかんと口を開けてしまった。今度は別の意味で顔に熱が集まってくる。
「その、孫はいくらなんでも幼すぎじゃないですか?」
「おや、そのように若く見て頂いていたとは、この仕事を長年続けてきた甲斐がありましたかな?」
照れ隠しの言葉にもあっさりと返されてしまった。
彼は自身の態度でチヒロを不安にさせてしまったと改めて丁寧に謝罪し、遅くなりましたがと言い添えて祝いの言葉を口にした。
「六平様、合格おめでとうございます」
「はい、ありがとうございます」
彼と別れた後、部屋に戻って勢いよくベッドに寝転んだ。今更ながらじわじわと喜びが湧いてくる。ようやく自分の努力で手に入れたものが出来た。自分は前へと進めている。
「…父さん、俺、頑張ってるよ」
父の遺骨はもちろん返事などしない。それでも父に見守られているかのように、チヒロは幸福を感じていた。
入学式当日、姿見の中に人生で初めてネクタイを結び、全く着慣れないブレザーを纏ったチヒロが写し出されている。どうにも服に着られている感が否めないが、それよりもきちんとした格好をしていると、顔の傷が非常に目立つのがよく分かる。
柴からはたくさん友人を作って青春を謳歌するようにと言われていたが、この顔では中々難しいだろう。けれども、この傷は自分の意志で残しているものだ。
病室で包帯が取れて初めてこの傷を見た時、父の最後の姿が強烈に思い出された。
適当な理由を言って手術を断ったが、毎朝、この傷を見る度に父の最期を思い出す。父からすれば、そんなことを何度も思い出してくれるなと言いそうだが、それでも、チヒロにとってはこの傷が父との最期の思い出なのだ。この傷を消してしまえば、あの時に感じた悲しみも憎しみも全て忘れてしまいそうな気がするから。この感情に全てを捉えられて生きるつもりはない。
それでも心の片隅に残し続けるべきだ。それが日常に戻ったチヒロに出来る、せめてもの贖罪なのだから。
「準備は終わったか?」
「はい、今行きます」
入学式には男と連れ立って向かうことになっている。チヒロの仕度を待っていた男に声をかけられたが、返事をしたにもかかわらず、男はチヒロの姿をしげしげと見つめて動こうとしない。
男のこのような視線にも大分慣れてきた。今も男が何を考えているのか分からないままだが、分からないことを考えて続けても仕方ない、と出会ってから半年も経てば半ば諦めの境地で流せるようにもなった。
しかし、いつまでも見つめられて動けないのは困る。チヒロは何か変ですかと男に尋ねた。
「いや、こうして見るとまだまだ子供だなと思っていただけだ」
なるほど、これはどう返すべきだろうか。これを言ったのが柴や薊ならば、いつまでも子供扱いしないで下さいなどと軽口を返したが、男の場合は本心で言っている可能性がある。
今度はチヒロが男を見返したまま固まっていると、男は満足したのか、準備ができたなら行くぞと声を掛けてスタスタと玄関へ向かって行ってしまった。
やはりこの男は苦手だ。
学校に着くと、チヒロと同じ制服に身を包んだ生徒が同じように入学式会場へと向かっている。
ただし、内部生の割合が圧倒的に多いためか、チヒロのように緊張しているような者はあまり見掛けず、保護者含めて皆一様に親しげに喋っている。
そして、顔に傷のあるチヒロを目に留めると、これもまた一様にギョッとした顔をし、そそくさと距離をあける者が多い。予想していたことだし、これぐらいのことで傷付くような繊細な神経も持ち合わせていないが、こうも露骨だとたくさんどころか友人を作ること自体が望み薄だ。
そのような中で始まった入学式は滞りなく進み、式後に生徒は保護者と別れて教室へ向かうようにと指示が出された。周りの生徒は顔馴染みばかりだからだろう、お喋りに興じながらノロノロと移動を始める。
ざわめきの中、ふと、後方の男の方を振り返ると、意外なことに多くの保護者に囲まれて話をしている姿が見て取れた。チヒロが目を丸くしていると、男がこちらへ視線を向けて、微笑みながら軽く手を振った。もちろん、周りの保護者も男の視線の先を追って、チヒロの方を見る。
その視線に、これ以上観察対象にされるのは勘弁してほしいと、チヒロは慌てて会釈だけを返して足速にその場を離れた。
入学式早々、悪目立ちしてばかりだ。柴には申し訳ないが、期待を裏切ることになりそうだとチヒロはこっそりとため息をついた。
「六平君ですね、少しいいですか?」
指定された教室に向かっていると、足早に近づいてきた男性教員にチヒロだけ呼び止められ、進路指導室と書かれた部屋へ一人通された。
早速、素行の注意でも受けるのかと身構えていると、席に掛けるように促され、教員は自身がチヒロのクラス担任であるとを紹介をした。
「急に呼び出してすみません。教室に行く前に六平君に説明しておきたいことがありまして」
眼鏡をかけた柔和な雰囲気の担任は、落ち着いた物腰でチヒロに話を始めた。
「これから教室に全員揃ったら、それぞれ自己紹介をしてもらうことになっているんです。もちろん、内部生がほとんどなので名前だけの簡単な挨拶で済ます子も多いのですが、六平君の場合は珍しい苗字ですから…以前の事件のことを連想する生徒はかなり多いと思われます」
流石に担任ともなると生徒の家庭の事情はある程度聞いているのだろう。いかにも人が良さそうな担任の話をチヒロは黙って話を聞いた。
「周りの反応に対して知らぬ存ぜぬを貫き通すという方法もありますが、事件が起きたことと六平君がその関係者であることは事実です。それなら、後ろめたいことは何も無いのですから、逆に先生から六平君の状況を説明させてもらいたいのですが、どうでしょうか?」
確かに、この顔と苗字ならチヒロがどのように振る舞っても事件について聞かれるのは避けられないだろう。周りから聞かれるたびにチヒロが一々説明するよりも、先生という立場から話した方が信憑生が高まる上に説明の手間が省けると、チヒロはその提案に同意を示した。
「ありがとうございます…そうですね、六平君は君の後見人となっている■■さんのことはどの程度知っていらっしゃいますか?」
「…美術商を営んでいて、父との縁で俺の面倒を見てくれていて、それと随分と生活にゆとりのある方だと、」
チヒロは男に抱く自身の内心は伏せて、当たり障りなく答えた。
「では、その彼がこの学園にここ数年に渡って多額の寄附をおこなっていること、その彼が宝物のように大切な存在が出来たと最近噂されているのは、ご存知ですか?」
想定していなかった話の流れにチヒロは目を白黒とさせた。寄附金のこともそうだが何より、
「宝物ってまさか、俺のことを言っているんですか?」
すると、担任はチヒロに微笑みかけたまま話を続けた。
「良かったです、六平君がそこまで鈍い子でなくて。もちろん、宝物とは君のこととして噂されてます。今までは眉唾物の噂でしたが、今日の彼の君に対する態度で周り確信した人は多いでしょうね。君のこれからのこの学園での生活は保証されたようなものですよ」
「ちょっと、待って下さい…話が唐突すぎて、だったら、それじゃあ俺がここに受かったのもあの人のおかげということですか?」
