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エヴァンは鐘の音で、四限目になったことに気がついた。トイレで蹲って、紙で眼元を拭く。涙を止めようと力強く頬を殴るが、痛みすらも感じなくなっていた。震えた唇の間から嗚咽の声を漏らし、遂には顔を隠した。ああ……誰かが探しに来る。そして泣いていると嘲笑われるんだ……。考えると、俄然吐き気が込み上げてきた。頭が痛い。鼻で息をしようとすると、苦しくなった。ヒューッと喉の奥から笛のような音がする。冷たい床に膝をつけ、自分はなんて惨めなんだと俯いた。慟哭し、壁に寄りかかっていたときのことだ。扉の前に、影のような気配を感じた。そして隙間から覗くと、青外套が床までついている。 「エヴァン君、順位下がったね。僕が満点の一位で、君とカンパネラが一点落として二位だった」
声は嬉しそうどころか、失望と憂鬱を混ぜたようだった。エヴァンは何も答えず、その場で拳に力を込める。涙は止まらなかった。
「君には友達が僕含めても三人くらいしか居ない。クラスでも陰気な奴としか思われてないよ? 頭だけが取り柄なのに落魄れてるし、大荷物だね。これからどうするの? 泣いても何にもならないだろ」
扉を蹴られた。音に驚いて微かに声を上げる。唸り声にも似た鋭い悲鳴だった。まだ涙は止まらない。それどころか、声を抑えきれないほどに悪化していた。見せたくもない傷を晒され、挙句の果てに傷を開かれて弄られたような屈辱と苦痛。激怒を超えてどうでもよくなった。周囲の無口の圧を言葉にされたようである。
扉の鍵が壊れた。キィという音を残して、扉が力無く開く。顔だけは見られまいと青外套で頭を覆った。背後には確かに気配があった。その存在を、顔をみる勇気は無い。そのことを察したように、それはエヴァンの角を掴んで無理矢理に顔を見た。淡青の眼がジィっと舐めるように動いている。臙脂色の鱗が波を立てるように逆立つのを感じた。
「俺、頭じゃボニファーツに勝てない……死ぬまで」
「話の流れと違う。そんなのどうでもいい。君がミスったの問三でしょ。特に難しい証明じゃなかったよね。なのに間違えるなんて……。近くの底辺学校に居る馬鹿犬でも分かる。なんで?」
ボニファーツが軽蔑するかのような視線を浴びせる。エヴァンは顔を真っ青にして、ただ怯えている。自分を心の中で責め続けた。何故……テストの途中に恐怖で倒れそうになったのか。過呼吸になったのか。思い出すだけで気を失いそうだった。
「そんな質問にも答えられないんだ」
「順位が出た後にこういうこと言われるのが嫌なんだよ。本番でも問題より後のことを考えてる。お前に殴られるんじゃないかとか……」
ボニファーツは何も答えずに、エヴァンの口を押さえ鼻を塞いだ。呼吸が出来ずに全身を捩るようにして暴れる。苦しい。視界は膜がかかったように霞む。このまま親友に情けない姿を見せて死ぬのか。そう後悔の念を抱きながら意識を手放した。
眼を覚ますと、そこは布団の上だった。机の上には陶磁器のティーカップが置かれている。手に持って口をつけてみると、軟水の紅茶である。香りが濃く、旨味もよく引き出している。赤黒いがしっかり色のある紅茶を見るに、適当に淹れたわけじゃないだろう。エヴァンが紅茶を飲み終える頃、ベッドの下からボニファーツが出てきた。青豹が狭そうに蠢く。
「あいたた……おはよう。お父さんとお母さんなら五ヶ月は帰ってこないよ。二人とも遊んでるからさ」
もう制服から白い私服に着替えていた。それを確認して、エヴァンは自分の服に視線を移す。制服の青外套は床に置かれており、濃紺で手触りのいい絹の服に替えられていた。
「おい、何故俺はここに?」
