【今宵の棘も】
第1話 それは甘い蜜のような
「っは、ちょっと待っ…、ッん」
君の声が、俺の鼓膜をくすぐっていく。君の髪に手をうずめる。抱き抱えるようにしてその柔らかい唇に自分のそれをあわせる。トン、と閉じられたそこを舌でつつけば、少しの躊躇いのあと、恐る恐る受け入れてくれた。そのまま歯列をなぞり、くすぐって、君と舌を絡ませる。
「っ、ふ…ッ、は」
漏れてくる吐息が熱い。肩に置かれた君の手は、ぎゅっと俺の服を握る。その手先すら愛おしくて、愛おしくて堪らない。重ねられた唇が離れれば、その間を銀の糸が繋ぎ、溶けていった。
「ッは、は…っ急にどうしたの、随分激しいね」
「っ…誰のせいだと」
そのままベッドに押し倒す。君は煽るような笑みを浮かべた。
「っ、余裕ないかお…そんなに俺の事好き?」
「好きにさせたのは君だろ」
「そうだね。ちなみに、煽ったのも俺か」
「自覚あるのか。…なら、」
君の身体の線をなぞる。君は心底愉快とばかりに、片手で俺の頬に触れた。
「なーにするつもり?」
「わかってるくせに」
「期待していい?」
「……好きにしろ」
「じゃあ期待しよっと」
君は手を下ろし、俺と指を絡ませる。やっぱりこいつは俺を煽るのが上手いと思いながら、空いている手でシャツのボタンを外していく。
まだ2回目だ。スムーズではない。元々俺は器用ではない方だ。それでもボタンを外し終わり、白い肌が露わになる。
君の首元に顔を埋めて、淡く噛む。どうやら痛みはなかったらしく、くすぐったいよと言われた。
「噛むの好きだよね、どうして?」
「…お前は俺が知らないうちに、どこかに行って消えてしまいそうだから」
「酷いなぁ、俺がそんな奴に思える?」
「思える」
「否定してよw…というか理由になってないんだけど」
「お前がどこかに行っても、思い出してもらえるように」
「自分に自信あるんだねぇ先輩?」
「好いてもらえている自信はあるかな」
「…ズルいよそういうとこ」
君は目を逸らし、俺の頭を抱き寄せる。君の髪はふわりとパーマが掛けられていて、ふんわりとラベンダーの香りが鼻をくすぐる。
「…眠れてないのか、お前」
「え?」「ラベンダーの香りだよ。ラベンダーの香りは安眠効果があると言われているから…つい気になった」
「詳しいなぁ先輩」
「俺の職業知ってるだろ」
「…そういえば売ってるんだっけね」
「ああ」
「……でも別に問題ないよ、普通に眠れてる。今日はこれの気分だっただけで」
「そうか」
それより、と君は俺の耳に口を寄せる。
「早くシてよ…ね?」
「煽るな」
俺は眼鏡を外し、自分のシャツのボタンも外した。片手はまだ繋がっているままだった。
君を初めて抱いた日、俺が“初めて”だったのに対し、君はもう処 女なんてとっくに捨てた後だった。どこの誰かなんてそんなこと聞く趣味はないし聞きもしなかったが、ごめんね先輩と小さく謝られたことが引っかかった。
何に対しての謝罪かは聞かなかった。君がモテているのは知っていたし、抱かれる側だったのは少々意外だったと言えば意外だったが、今は俺が抱くのだからそれも問題ではないだろうと思った。
君は何かに追われるように行為を強請った。初めての奴に容赦ないなと思いながら、それでも彼のペースを引き継いで最終的には俺がリードする形で終えた。
その時は何も違和感を覚えることはなかったが、ふと立ち寄ったレストランで君がぼんやりと外を見ていたのを見かけた時の、その表情が目に焼き付いて離れない。今にも消えてしまいそうな、そんな表情だった。
君は俺に気付かなかった。俺が入店してきた時も、退店する時も。俺より先に居たくせに、ずっと飲みかけの珈琲のカップ1つが置かれたテーブルで1人ぼんやりと外を見ていた。君のプライベートな部分に踏み込むような真似はしたくなかった。だが高校、大学と共に居たからこそ、気になるものは気になる。いつかは追求しても赦されるだろうと、心に秘めて店を後にした。
「せーんぱい、せんぱいってば」
「……、ん?」
「ぼんやりしてどうかした?疲れた?」
「別に、何でもない」
「へえ…俺にも言えないようなこと?妬けちゃうなぁ」
「そう言うお前こそ、俺に言えないことなんて普通にあるだろ?」
「……知りたい?」
身体を起こし、君が俺の隣に座る。君の肩から布団がパサリと落ちた。顔が近付く。
「…無理には聞かない」
額に口付け、知りたい気持ちを抑え君をベッドに押し戻す。仕事は朝からあるのだ。
彼は俺を後ろから抱きしめる形で寝てしまった。首元に彼の髪があたる。ストレートパーマを掛けたというそれから、微かにカモミールの香りがした。ただの興味だった。手を伸ばして彼を起こさないように注意しながら、枕元に置きっぱなしにしていたスマホを手に取り、カモミール 香り 効果 と打ち込んで検索する。「…もう十分なくせに」画面には、“冷静になりたい時に効果のある香り” と表示されていた。
誰かと身体の関係を持ったのは、彼で3人目だった。その前の2人とは普通に合意の上だったし、その時は不快感なんて無くて、ただただ興味と相手を操る感覚に溺れていた。固く作ってる奴を俺の上で乱れさせるのは気持ちが良かった。コイツは俺で興奮して俺で欲情してるのだと思うと得意になった。自分に価値が出来た気がした。
でも、彼は違った。純粋に好きになって、彼に抱いて欲しいと強請った。焦らすのは俺の得意分野だったのに。彼が俺に対して、身体以外での好きの気持ちさえ向けてくれていることは気付いていたから、尚更申し訳なさが勝った。だから普段は絶対に考えもしない「ごめんね」なんて口にしてしまって。
初めてじゃなくてごめんね、先輩。恋愛感情以外で他の誰かに身体を開いてごめんね。
先輩のことだから、気付いた上で何も言わなかったんだろうけど。俺が恋愛感情なんかじゃないくだらない理由でヤッてたなんて知ったら、なんて言うんだろうか。結局最初は俺がリードしてると思ってたのに、気付いたら彼にリードされていた。初めてなんて嘘だろ、先輩。そのくせ妙に不器用で、たどたどしくて、でもすごく大切に抱いてくれた。愛されてるんだなぁ俺って思った。だからこそ、申し訳なかった。少し、ほんの少しだけ、俺は彼に対してでさえ 昔の癖で「俺が彼を興奮させてる」なんておもってしまった。嫌な奴。俺だったら絶交する。自分の貞 操 観念というかなんというか、そういうことへのベクトルが他の人と違うのだということは自覚していたが、本当に好きな人相手でさえそう思考してしまう事実に、どこかモヤッとした。結局俺にとって行為はゲームみたいなものでしかないのかもしれない。
確かに気持ちよかった。初めて途中から相手に主導権を譲った。身を任せて彼の愛撫に反応するままに身体を動かし、その手に縋り着いて強請って。
でも、そうなる前に俺が彼に対して抱いた感情は消せなかった。彼はそれを知らず、不器用ながら俺に応えようとしてくれてることに、心臓が痛くなった。こんな感情さえ、初めてだった。