「君の筆記試験の点数は間違いなく合格点に達していました。それについては私が保証します。面接試験についても彼から直接的な圧力があった訳ではありません。が、彼がこの学園に多額の寄附をおこなっているという事実はありました。この答えでは不満ですか?」
その答えはつまり、あの男が後見人でなければここには受かっていないということだ。やっと自分の力で前へと進めたと思っていたのに、結局はあの男の力に依存している。
「…まあ不満ですよね。自分の実力で合格したと思っていたら、他者の介入があったなんて」
「そんなの、当たり前じゃないですか」
気持ちは分かると言うように鷹揚に頷く担任に、身の程を知れとここに呼び出したのかと苛立ちが芽生える。だが、そんなチヒロの気持ちも理解しているかのように担任は意外な言葉を続けた。
「正直言って、私は彼が慈悲の心だけで君のことを支援してるとは思っていません。悲劇の子を引き取り大切にしているというのは、それだけで美談になりますからね。このことは彼自身の評価にもつながります。だけど彼の行為は確実に六平君自身の利益になっています。違いますか?」
違わない。チヒロは担任の言葉を肯定した。あの男の行為がこれまでチヒロの不利益につながったことはない。だけど、あの男の行為にそんな穿った見方をするのはこれまで柴と薊以外には居なかった。
「それなら、六平君も彼のことを利用すれば良いだけです。プライドを傷つけられたぐらい、この学園で得られるものと比較すればお釣りが来ますよ。実際、親の七光りで入学している子なんて掃いて捨てるほどいますしね」
茶目っ気を出してウインクをする担任に少し引いたチヒロだったが、結局はそういうことだ。今から文句を言って中学浪人になるつもりは更々無い。男が後見人となった時と似たような流れになっているのは非常に癪だが、今回はチヒロだって努力をしてきた。腹を括って利益を最大限に享受すべきだ。
チヒロはニコニコと微笑み続ける担任をしっかりと見据えた。
「それで、どうして俺にそんなことを話してくれたんですか?上の人たちには口止めされてたはずですよね?」
「真実を知った傷心の六平君に寄り添い、心を開かせたとなると私のこともかなりの美談になるとは思いませんか?」
「そうして、先生の評価も上がると」
「もちろん、お互いWin-Winの関係でいきましょう…それでは改めて、六平君。初めての学校生活を是非とも楽しんでください」
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
その屈託の無い笑顔は最初に感じた印象とは随分違うものにはなったが、人生で初めての担任としては、多分、悪く無いものなのだろう。
「六平って中学から一人暮らししてんの!?マジやべえって、家事とか出来るの凄すぎん?」
「ずっと父さんと二人暮らしだったから、自然と出来るようになっただけだ」
「ごめ、いや、うん……いや、すげえって普通二人暮らしなら親父の方が面倒見るじゃん。チヒロの父さんってやっぱり職人気質だったから家事はダメダメだったとか?あはは」
「地雷を踏んだにも関わらず更に突っ込んでいくのは君の美点だと思うよ。僕なら恥ずかしさのあまり死んでしまいそうだ」
「うるっさい!!六平はそんなこと気にしないよな?なあ、ちょっと微笑みながら無言で弁当食べる手を止めていただけませんか?やばいって、色んな意味がドキドキが止まらないからマジでなんか喋ってください!!」
結局、担任の言っていた通り、後見人のことを紹介されたチヒロは同級生に厚意的に迎えられることとなった。もちろん、純粋な好意ばかりではないが、自分自身の信頼は自分の力で築けば良いだけだ。
そうして、チヒロのあまり愛想が良いとも言えない態度を気にせず距離を詰めてきたのが、今一緒にお昼を食べている二人だ。
一人はチヒロと同じく高等部からの外部生で、同じ外部生のチヒロにシンパシーを感じていたら、後見人のことで裏切られたと思ったけど、やっぱり良い奴だったとコロコロと素直な感情を示す特待生。
もう一人は、親からチヒロと仲良くするようにと言われたから、とこちらもある意味素直にチヒロに接してきた所謂エリート気質の不動産会社の社長の息子だ。
三人とも随分と気質は違うが、妙に馬があったのかこうして昼を共にする仲となっている。
「にしても、六平の後見人もよく一人暮らしさせようって思ったよな?普通、中坊が家事出来るって思わねえだろ?」
「六平君のお父様がそれだけしっかりした人だったんだろ?これだから庶民の貧困な脳みそは想像力が足りてなくて困る。後見人の方はそのことをきちんと理解されていたんだろうね、本当に素晴らしい人だと思うよ」
「いや、悪いが俺の父さんは家事とか全然だった。やらないというよりは出来ないというか、向いてなかったんだと思う」
「うぇ~い俺の勝ち!庶民に劣る脳みそFoooo~!!」
「……そうか、今後のテスト傾向とか共有してあげようかと思っていたんだけど、劣った脳みそからの情報なんて特待生の君には不要だよね。もちろん、六平君とは後で一緒に勉強するから心配しないでおくれよ」
「あぁ!?ずるっ、いや嘘です今のナシ!!この貧困な脳みそには内部生様の情報は全て貴重なものでございます!是非ともご一緒させてください!!」
こうして今日も賑やかな食事風景が続く。
初めは友人なんて出来なくても仕方がないと思っていたが、こうして友人と呼べるような仲の者が出来るとそれがどんなに良いものなのか、柴の言っていた意味を実感した。
そうして、あっという間に季節が過ぎ去っていく。
「夏休みの予定がなければ、良かったら僕の別荘に遊びに来ないかい」
「あざます!俺、軽井沢とか初めてなんでマジ楽しみにしとくわ」
「悪いね、部屋が埋まってるから招待できるのは六平君だけなんだ」
「俺はみんなと遊びに行けるならどこでも…」
「なら、近所の花火大会行こうぜ!穴場スポット知ってるからすげえ綺麗に見えるんだって」
「確認したらたまたま二人分の部屋が空いていたみたいだ。二人とも僕の別荘に遊びに来ないかい?」
「わあ、熱い手のひら返し&ゴリ押し!悔しいけどありがとうございます!!」
ずっと空っぽのままだった携帯のアルバムがどんどん埋まるようになった。
「なんでお前そんなに足速えの!?中学生までほとんど引きこもりって言ってたじゃん!」
「家の中でもきちんと鍛えてたから」
「いや、おかしいって!!ほら見ろ、こいつなんて嫌味の一つも言えないくらいへばってんじゃん!」
「………っ!…………はぁ!」
「大丈夫か?ほら、水分とって少し休憩した方が良い」
「「六平くーん、カッコ良い!!体育祭頑張ってねー!!」」
「……ありがとう」
「「キャー、ありがとうだって!!」」
「…ふぅ、水どうも。それにしても六平君、君随分モテるようになったね。ペットボトル差し出すだけで歓声が上がるって中々無いと思うよ?」
「そうなのか?体育祭が近いから足の速いやつを応援してるってだけじゃないのか」
「うーん、その言葉は必死に君に食らいついていた、意外と運動のできる特待生君に突き刺さるからやめてあげた方が良いかもね」
「………っチクショー!!」
段々と話をする同級生も増えた。
