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「油断しないでね、と言うかあれを目前にしてそれはいやでもできないだろうけどね」
八幡は張り詰めて息をすることさえやっとのことのこの空気の中微かな笑みを浮かべた。
あの亀はそれまでとはまるで違う、闘気を剥き出しにして、その焼かんとする視線で僕を捉えて離さない。しかし何かがおかしい。可笑しいんじゃない、不可思議なんだ。足がすくんで、体が萎縮しまいとしているはずなのに、自分の心の底、深い所で、まるで恐怖に関する感情が湧かないのだ。一歩でも動けば、いや眉をほんの僅かでも動かそうものなら、首が落とされる程の怒気を徐に浴びせられているというのに。
「愚か者が、私に反しようと言うのか、方角がそうなだけであって、調子に乗るでない、ましてや御前の前で」
脳内に、体の芯に声が響き渡る。聞いたことがないのに、体がその声を懐かしんでいるような奇妙な感覚に襲われる。
「貴様に申しておるぞ、阿呆鳥が」
亀が足を踏み出した。瞬間、突風が吹き荒れ、大地が揺れ、僕達を吹き飛ばす。
「ますざわ」
何ができるわけでもないのにそう叫ぶ。八幡が身を呈して升沢を庇う。僕は近くの柳の木に引っ掛かった。地面に対し仰向けで宙吊りにされている情けない体勢だった。一歩踏み出すだけで、地を揺るがすこの妖怪、これを祓うだって、何を考えてる八幡。亀がいつの間にか僕の真下に居る。言うまでもないが僕はこいつから目を離していない。この状況でそんなことができるのは、これを祓おうとする八幡くらいだ。現に八幡は既に体勢を立て直している。瞬間空を包んでいた闇がこの街の中心に吸い込まれていく。つまるところ、八幡神社の真上に当たる。暗かった空は、沈まんとする夕日の決死の光に照らされ、赤く色づいている。しかし依然として緊迫する空気は終わりを知らず。あてもなく吹く風がより一層荒くなっていた。見る限り、緊張しているのは亀の方もらしい。
「この童(わっぱ)、先刻は自身に重りをつけ私と相対そうとしておったか」
亀は感情を抑えられないでいる。八幡は嘲笑うように言う。
「出し惜しみはしておくものだろ」
「解せぬ、鳥と小僧が私を退治しようなど、甚だ無謀な」
「分からないかな、亀さん。僕は今結界を閉じるのと同時に圧縮もしたんだよ、あんたが感情任せに放ったものも」
八幡はその場の気圧でも掌るかのように僕を含めその場に在るものを縮こませる。
次の瞬間起きた出来事を語るのに僕の経験と知識で足り得るだろうか。何も無かったはずの場所に突如として青白く光る球体が出現した。その眩い閃光は現状の闇を照らすようだった。形は安定しておらず木星型惑星のようなガスの塊周りみたいだった。最初は空気が集まっていたからプラズマか何かだと思ったが、その予想は瞬間的に覆される。それは爆散した、さらには一点に集中し始める、そう亀の元に。当の亀は逃れようと動こうとしているが、どうもそれは叶わないらしい。亀は地面に固定されたかのように、曲がるはずない腕を倒して這いつくばっていた。そして僕らの周りを包む微量の電気が常に走っていたような空気が段階的にではなく瞬間的に消える。
その閃光達は何の躊躇いもなしに、亀の善悪を判断する間もなく、亀を討ち滅ぼさんと直撃する。立ち込める爆風が僕たちのしている行為の確かさを薄れさせていく。善悪の判断を出来るほど僕は偉い立場なのか、いや、偉いからといって他人の判断なんて横柄なことはできない。煙の中から、おぞましい威圧が突き抜けてくる。黄昏に近い感情は不幸にも飛行機に張り付いてしまった羽虫のように呆気なく消えてゆく。
「私を攻撃する事に良心の呵責を覚えた事は褒めてやろう。しかし私に反乱の意思を向けた時点で、お前は万死に値する。とは言ってもお前は」
激しい猛攻の被害者が淡々と傲慢さを口から垂れ流し続けるので呆気に取られてしまう。八幡は知っていたかのように食い気味に喋り始める。
「これは僕の持論なんだけど、けじめは自分でつけるからけじめなんだよ、自分でつけないものはただの外道の所業だと思ってる、蕪木くんは外道とは思はないし亀さんも現状を理解できないほど馬鹿じゃないだろ」
亀は八幡が例のようにする鼻笑いをした。
「面白い趣向を持った陰陽師だな、まさか陰の者に、肩を持つとは。最も、私たちは人間に陰と区別され、人間が陽とされているが、己を表だと信じて疑わない様はかたはらいたい、陰陽説は納得する意義も含むが、都合が良いといえば都合が良い」
八幡は一二歩僕に歩み寄って、ポケットに手を突っ込んだ。この場でよくそんないつも通りなことが出来るな。いや、いつも通りが奇行になるこの事態が異常なのだ。八幡は僕に言った。
「蕪木くん、君にはまだやるべき事が残っている」
「そうなのか、しかしそれを聞く前に僕のこの寺子屋で法度でも犯した子供のような体勢をどうにかしてほしい」
「愚か者はその体勢が良いだろう、その方が、
あの時の愚行を思い出せるであろう」
亀が喋り出した。愚か者か、確か誰かにも同じ事を言われたような気がする。そう思うと、自信を無くしてしまう。落とす肩もなくそう落ち込んでいると、八幡は狂った事を言い出す。
「蕪木くん、どうやら君が思い出すまではその方が良さそうだ」
「何を言って」
僕はあまり運動ができる方ではないので、そんなことを言われてしまうと、どうすることもできない。八幡は落ち着いてこう言った。
「言っただろう、この地域には亀さんの被害者が複数いるって」
八幡の言っている事は僕には全貌は理解できない。やはり僕は愚者、愚か者なのだろうか。僕がそれがどうしたと言わんばかりに目を丸くしていると八幡は言った。
「蕪木くん、僕はてっきりこの状況に結構慣れてきているものだと思ってたよ。その様子だとどうやらそうでもないみたいだね」
僕自身もてっきりこの異常に多少なりとも慣れてきているものだと思っていたけれど、今そうでない事を理解した。僕は八幡の発言に納得したような顔をしていると、八幡はため息を交えて言った。
「いいかい、大事な事を言う。余裕がある訳じゃないから、要点だけを述べさせてもらう。君は過去や、未来に何か特別な事を抱いているんじゃないか」
決めてかかった言い方をするので、不満そうにしてしまう。しかし、今の話を聞いて、胸を張ってそんな事は断じてないとは言い切れない。そう思ったがそれは案外普通の事だ。人間の記憶というのは絶対じゃない。僕は頭を巡らす。愚者の頭を。過去に起きた事、例えば、小学生の授業参観で、僕だけ親に伝え忘れて親が来なかったという話か。小学生、小学生じゃない、中学生だ。中学生、川、学ラン。
泣いている男の子。川の、水の音が鼓膜を振動させる。八幡は言う。
「来たようだね」
何がと僕は思ったがその疑問はすぐに晴れた。
何故なら、そこにはいたのだ。階段を駆け上がって来る、学生服の少年。僕は思わずこう言った。
「何忘れてるんだよ」