テラーノベル
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心が削られて行くような時間を過ごし、気が付けば、時計の針は午前0時を越えていた。
やっと帰ってきた自宅マンション、その玄関を開くと、自分の家の空気感にホッとする。
ソファーに吸い込まれるようにクッタリと身を預けた。すると、健治が床に膝をつき、私の目の高さで話し掛けてくる。
「美緒、お風呂どうする? 貧血で倒れたばかりだから止めておくか?」
「んー、明日の午前中は仕事だから顔を洗って寝る」
出来れば、このまま目を瞑り眠り込んでしまいたいほど身が重い。
心も体も疲れ切っていた。
「仕事、休まなくて良いのか?」
健治の手が伸び、私の首筋に添わす。それは、そっと包むような触れ方で私を心配している事が伝わった。
でも、今はその優しささえも、作られたもののように感じてしまい、健治の手から逃げるように身をよじらせた。
「感染症でも無いし、仲間に迷惑かけられないから、半日だけだし、頑張るよ」
「美緒が帰ってくるのを、待っているよ。話をしよう」
「うん……わかった」
眉尻を下げ心配そうに覗き込んだ健治は、何かを言いたそうにしていた。でも、それは言葉として発せられる事が無く、健治は所在なし気にリビングから出てバスルームへ向かった。
明日、仕事から帰って来て健治と話をする。
健治の事はまだ好きなのに、信じる事が出来ない。
健治との将来が、見えなくなっている。
このまま健治と結婚生活を続けて行くのか、離れて行くのか、自分の心が定まらない。
朝、目覚めると、横に並んだシングルベッドには健治の姿はなかった。
もしも、健治と別れたら朝起きた時、いつも一人なんだ。と、ぼんやり考える。
リビングルームの方でコトコトと人が動いている気配を感じた。
通勤着の白のカットソーとグレーのスラックスに着替えて、顔を洗いに洗面所へ向かう途中、リビングからコーヒーの良い匂いが漂ってくる。その香りの誘惑にリビングのドアを開けた。すると、朝の光が降り注ぐリビングで健治が柔らかい笑顔を向ける。
「おはよう。具合はどう?」
「うん、どうにか。……顔洗って来るね」
「コーヒー入っているよ」
「うん、良い香りがしてる」
その言葉に健治は安心したような表情を浮かべた。
自分の気持ち次第で、この笑顔を見られなくなるかもしれないんだ。笑顔だけでなく”おはよう”と、日常の挨拶を交わすことも無くなってしまうのかも……。
そう思と、胸の奥が切なく痛んだ。
「仕度してくるね」
洗面所で顔を洗い。化粧水・乳液を付けて、ファンデーションとアイブロウ・アイライナーだけの簡単メイクをする。
医療従事者として、人に不快感を与えないような最低限のものだ。
メイクをしなくても ”いい年した女がノーメイクなんて” と言われるし、バッチリメイクをすれば、”不潔”と言われる。
鏡に向かってメイクをしていると、昨日の果歩の様子を思い出してしまう。
綺麗に施されたメイクも整えられた爪も女性として完璧だった。自分では到底敵わない。
果歩と不倫をしている健治を許せないと思う一方で、まだ健治を好きで別れたくないとも思ってしまう。
朝から感情の浮き沈みが激しくて、落ち着かない気持ちを持て余している。
鏡に映っている優柔不断な自分に向かって、イーッとして、気合を入れるように頬をパチンと両手で叩く。
そして、健治のいるリビングへ向かった。
「ほら、ちゃんと食べて仕事に行けよ」
目の前にプレートが、コトリと置かれた。そのプレートの上には、野菜のサンドイッチとカットされたオレンジが添えられている。カップスープは、あさりとワカメ。デザートにプルーンヨーグルト。そして、ミルクたっぷりのコーヒーも添えられた。
「コーヒーは、貧血に良くないだけど、ミルク入りでオマケな」
と、健治は茶目っ気たっぷりに微笑む。
私の体調を気遣ったメニュー。鉄分やビタミンCやビタミンB12が含まれているモノがチョイスされている。きっと、私が寝ているうちにコンビニまで行って、色々と買い足してくれたのだろう。
「いただきます」
「美味いか?」
「うん、美味しいよ。ありがとう」
「良かった」
そう言って、健治はふわりと微笑む。
そんな健治に「何を考えているの? 私と、この先どうしたいの?」と問い掛けたくなる。でも、今は、仕事にいかなくちゃいけない。ミルクたっぷりのコーヒーと共に問い掛けたい言葉を飲み込んだ。
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