「柴さん、薊さん、明けましておめでとうございます」
「おめでとうさん、チヒロ君、高校入ってから随分表情柔らこうなったな」
「本当に、一時期はどうなるかと思ってたけどやっぱり同年代の友達が出来たのが大きいのかな」
「そうですね、想像してたよりもずっと楽しく過ごせています」
「おお~ええやんええやん、青春謳歌してるってことやな」
父への報告も随分と明るい物が多くなった
「やあ、また六平君と同じクラスになれて良かったよ」
「俺も!俺もいるから!!何目の前で無視してくれちゃってんの!?」
「…やれやれ、せっかくクラス替えで少しは静かになると思ってたのに、また一年うるさいのが続くと思うと、涙が出てくるよ」
「俺は二人と一緒で嬉しいよ」
あっという間に季節が次々と流れてゆく。
「あっついなあ、もう。温暖化ゆうても限度っちゅうもんを知らんのかて」
「柴さん昔から暑がりでしたもんね。父さんももう少し涼しい所に移してあげた方が良いですかね」
「いやいや、国重はチヒロ君の寝顔が見れる今のとこのまんまの方がええって」
「…本当は三回忌には納骨すべきなんですよね」
「ええんちゃうか、チヒロ君が成人するぐらいまでは国重だって側にいたいやろ?むしろ今から墓入れたら寂しくて化けて出て来るかもしれへんな」
「それで会いに来てくれるならすぐにでも納骨するんですけど」
「嘘嘘、冗談やて。いや、国重のやつならマジでチヒロ君のこと心配して出て来るかもしれへんけど!…チヒロ君に寂しいゆう気持ちが残ってんならもう少し側に置いとき」
「そうですね、…そうします」
あともう少しだけ側に。
そうして季節が巡り、また春が来た。高校に入ってからはあっという間の2年間だった。
春休み初日、今日は男との定例の食事会の日だ。今では、初めの頃のように男との会話に言葉が詰まるようなことはほとんどない。
この数年の男との付き合いで実感した。チヒロは男と決定的に反りが合わない。
初めはこれだけ世話になっているのにどうして素直に感謝できないのか、信頼できないのかと罪悪感が沸いていたが、一度開き直って男に反発した態度をとったところ、意外にも男はそれを好意的に受け入れた。
男の観察するような視線は変わらなかったが、言葉に感情が乗るようになった。チヒロとの会話は皮肉混じりのものが多くなったが、それこそ皮肉なことにチヒロは男のことを信頼するようになっていった。この男のことを信頼する日なんて一生ないだろうと思っていたが、本当に人生どう転ぶかは分からないものだとチヒロは実感した。
「ところで千鉱、お前も今年の夏で十八歳、成人になる。未成年後見人はお前が成人すればその関係は解消されることになる」
男から切り出された話題は少し前からチヒロも考えていたことだった。流石に高校三年の半ばでいきなり放り出されることはないだろうが、それでも男との法律上の関係は無くなる。
「今まで長い間お前のことを見守ってきたが、こうして話していると、改めて初めて会った時から随分と大人びたなと感じるよ」
長い間、確かに男と出会ってから二年半になる。男がこのような感傷的な物言いをするのは珍しいなと思いながらもチヒロは黙って話を聞いていた。
「もうすぐ俺はお前の後見人という立場を失う。けれど、それで俺とお前の関係を終わりにしたくはない。なあ千鉱、俺はお前の家族になりたいんだ」
男がそう言ってテーブルに取り出した書類は裁判所の許可書に、証人まで記入済みの養子縁組届だ。
「既に諸々の準備は済ませてある。あとはこの用紙にお前が署名すれば俺たちは家族になる」
チヒロが男の提案に乗ることを前提とした物言いに頭が痛くなる。この男はいつもそうだ。
「あなたはいつもそうだ。後見人になったことも、高校のことも、他のことも全部。俺に選ばせてるようでいつも全てあなたが決めている」
「それはお前が子供で俺が大人だからだ。俺の決めたことでお前の不幸につながったことでも?」
「ありません。俺の努力だけでは到底手に入らなかったものが、あなたのおかげで手にすることも経験することもできました」
「なら、なんの問題もないだろう?この紙一枚にサインするだけでお前の立場は確固たるものになる。今更拒絶する道理はないはずだ」
「俺にとって六平という氏は大切なものなんです。あなたにとってはちっぽけなプライドかもしれませんが、父とのつながりのこれだけは手放したくないんです」
「なるほど、その理屈でいくと日本の夫婦の半数はプライドと親とのつながりを捨てて、屈辱の中で日々を過ごしているということになるな」
「なっ!?それとこれとは話が…」
「違わない。結婚とは契約だ。養子縁組だって変わらない。契約の条件が合致すれば互いに署名し、契約を履行する。氏の変更はそれに付随するものに過ぎない。肝心なのは契約によって得られる互いの利益だ」
「だから俺にとって六平という氏を失うことが一番の、」
「呼び名が変わったところでお前の本質が変わることは何もない。それともお前とお前の父親のつながりは呼び名一つで失われるほど儚いものだったのか?」
「そんなことは」
「だったら尚更問題ないはずだ。日本の養子縁組制度は実親との縁を切るものではない。養子縁組後もちゃんとお前の戸籍には六平国重が父として残る。お前の言う不利益とは俺が決める正しい道筋が気に食わないという子供の癇癪じゃないのか?」
「……っ」
男に言い包められている自覚はある。だけど反論の言葉が出てこない。
「詰め寄るような物言いをして悪かったな。こんなことを言ったが、養子縁組については無理強いはしない。たとえこれを断っても高校卒業、いや大学を出るまでは支援を続けるつもりだ。ああ、そうだな、子供のお前では決められないというのならお前の信頼する探偵と警官に相談したって良い」
チヒロは感情の起伏があまり表に出る方ではないが、それは決して沸点が高いということではない。神経を逆撫でするような物言いはチヒロの怒りに火を点けたが、それが却ってチヒロを冷静にさせた。
「…一つ、聞きたいことがあります。確かにあなたが言うようにこの養子縁組は俺に益があります。ですが、あなたにとってはどうなんですか?わざわざこんなことをしなくても、あなたの評価はもう変わらないはずだ。なぜ今更こんな関係を望む?」
「何を言っている?お前と家族になること自体が俺の利益だ」
「どうせ嘘を吐くなら、もう少し言い繕ったらどうなんですか」
「嘘じゃないさ。出会った時は極度に緊張した子猫のようだった存在が今ではこうして憎まれ口を叩くようにまでになった。可愛く思うのは当然のことだと思うが」
ああ言えばこう言う。チヒロの頭の痛さは増す一方だ。
…仕方がない。まだ、家族と呼べるほどの情はないが、たとえ今の言葉が詭弁であったとしても、ここまで言われれば男の思いに応えても良いのではないか。そう思えるぐらいの情は男に対して抱いてしまっていた。つまりは男の粘り勝ちだ。
「……ペンを」
「ありがとう千鉱、お前ならそう言ってくれると思っていたよ」
どの口が、と心の中で悪態を吐きつつチヒロは自身の名前を書こうとして、しばし思案した。
「ああ、そこの署名は六平千鉱と書くんだ。これから変わる■■ではなく、前の名前の六平としてな」