「何でって……家に担いでいったら、まるで僕が失神させたみたいじゃないか! ノエル先生はただでさえ気も荒いんだから、半殺しにされる」
「ああ、お前に口と鼻を塞がれて苦しくて倒れたんだったな。紅茶までご丁寧に」
ティーカップが空になっているのを見せつけると、布団の奥に潜った。ボニファーツが無口で布団の隙間に入り込もうとすると、布団が跳ねてあっという間に蹴り飛ばされる。打った頬を撫でながら、不快そうに皺を寄せた。
「何が不満だ? 君がめそめそ泣いていたのを治してやったじゃないか。実際の話、君が欠陥獣で社会の需要がないのは確かだよ」
悪びれもせずにポカンとした。エヴァンは普段から鼻だけ突き出して瞼の上にある鱗の突起をチラリと覗かせる。
「俺が欠陥獣で社会の需要がないだとか、お前に関係がないんだよ。分かるか。放っておいてくれ」
激しく舌打ちした。ボニファーツは悲しげな表情を浮かべて、ガクンと肩を落とす。
「あるよ。だって、親友がそんなに無能だったら心配になる。第一情けないじゃないか。可哀想だ。僕は見ていられない……。涙が出てくる。君は天才であって世界を変えられるはずだ。あんな社会のゴミみたいな獣と比べりゃ、天と地の差なはず。なのに僕ごときに負けるなんてらしくないよ」
「煽るのか褒めるのか貶すのか一つにしろ」
エヴァンは呆れてものも言えなくなった。そして、ただ諦めて、グッタリとした。顔を出して高い天井を見上げる。岩の壁は真っ白に塗られていた。エヴァンの家は漆喰や石灰を塗っていない。微かな違いを感じながら、阿呆のように口を開けたままジイっと見つめた。ボニファーツは椅子に座って、そんな姿をにこやかに眺める。手にはうねった刃を隠し持っていた。
「……エヴァン君さ、順位落ちたら鱗剥ぐよって言ったの覚えてるかい? 約五年前から言ってきたよね」
「……やっぱり、頭の出来はお前には勝てないな。違いすぎる……」
表情を見て、エヴァンが諦めたように頬を緩めた。痛みには人一倍慣れている。幼少期に腹を灼かれ、背の棘を切られた。今でも頻繁に警棒で殴られていることもあり、抵抗する気さえも失っている。
ボニファーツは笑いもせずにエヴァンのことを押さえつける。そして床に叩きつけると、鱗の間に刃を入れた。グリグリと入れていくと、未熟な鱗が剥がれた。血が滲み、痛みで身を捩る。血管が切れたように血が噴き出すと、到頭唸り声を上げた。加工されていない鉱物のような美しさを秘めた鱗が音を立てて落ちる。角度によって青緑に煌めき、元々の紅紫色の美しさは変わりない。そして血は、白塗りの床を汚した。エヴァンは鉤爪を立てて、痛みにクラっとした。神経を切りつけられたような耐え難い激しい痛みなのだ。ジリジリと灼きつけられるようで、苦痛より腸の煮えくり返るような怒りに襲われた。すると、ボニファーツは面白くなってきたのか消毒液をドバっと掛けた。その刹那、涙が溢れるほどの痛みに襲われる。悪魔だと思った。なのに、内心そこまででもないのだ。
「ええ、おかしいなぁ……顔はまだ余裕そうだけど、体は限界だ」
「ああ……多分、心に体か追いついていないだけだ。これこそ、家に帰ったら叱られる」
エヴァは尻尾に勢いをつけてバンと殴った。油断していたボニファーツは鼻血を流して俯く。そのまま眼は逸らさなかった。
「僕がやったって、素直に言えよ」
罪悪感があったのか、汚れた刃を急に拭き始めた。鼻血はまだ流れている。エヴァンはそれを嘲笑って、包帯も巻かずにその部屋から出た。
「テストで順位が落ちて泣いていたとき、泣き止ませてくれて、しかも紅茶を貰った。だから代わりに、鱗を渡したと言っておく。”お前にとっては”事実だろう。どうもご馳走様でした」