あれから半刻ほど経ったが、男はなかなか目を覚まさなかった。
先程まで唸りながら倒れ込んでいた男も、いまは静かな吐息を漏らしながら寝ているようだった。ふわりと畝っている髪が、彼の瞼を隠している。だが僅かにチラついて見える睫毛も、整っている顔も、何もかもがこの世のものとは思えぬほど綺麗で、見惚れてしまう。もしかしたら、いつかこの男の頬は熱を失くし、触れても石のように硬くなってしまうかもしれない。それなら余計と、この男の綺麗な横顔をずっと近くで見てみたいと願った。──そしてこの不可思議な夢が醒めてしまえばいいと思うのも、おれのひとつの願いなのかもしれない。
「……すげェな。世の中こんな奴がいるんだ」
こんなにぐっすり寝ているのなら、もう大丈夫だろうと思い、おれは音をたてぬよう立ち上がる。そして洗面所へと向かおうとした。
───グッ
何かが手首を掴んだ。
「?」
肌から直接じんわりと伝わる熱は、徐々に増していく。男がおれを掴んで離してくれなかった。もしもおれから離れようとしても、それは多分無理だった。「 行かないで」と言わんばかりに引き止めたい一心で、おれの手首を掴む力を強めていたからだ。そうして、その手が震えていることも、おれはすぐに分かった。
「…もう大丈夫なのか?」
小さく頷くと、男は火照ってる自身の顔を大きな手で覆い隠すようにして埋める。
「……すみません、迷惑をかけてしまって。申し訳が立たない…です」
なぜか理不尽ながら、男の敬語に少しの苛つきを覚えた。
「それうぜェ」
「えっ?あァ…。そ、それはすみません?駄目なとこ、直すので、仰ってくれれば……!」
「それだよ!その敬語がうざいっつってんだ」
「ひぇ、すみま。んん、ご…ごめん」
やはりどこか、おどおどしたような短調な喋り方が残っている。どうにかして、敬語を外させたかった。だがそんな、自分勝手な考えを突き通そうとすれば、隣人という立場を壊してしまうような気がする。それでも、その着飾りを引き剥がしたくなった。
「ごめんなさい。おれは他人にタメ口とかは慣れないんです。あ、慣れなくて」
「……やっぱり忘れろ。おれも、言いすぎた」
「あっ、全然大丈夫です……だよ!」
その慣れなさそうに使う標準語と、敬語の混じった言葉に、先程まであった苛つきなんて消えてしまい、それと同時に真反対な感情が勢いよく湧き上がってくる。
「ふっ」とそれは無意識のうちにだった。
「…ははっ!あはははっ」
おれは堪えきれずに声を上げて笑った。
「へ、え?ん?」
男は不思議そうに口をポカンとあけて間抜けた顔で、おれを凝視したまま固まっていた。
それが一層面白く思え、おれの笑いは止まらなくなってしまい、この空間はずっと熱で溢れかえった。
「はァ。久しぶりに爆笑したわ」
「かっ、あ、えェ…」
男の顔は真っ赤に染まり、また手で顔を覆った。
「うぅ、恥ずかしい。…えェと。お名前は?」
名前?あァそうか。おれはあの時、一方的に告げられた相手の名前だけしか覚えていなかった。男は自ら名乗り出たのに、自分は己の名前すら言わなかったんだ。
「……ロー。トラファルガー・ローだ」
「ロー!……いいね、かっこいい名前で」
おれは一瞬間男を一瞥したが、そしてすぐに目を逸らした。
「あんたも、いい名前…じゃん」
「!……ふふっ」
相手がどのタイミングで笑うのかが理解できない時がある。それは自身も含めてだ。というか全てに於いて理解できないもののほうが多いと、苦悩する。まァ、それもひとつずつ進ませていけばいいんだろうけど。
「ありがとう。ロー」
「!」
はにかんだ笑顔がおれを照らす。そんな顔を向けられると、こっちが反応に困っちまうじゃねェかよ。……くそが!
「別に、思ったこと言っただけだし…!」
「ローって素直じゃないなァ」
「な!だま、黙れッ!」
ははっと、次はこいつにおれが笑われている。最近、形勢逆転する頻度が高いからか、まじで頭が追いつかなくなる。そのせいで、感情を露わにしてしまいそうで怖くなる。顔がすぐに歪んでしまって、合わす顔がない。
まじで何なんだよ。
こいつと話しているだけで、俺の頭がおかしくなりそうだ。目の奥が熱くなっては思考が止まる。
「……最悪だ」
あれから結構時間が経った。もう時計の短い頂点をさしている。
「ローって呼び捨てで呼んじゃってるけど、大丈夫だった…?」
「別にいいが?それよりも、あんた自分の部屋に戻んなくてもいいのか?すぐ真横だろ」
男はまたもやポカンとした表情でこちらを覗く。
「ローの部屋に居てちゃ、だめ?」
「!」
なぜだ?なぜそんなうるうるとした目と表情を出せる?どうやってそんな可愛い顔ができるんだ?
おれには、その笑顔の意味も意図も分からない。
「別に、おれは、なんでも構わねぇ。……けど」
「けど?」
おれは口篭る。でも聞きたい。
──なんであんたは、倒れていたんだ?
さっきまで誰もいなかったおれの後ろで倒れた音がしたんだ。男はこの階に辿り着いた時点でもう気を失いかけていたんだろう。
…単なる意識が飛んだだけならまだいい。でも倒れた原因がもし脳梗塞や脳卒中、貧血、心臓病。他にもいろいろと憶測は考えられる。これでも一介の医学部生なんだ。……好奇心からくる『気になる』ってのは不謹慎だろうが、やっぱり知りたい。それとも何か持病持ちなら通院を薦めたほうがいいんだろう。
「どうした?ロー⋯?」
「教えてくれ」
「…何を?」
あんたのもつ病か。それとも、おれの今の心情か感情か。全くもって知りたいものが定められない。知りたいことが多すぎて、分からない。
なのにおれは身勝手だ。 好奇心と欲望のまま、全てを知りたいとさえ思う。
⋯⋯あァ、いやだ。
こんな腑抜けきった顔、絶対に見せたくねェ。
「おれ、あんたのことを⋯⋯もっと知りたい」
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