一瞬、この紙を引き裂いて男に投げつけてやろうかと思ったが、寸前のところで堪えた。チヒロは男を睨みつけたが、男は楽しげに肩をすくめただけだ。
一画、一画、丁寧に六平千鉱の名前を署名する。
六平の氏を名乗れなくなる日が来るとは思っていなかったが、男の言っていた通りだ。これでチヒロと父の縁が切れるわけじゃない。むしろ、美術商の男の懐に潜り込んだことで、父のことを自分で探れるようになるかもしれない。そんなことをチヒロが考えてることぐらい、男にとっては織り込み済みだろう。
署名した紙を男に渡す。これでもう、後戻りは出来ない。
「これからは家族としてよろしく頼む、千鉱」
「こちらこそ、…幽さん」
「何だ、父さんとは呼んでくれないのか」
「呼んでほしいなんて欠片も思ってないくせに」
「それはそうだな。父さんと呼ばれるよりも名前で呼ばれた方が、お前と婚姻したようで気分が良い」
「……あなたの冗談は理解出来ないものが多すぎる」
「ふふっ、まあいい、これで家族になったんだ。早速明日には新居に引っ越させるから荷物をまとめておけ」
「…………冗談だよな?」
顔を引き攣らせたチヒロに対し、男は優しく微笑みかけた。
「家族なら一つ屋根の下で過ごすものだ。そうだろう、千鉱」
新しい住まいはチヒロが住んでいたマンションからそれほど遠くない、けれども少し奥まったところにある古い平家建ての日本家屋であった。特徴的なのが、裏庭にある大きな蔵と家が渡り廊下で繋がれていることだ。
「仕事が落ち着いてきて、ひと所に腰を据えようと考えていたらちょうど良い物件があったんでな。内部はかなり手を入れてあるから前のところよりは快適になっているはずだ」
コンシェルジュ付きの高級マンションより快適になっている日本家屋なんて意味が分からない。それならいっそ立て直したほうが安上がりなんじゃないか。チヒロは現実逃避するようにそんなことをぼんやりと考えていた。
激しいデジャヴを感じながらバタバタと引っ越し、お世話になったコンシェルジュにも簡単な挨拶しか出来なかったのが悔やまれたが、それでも笑顔で見送ってくれたことに感謝した。
男に促されて、新しい家の中に足を踏み入れる。
なるほど、男が言うように中の部屋は和室もあるが、基本的にはフローリングで統一されており、外観の印象からは想像もつかないほど近代的な造りとなっていた。
その中でもやはり際立つのが、蔵へと続く一本の長い渡り廊下だ。普通、こういった裏庭を横断する渡り廊下は壁がなく、外部との行き来が可能となっているものが多いが、この家の渡り廊下はしっかりと壁で覆われている。
人がすれ違えるような幅は充分にあるのだが、真っ直ぐに蔵の扉のみへとつながる廊下はどうにも圧迫感が拭えない。チヒロが奥の扉をじっと見ていると、男が声を掛けてきた。
「ああ、千鉱。悪いが奥の蔵には入らないで欲しい。あそこは俺の仕事場にもなっているんでな、見られると困る物が色々と置いてある」
「わざわざ蔵を仕事場に?」
「趣味の場を兼ね備えてな、隠れ家みたいで面白いだろう?」
「……趣味だろうと仕事だろうと入るなと言われれば入りません。掃除だけはちゃんとして下さいよ」
男は外見に似合わず、子供っぽい趣味がある。面白そうだと思えば唐突に行動に移し、チヒロを困惑の渦に巻き込む。
こうして、チヒロと男の共同生活が始まった。
男は家事が出来ないという訳ではないが、気分次第でやったりやらなかったりと適当な面があったため、結局チヒロが全面的に家事を行うこととなった。
春休み中だったため、男が仕事から帰るのをチヒロが家で待つことが多かった。その初日に夕飯か風呂が先かを尋ねたら、まるで新妻だなと返された時にはいつまでその冗談を続けるつもりかと盛大に苛ついた。
ただまあ、せいぜい困るのは男の理解できない冗談だけで、こうして一緒に暮らしてみると、父の世話をしながら一緒に暮らしていた日々が思い出されて、悪い気はしなかった。
確かに、男との共同生活はそれほど悪いものではなかったのだ。
春休み最終日、男が出掛けている昼間の内にチヒロは掃除を済ませてしまおうと朝から働いていた。無駄に広い家だから掃除をするだけでも一苦労だ。
ふと、掃除の手を止めて、渡り廊下の先の蔵の扉を見つめる。チヒロは男に言われた通り、掃除をするのも渡り廊下までとし、その扉を開けたことは無かった。
近くで掃除をしていて気付いたことだが、蔵の扉にはドアノブはあるが、鍵穴は存在しない。入るなと言う割にはあまりにも無防備だ。いつものことだと諦めているが、男が何をしたいのか分からない。
そういえば、と思い出す。ずっと昔に今と似たような状況の物語を読んだ覚えがある。
入ってはいけないと言う部屋の鍵を渡されたが、鍵を受け取った者は結局その部屋へと足を踏み入れてしまった。その話のオチはどんなものだっただろうか。ずっと昔に読んだきりでほとんど覚えていないが、読んでいて気分の良い話ではなかったはずだ。
中途半端に思い出された物語が頭に引っかかったが、今のチヒロが扉を開ける理由はないから、どのような結末だったにせよ、関係が無いなと扉から目を逸らして掃除の続きをすることにした。
因みに養子縁組の件を後からチヒロから聞いた柴と薊は怒りに怒り、特に柴は男の元へ突撃しようとさえしたが、なんとかチヒロが説得して留まってもらった。
何かあったら必ず知らせるようにと何度目になるか分からない注意を受け、はい分かりました、と素直に返事をしたにも関わらず、二人にはため息を吐かれる結果となった。
学校生活は大きく変わるようなものでは無かった。周りは三年生になるこの時期に?という反応もあったが、後見人制度のことを話すとそんなものかと納得したようで、最終的には家族が増えて良かったという意見に落ち着いた。
友人は、今まで六平って呼んでたのに急に■■と呼ぶってなると慣れるのに時間がかかりそうだ、と笑っていた。
俺もそうだよ、とチヒロもそっと微笑んで返した。
スコールのような雨が降ったり止んだりと、本当に梅雨が明けたのだろうかというような不安定な天気が続いていたころ、その事件は起きた。
それはちょうど昼休みの時間であった。慌てた様子の担任がチヒロに声を掛けてきた
「■■、少し良いか?」
未だにその呼び名に馴染まないなと思いつつ、ひどく緊張した担任に連れられて教室を出た。そのらしくない様子に、チヒロは胸がざわりと音を立てるのを聞いた。
進路指導室にチヒロを連れて入った担任は、落ち着いて話を聞くように言い含めてから話を始めた。
父の刀を使った殺しが行われた。
その連絡が警察からの連絡が学校に入り、すぐにチヒロに伝えるようにとの呼び出しであった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
確かにこれまで盗まれた父の刀は行方知れずであったが、こんな形で見つかるなんて。
警察からは…おそらく薊からと思われるが、盗まれた六平国重の刀を使用した犯行があったというだけではチヒロを保護することまでは出来ないが、念の為、直ぐに自宅へ帰るようにとの指示があったということだった。
担任がチヒロを気遣うようにして状況を説明してくれているが、先ほどからうまく言葉が飲み込めない。まるで、自分が透明な分厚い膜に包み込まれているような感覚だ。あらゆる情報がぼやけて滲んで霞んでしまう。
この事件は今日にでも大々的に報じられるだろう。それを見聞きした人たちはどう思うだろうか、きっと父の刀を、父を悪し様に言うだろう。こんな刀があるから事件が起きたのだと。
どうしよう、どうすればいい。また何も出来ない。事件の当事者にすらなれない今の自分に何の意味があるのだろうか。拳を固く握りしめたまま、ずきずきと痛む頭の中を出口の見えない思考が回り続ける。
「大丈夫か、千鉱」
思考の海に沈んだチヒロに男の声が響いた。
いつの間にか傍に立っていた男は、握りしめて真っ白になったチヒロの手にそっと触れた。
そうして、あやすようにチヒロの指を丁寧になぞり、その拳を解いていった。男の手はなんの迷いも無く、チヒロの手を慈しむように包み込んだ。思考はまとまらないままだけれども、握りしめていた力が抜けて、頭の痛みが遠のいた。
担任がホッとした様子で男に声を掛けている。ああ、そうか、男は保護者としてチヒロを迎えに来たのかとぼんやりとした頭で遅まきながら理解した。
男に連れられ帰宅すると、部屋で休めと声を掛けられた。けれどもチヒロは、そのまま無言でテレビを点けた。
既にニュース番組では事件が取り上げられていた。殺された人間は暴力団のトップ及びその側近で、殺害に使われた刀はトップの心臓に突き立てられるような形で残されていたという。事件に関するSNSの紹介では、刀自体への忌避感を示す意見が多く取り糺されていた。解説者はこれを機に刀の作成、所持に強い規制をかけるべきだと鼻息荒く話していた。
ああ、やはりこうなったか、想像していた通りの光景がテレビに映し出されている。
チヒロはじっと画面を見つめていたが、不意にその映像が途切れた。
「あまり見ない方が良い」
男がテレビを消したようだ。
「……幽さんは、父の刀をどう思っていますか」
「前に言った通りだ。君の父親の作る刀は唯一無二の存在だ。殺しに使われたぐらいでその価値が失われることは無い」
違う、そんなことが聞きたいんじゃない、そう言い返そうとして言葉に詰まる。ではチヒロは何を求めて男に問いかけたのだ。男の価値観は何も変わっていない。むしろチヒロが抱いていた父の刀に対する信念が、世間の反応によって揺らいでしまったから問いかけたのだ。
自分が、自分だけは父を信じて守らなければいけなかったのに、それすら出来ないなんて。
遠のいていた痛みがぶり返す。頭の痛みじゃない。とっくに形ばかりになった顔の傷が痛み出す。
「俺があの時、俺がもっと早く気付いていれば、ちゃんと父さんを助けられていれば、こんなことには…」
チヒロは痛む傷に爪を立てながら、呻くようにつぶやいた。
「あまり思い詰めるな。この傷もお前が父を最後まで守ろうとその身を呈した結果だ。お前は出来る限りのことをした」
男は血が滲んだ傷を慰めるように撫でて、チヒロの手をそっと外させた。
「だけど、結局守れなかった。あの時も、今も何も出来ないまま父の刀を穢された」
「なら、これから取り戻せば良いだけだ。お前は父の誇りも刀も奪われたままで良いのか」
「……今の俺に何が出来ると」
「そうだな、今のお前はまだ青い。はっきり言えば今動こうとしても何の解決にもならないだろうな」
「だったら結局、」
「だから今は力を蓄えろ。今感じているお前の悲しみも絶望も全て、お前の中の憎しみの糧にしろ。お前は賢い、その時が来れば機を逃さずに必ず動けるはずだ。俺との養子縁組を飲んだのもそんな思いが心の中であったからこそだろう、違うか?」
男にじっと顔を覗き込まれる。その顔を見て男が本気でその言葉を言っていることが分かる。
チヒロは思わず呆けてしまった。普通、養い子に憎しみを育てろだなんて言うだろうか。男が普通じゃないなんて分かっていたが、慰め方までここまで常軌を逸しているとは。
けれどそのおかげで頭がスッキリした。失ったものは取り戻せば良い、確かに男の言う通りだ。
やらなければいけないことは初めから何も変わらない。自分がぶれてどうする。
父の刀を穢した奴らには報いを受けさせる。そして父の誇りを取り戻す。
それだけのことだ。
気力を取り戻したチヒロの姿を見て男も安心したのだろうか、良く出来ましたと言うようにチヒロの頭を優しく撫でた。大好きだった父の手とは違うものだけれど、今はその手を静かに受け入れられた。
少し着替えてくると男は席を外し、一人残されたチヒロは、深呼吸するようにゆっくりと息を吐いた。
男が戻るまで、なんとはなしに佇んでいると、ふと、風を感じた。
どこからだろうと視線で探ると、廊下の奥の蔵の扉がわずかに開いているのが見えた。珍しい。
鍵はなくても男は常にあの扉はきちんと閉めていた。慌てさせてしまったのだろうか、だとしたら申し訳ないことをしたと思うと同時に、男にもその様な一面があるのかと思うと少し微笑ましく思った。
入るなと言われてはいるが、扉に触るなとは言われていない。閉めるぐらいなら構わないだろうと、扉へと近づく。
いつも蔵の方からは錆の匂いが微かにしている。古い建物だから当たり前のことだ、今まではそう思っていた。けれども隙間から漂う臭気は想像よりも随分と強く感じる。男は普段からこんなところで仕事をしていて気分が悪くならないのだろうか。チヒロはこの匂いはあまり好きではない。
だって、この匂いは父が死んだ時の…そこまで思い返して、チヒロはハッとした。
落ち着いたと思っていたが、まだ事件のことで神経質になっているようだ。チヒロは慌てて扉を閉めた。蔵の換気をもっと頻繁にするように後で男に文句を言ってやろう。男の不摂生のせいで気分が悪くなったのだと。
チヒロは扉から目を逸らした。けれどもそれは、今までのように気にも留めていないからではなく、チヒロ自身が意図して目を背けたものであった。
事件後にチヒロが初めて登校すると、被害者が暴力団員ということもあって、チヒロには同情的な声が集まっていた。全く陰口がないという訳ではないが、少なくとも同じクラスの人間に露骨な嫌悪感を示す者はいなく、つくづく自分は人に恵まれていると感じた。
「■■、大丈夫か?って大丈夫なわけないよな」
「いや、大丈夫だ…みんなにも気を使わせて悪いな」
友人も随分と心配してくれていたようだ。休んでいた間のノートなどを写させてくれたり、今まで以上に積極的に話しかけてくれるなど、何かにつけて気を遣われてるのが如実に感じられる。
申し訳なさと同時に、こそばゆいような嬉しさもあった。
だから、友人が心底安堵したように続けた言葉を理解するのに少し時間がかかった。
「でもさ、正直言って■■が■■で良かったって思ったんだ」
「…?」
「俺、電車通勤だろ?ニュース見てる奴らが六平の息子もどうせ碌な奴じゃないとか、見つけたら晒してやろうぜとか、すげえ好き勝手言ってんの。六平のままだったらそういう悪意に晒されてたんだろうなって考えると、■■が■■って名前に変わってて良かったって本当に思う」
「……ああ、そうだな」
お義父さんがいてくれて本当に良かったな、と笑う彼に自分はきちんと笑顔を作れていただろうか。
奪われて失ったものは取り戻せば良い。
けれども、自分の意志で捨てたものはどうだろうか。自らの意志で選んでおいて、失くしたそれに憐憫を感じることはひどく傲慢なことだ。
だから自分は進まなければいけない。後戻りはしないと決めたのだから。
暑い夏の盛りの日曜日、今日は父の命日だ。
去年が三回忌だったため、大きな法要は次の七回忌まで日が空く事になるが、チヒロは納骨を今年に行うことにしていたため、今日は柴と二人で父の骨を納める墓を訪れていた。
なぜ、柴との二人だけかというと、チヒロの養父となった男は一昨日から1週間の予定で海外出張中のためだ。随分とタイミングが悪いとは思ったが、仕事ならば仕方ない。
柴は世話になったと言う割には随分と薄情だと文句を言っていたが、では一緒に墓参りをしたかったのかと尋ねてみると口籠もっていたので、今ではチヒロよりも柴の方があの男を苦手に思っているようだ。
因みに薊は当然のように休日出勤を命じられているそうで、あちらもあちらで大変だなと同情した。
何事もなく納骨式を終えて、父の墓前に手を合わせる。柴は墓を見つめながらぷかりとタバコを燻らせていた。静かな時間が流れて行く。
「……父さんは、今の俺のことを見てどう思ってるんでしょうね」
「そりゃ、立派に成長したチヒロ君のこと嬉しい思とるし、なんやったら周りの奴らに自慢しとるんやないか」
立派か、とてもそんな風には思えない。いつも迷ってばかりだった。前に進むと決めたのに後ろを振り返って、自分の進んできた道を確かめてしまう。この道を選んで良かったのだろうか、信念を貫き通すために捨てたものは間違っていなかったのだろうかと。
それでも、自分の中に渦巻くそうした全ての感情をチヒロが前に進むための糧として、もがき続けて進み続けてきた。
だからこそ、今のチヒロが存在する。そうして、チヒロは柴に問いかけた。
「柴さんは、父さんの作った刀についてどう思ってますか」
「そんなもん今も昔も変わらん、国重の作った刀はいつだって最高のもんや。だから、それを使うて馬鹿な真似する奴らは許さへん、絶対にや」
何の躊躇いもない真っ直ぐな言葉だった。不安になったから問い掛けたのではない、柴なら必ずそう答えると分かっていた。
柴はずっと父を殺した奴らを探し続けていた。チヒロと病室で約束を交わしたあの時から。
一ヶ月が経ち、半年が経ち、一年以上経っても犯人の手がかりが掴めない状況を何度も謝られた。自分だってどうしようもなく苦しいはずなのに、いつもチヒロを気遣い励ましてくれた。
そんな中で父の刀が人殺しの道具にされて、傷ついたのは柴だって同じはずだ。いや、チヒロよりも父との付き合いが長い柴の方が、より哀しみも怒りも深かったに違いない。
それでも柴は一度たりとも、チヒロのような迷いは見せなかった。柴が大人で、チヒロが子供だからと言う訳じゃない。
強い人だからだ。どんな状況になっても自身の信念を貫ける、強くて優しい人。
「それでなチヒロ君…チヒロ君は国重の事件のことどうしたい思とる?今までは子供やからて俺らに任せるよう言うとったけど、チヒロ君ももう大人の仲間入りや。自分の手ぇでなんとかしたい言うなら俺ら、あ~~、薊はまだ早い言うかもしれんけど、ともかく俺らも手ぇ貸したる…どないしたい?」
そうして、柴はチヒロに甘い人だ。柴だって本当はまだチヒロには動いて欲しくないと思ってるはずなのに。チヒロの想いを汲み取って、苦い顔をしながらもそれを許してくれる。
「父の刀を穢した奴らには報いを受けさせ、父の誇りを取り戻す。それが俺の望みです」
「せやな、チヒロ君ならそう言うに決まっとるな…あ~失敗した、大人や子供や言うんやなかった。なんでチヒロ君の時になったら大人が十八歳になっとるんや。おかしいやん、俺らが十八の時なんかめっちゃガキやったっちゅうのに」
「俺にとっては喜ばしいことです」
「それに、あの男の養子になったっちゅうのもやっぱ納得出来へん。チヒロ君が六平の名ぁ名乗れへんのもムカつくし、美術商なんていつ犯人と繋がりが出来るか分かれへんのやで」
「そのためにあの人の養子になったんですから」
「あ~もう、そない無茶されるといつまで経っても心配するやん。やっぱり大人も子供も関係ないわ、チヒロ君が事件の手がかりを掴んだ時には必ず俺に報告すること。約束して欲しい、ええな?」
「はい、もちろんです」
「本っ当に気持ちええくらいの空返事やな!?」
「冗談ですよ。ちゃんと相談すると約束します」
約束やで、と指切りげんまんまでされてしまったが、柴はチヒロが本気で言っていることに納得してくれたようだ。
「それじゃあ、そんな成長したチヒロ君には成人祝いせんとな」
そう言って柴が鞄から取り出したのは、片手に収まるほどの小包だった。
柴にその場で開ける様に促され、渡された小包みを紐解いた。中から出てきたのは黒と赤を基調にしたシックな色合いの万年筆だ。
「これ、俺の色に合わせてくれたんですか?」
「そりゃまあ、せっかくのお祝いやしな」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」
チヒロは早速、制服の胸ポケットにもらった万年筆を挿してみた。
よう似合うとる、本当に嬉しそうに目を細める柴の姿にこちらも照れてしまう。
「ずっと、ずっと大切にします。本当にありがとうございます」
「こちらこそ、ほんまにありがとうな、チヒロ君」
何に対する礼なのかは聞かなかった。柴の慈しむように見つめる視線がこそばゆくて堪らない。
照りつける日差しの中、胸ポケットの万年筆が陽の光に反射し、キラキラといつまでも煌めいていた。
帰りは柴が家まで送って行くと言ったが、どうにもチヒロにかまけて自身の仕事を先延ばしにしている気配があったため、帰りは電車で帰って路線を確かめたいと言ってチヒロはそれを断った。柴は随分と名残惜しそうにしていたが、これはこれ、それはそれだ。
しかしタイミングが悪く、次の電車が来るまで少し時間があったため、近くを歩くことにした。すると、思いもかけぬ姿を見掛けた。
「父の仕事の付き合いで近くまで来てたんだけど、急用が入ったからタクシー呼ぶなりして帰れって追い出されてね。■■君こそこんなところで、休みの日だっていうのに制服まで着て…いや、そういえば今日だったね、悪かった」
出会ったのは高校に入った時から付き合いのあるチヒロの友人だった。
「ちょうど墓参りも終わったところだ。謝ることじゃない」
「そっか、それなら良かった…こんな風に会ったのも何かの縁だ、ちょっと歩かないか?」
「ああ分かった、付き合う」
次の電車は逃してしまうだろうなと思いつつ、チヒロは彼の誘いに乗った。何より友人がチヒロと出会った時から少し思い詰めているような様子が気になった。
「なあ、たまにはゲーセンにでも入ってみないか?」
「……分かった」
しばらく取り留めのない会話を続けていると近くに見えてきたゲームセンターに誘われた。
今までこの同級生にゲームセンターに誘われたことは無かった。彼は表向きは品行方正に努めていたし、チヒロにもそれを求めているきらいがあった。しかも今のチヒロは制服姿だ。
彼の常とは違う行動に、束の間チヒロは彼に着いて行くか迷ったが、結局は友人と共に行くことにした。
ゲームセンターの中に入ると、かなり騒々しく、隣を歩く彼の声も途切れがちになるほどだった。チヒロは仕方なく、彼の方に顔を寄せた。
「悪い、うまく聞き取れない。もう少し声を大きくしてくれないか」
「君は、…君の養父のことをどう思っている?」
「…変わった人ではあるが信頼出来ると、……待ってくれ、俺の父のことに関わりがある話か?」
先ほどまでの世間話と全く関わりのない上に、周りの声が聞こえない、裏を返せば自分達の声が周りに聞こえない状況になってから投げかけられた質問。
おそらく彼はこのことが話したかったのだ。チヒロは男の最近の印象を素直に述べたが、彼の諦念に似た表情に慌てて言い募った。
「頼む、何か知っていることがあるならどんなことでも教えて欲しい」
「……だったら、俺が今から話す内容は誰にも話さないでくれ。もちろん君の養父にもだ。頼む」
「分かった、約束する」
そうして、チヒロの友人は語った。
いわく、今、チヒロ達が住んでいる家は友人の父が経営する不動産会社を通して男が買ったものであるということ。そして、その売買に父の刀で殺された暴力団が地上げ屋として関わっていたことを偶然知ったというものだった。
「僕の家だって完全に白い経営をしている訳じゃないからね。地上げ屋を使った取引がいくつもあるのは知っている。特にあいつらは僕たちが住んでいる地域の地上げを主なシノギにしていたから、偶々そこを君の養父が買ったというのはあり得ない話じゃないんだ。だけど……」
そこで、彼は言い淀んだが、チヒロは視線で続きを促した。
「だけど、僕が夜中に父の社長室に忍び込んでた時…理由は聞かないでくれ、こっちにも色々あるんだ。ともかく、忍び込んでた時に思いがけずその資料を見つけて焦っていたら、父が扉の鍵を開ける音が聞こえた」
慌てて彼は机の物陰に隠れたが、書類を取りに帰ってきたとしたら一発で見つかる場所で、生きた心地がしなかったという。窓に反射する姿で、部屋に入ってきたのは最悪なことに彼の父とチヒロの養父だということも分かった。
仕事の密談であれば尚のこと、ここにいることがバレるとまずいと身を縮こまらせていたが、幸い彼らは彼の隠れている机のところまでは来なかった。彼としても下手な情報はこれ以上聞きたくないと耳を塞いでいたが、どうしても声は漏れ聞こえてきた。
『あの件のことを黙っていてくれたのは大変助かった。こちらとしても痛くもない腹を探られるのはあまり気分の良いことではないからな』
『えぇ、えぇ、■■様の云う通りです。私共もこんなことで■■様のお役に立てるなら幸いですとも…ですが、その、後々警察のガサ入れがあったりなどは』
『言っただろう?痛くも無い腹を探られるのが不快だったからだと。何も心配することは無い』
『ははっ、そうですよね私としたことが何を当然のことを……あ、その、少々慌てて出て来てしまいまして、お見苦しい状態で申し訳ありません。すぐに片付けますので、しばしお待ちいただけますか』
ここで彼はぎくりと身体をこわばらせた。父は彼が隠れている机に向かっている。このままであれば確実に見つけると覚悟した時、
『いや、構わない。それよりも、今日は色々と付き合ってくれたお礼をさせてもらいたい。今からどうだ?』
『そんな滅相もない、…いや、失礼しました、是非ともご一緒させてください』
『ありがとう、では行こうか』
そう言って二人は出て行った。チヒロの養父が出て行く瞬間、彼と視線が合った気がした。けれども後日、父からその夜のことを言われることは無かったため、緊張した自分の思い違いだと考えた。
「これが君に話したかったこと。悪いけど、決定的な何かを聞いたわけじゃない。僕が会話の中から勝手に君のお父さんの事件を想像しただけで、本当は何の関係のない話だったかもしれない…」
「だけど、こうして俺に話してくれた」
「友人だからね。最初は父さんに言われたからだったけど、君はその、良い奴だったから」
「ありがとう」
「念を押すようだけど、これをきっかけに君の養父を疑ってほしくて話した訳じゃない。君があの人のことを信頼しているなら尚更だ。無責任なことを言って悪いけど、正直、話してしまって肩の荷を降ろしたかったというのが本音だ」
「分かってる、大丈夫だ」
彼はほっとしたように息を吐いた。確かに彼の話の中の男はいささか怪しい振る舞いをしているが、あれだけの羽振りだ、それなりに危ない橋も渡っているのだろう。
チヒロの脳裏に蔵の扉が過ぎったが、それでも考えすぎだと頭を振った。
チヒロの落ち着いた様子に安堵した友人は、その胸ポケットの万年筆に目を留めた。
「それ、ペリカンだよね、すごく良いやつだ。君の養父から?」
「いや、亡くなった父の友人から成人祝いにって」
「そっか、…大切にされてるんだね」
「ああ、とても。こっちが申し訳なるくらいに」
それから、本当に世間話をして、ゲームセンターを出たところで彼とは別れることとなった。
「大丈夫か?その制服だと鴨だと思われて絡まれたりしないか?僕が誘ったんだし、タクシーぐらい呼ぶよ」
「いや、そこまでしてもらわなくても」
「どうせ父から金はもらってる。僕のお金じゃないから安心して欲しい。それにさっきのゲーセン、新しい筐体入ってたからやってみたいんだよね」
「もしかして、結構出入りしてるのか?」
「何事にも息抜きは必要だからね。学校や家には内緒にしておいてくれよ」
「ああ、分かった」
タクシーが来るまで、彼のおすすめの格闘ゲームの話を聞いた。
「■■君、また明日」
「ああ、また明日」
互いに挨拶をし、チヒロはやってきたタクシーに乗り込んだ。動き出したタクシーから後ろを振り返ると、微笑みながら手を振る友人の姿が見えたが、それもすぐに消えた。
…だからチヒロは気付かなかった。チヒロを見送った友人が改めてゲームセンターへと入っていった時、そっとその背を追う人影があることに。
チヒロが家に着いた頃には、だいぶ陽が傾いていた。柴からもらった万年筆は、一度仕舞っておいた方が良いとは思ったが、なんとなく名残惜しくてそのまま胸に挿しておいた。
チヒロは椅子に腰掛けたままぼんやりと家の中を見回した。
そうすると、やはりチヒロの視線が行き着くのはあの蔵の扉だ。友人の話が頭にこびりついている。なんの根拠もない話だ。それでもずっと頭に引っ掛かっている。
しばらくあの男は帰ってこない。チヒロがあの扉を開けたとしても分からないのでは、いや、あの男のことだ、防犯カメラくらい仕掛けてあるだろう。
そこまで考えて、チヒロは頭を振った。結局、蔵のことばかり考えてしまっている。あの時、血の匂いをあの扉の奥から連想した時からだ。
ひどい妄想だと自覚はしている。けれど、どうにもあの時感じた不安感が今更ながら湧いてくる。
あの時、男はあんなにもチヒロに寄り添ってくれていたじゃないか。
そう思い返した時、バチリとチヒロの頭の中で電気が走った気がした。
あの時、男はなんと言っていた。
(この傷もお前が父を最後まで守ろうとその身を呈した結果だ)
どうして男がそれを知っている?
チヒロはあの事件の夜、家の外で発見された。チヒロの最後の行動は柴にだって話していない。
犯人しか知らない筈だ。
男の発言は思い込みや言い間違いの可能性だってある。けれども、チヒロはふらふらと引き寄せられるように蔵へと足を向けた。
蔵の扉に手を掛ける。物語の結末は思い出せないままだ。けれども扉を開けた者は真実を知った。チヒロもこの扉を開けば真実を得られるかもしれない。例えそれが相応の代償を払うことになったとしてもだ。
自身の心臓の音がドクリドクリと耳鳴りがするくらいに鳴り響いている。
そうしてチヒロは、……ドアノブに伸ばした手をそっと降ろした。
柴と約束をした。事件の手がかりを掴んだ時には必ず柴に報告すると。だから、今の自分の為すべきことはこのことを柴に伝えることだ。
心を鎮めるように一度大きく息を吐き、柴に電話をかけようとしたところ、ポケットに入れていた携帯が柴からの着信を伝えた。
あまりのタイミングの良さに驚きつつも、ちょうど良かったと通話ボタンを押そうとした時、
「開けないのか?」
声が掛けられた。
ここに居るはずの無い男が廊下の向こう側に立っていた。
陽が翳り、男の表情は窺えない。けれどもきっと男は笑っている、男を見つめたまま一歩も動けないチヒロをその視線で捉えたままで。
「どうした?ずっと気になっていたんだろう」
男は家の中だというのに革靴を履いたままだ。ゴツゴツと響く音を立ててゆっくりとチヒロの方へと近づいてくる。
「全く、色々と餌は撒いたつもりだったんだがな、中々食いつきが悪くて困ったものだ」
(普通、中坊が家事出来るって思わねえだろ?)
(この傷もお前が父を最後まで守ろうと)
(血の匂い)
(視線があった気がしたんだけどね)
今までの男の振る舞いが一気にチヒロの脳裏を駆け巡る。
「な、んで…」
「千鉱、青ひげは何故妻に禁忌を課し、その禁忌をいとも簡単に破れる状況を作ったのだと思う?禁忌を破られれば、青ひげ自身が窮地に陥るにも関わらずだ」
男はチヒロの疑問に答えることなく、勝手な問いをチヒロに投げ掛ける。
「そうだな、それでも青ひげは見たかったのだろう。何が隠されているのかを気付きながらも必死に目を逸らして、恐怖に囚われて苦悩する様を…なあ千鉱、お前はどう思う?」
ついにチヒロの目の前まで迫った男は、正しく恐怖に染まったチヒロを見つめながらさらに問いかけた。
「……なんで、」
「物語では妻は扉を開けながらも助けが間に合い間一髪難を逃れた。では、今のお前はどうだろうな。お前の友人から話を聞き出し、今まさに必死に電話を鳴らし続けているあの探偵は間に合うと思うか?」
男は固まったままのチヒロの手に自らの手を這わせ、鳴り続ける携帯を握りしめるチヒロの指を1本ずつ丁寧に引き剥がした。ゴトリと音を立てて携帯が床に落ちる。
その音にチヒロは今更ながらも我に返って、身を捩って男から逃れようとしたが、あっさりと扉へと押しつけられてしまった。
「何で、何でこんなことを!?」
「箱庭で美しく大切に育てられた穢れを知らない存在を地獄に引き摺り込むのは、他のどの感情にも勝る快感だとは思わないか?」
男は笑っていた。ああ、これこそが男の心からの笑顔なのだ。男はさらに笑みを深めながらチヒロに囁いた。
「やはり子供だな。ほんの少し心を開いたように見せれば、あっという間に腹を見せる。流石、箱庭で大切に育てられてきただけはある」
カッと顔が熱くなる。決して真っ当な関係ではなかったが、チヒロは男のことを確かに信頼していた。信頼し合えるようになったと思っていた。その感情すら男の掌の上だったのだ。
このような男をいっときでも信頼した愚かな自分に眩暈がする。
なんとか男の拘束から逃れようと、チヒロはがむしゃらに暴れたが、男はそんなチヒロの努力を嘲笑うように腕に力を込めるだけでそれを制した。
しかし、チヒロはそれを見越して男が力を込めた瞬間に、全身の力を抜いて男の腕に自身の体重を一気に掛けた。流石に男の拘束が緩む。
チヒロは男の拘束が緩んだ瞬間、胸ポケットに挿していた万年筆を握り締めた。そして躊躇せずに男の手の甲に突き刺した。流石に貫通はしなかったが、男の手から血が溢れ出した。だというのに男は嬉しそうに口角を上げたままだ。
「…狂っているのか」
「この現状でそうでない可能性が?」
馬鹿なことを口にした。そうだ、当たり前だ。男のしてきたことは全て狂っている。
チヒロの人生は、いや、父の人生はこんな男に狂わされたというのか?
……認めない。
こんな男に父の矜持を、父自身を踏み躙られたまま終わってやるものか。
狂っているのはお前だけだと思うな。
「どうした、もう何も言うことはないのか?」
男は黙り込んだチヒロの顎を掴んで強制的に目を合わさせた。男の手から滴る血が真っ新の万年筆をドロドロと汚していく。更に流れ続ける血はチヒロの首元をぬるりと伝い、その感覚に吐き気がする。
けれどもチヒロは顎を掴まれたまま男を睨みつけた。男の目にチヒロの顔が、その傷が映り込む。何のためにこの傷を残した?忘れないためだ。父の最期を、あの時の悲しみも絶望も全てだ。深紅の瞳に激情を宿したチヒロに男が目を細める。
「勘違いをするな!お前が俺を地獄に引き摺り込むんじゃない…俺がお前を地獄に引き摺り込むんだ!!」
そう言ってチヒロは後ろ手にドアノブを回し、あれほどまでに恐れていた扉の中へと勢いをつけて男を引き倒した。
男がここでチヒロを殺すというのなら、おそらく今のチヒロに勝ち目は無い。
けれども、もしも、男がまだチヒロを生かす気があるのなら、そうであるのならば、男がチヒロに用意した地獄への道を男と共にどこまでも堕ちていってやろう。
逃げはしない、逃がしはしない。
男の心底嬉しそうな顔を目に焼き付けながら、チヒロは男と共に暗闇の中へと身を投じた。
刀の呪いは何処まで続く?
そんな見出しのニュースが世間を騒がせた。7月初めにあった六平国重の刀による殺傷事件が解決していない中、残された国重の子供とその養父が突如として姿を消した。現場には養父の血のついた万年筆だけが残されていたという。二人の周囲の評判は芳しく、事件に巻き込まれてしまったに違いないと嘆く声や、安否を気遣う声が多く聞かれた。
そうして、その失踪事件から幾許も立たない内に、またしても刀による殺傷事件が繰り返された。けれども、以前の事件とは異なる点もあった。
殺された者は暴力団のトップを含む構成員たちであったが、容赦無く切り殺された死体が転がる中で、綺麗に拭かれた六平国重の刀が中央のテーブルに鎮座していた。
後の警察の捜査で、最初の六平国重の刀による殺傷事件はこの暴力団が関与していたことが分かった。警察は今回の殺傷事件は内部分裂によるものだとして捜査を進めているが、まるで幽霊を相手にしているかのように、手掛かりは掴めなかった。
真相を知ることのない人々は口さがなく噂する。殺された国重の怨念が刀を使って復讐をしているのだと。はたまた、暴力団を一掃するための政府が仕掛けたプロパガンダだと。
独自に調査を進めた者もいたようだが、その後も六平国重の刀による殺傷事件は度々起き、失踪した二人のその後について、ついぞ知る者はいなかった。