―――そこは……
屹然《きつぜん》と天空へと伸びる、槍の穂先の様な峰を連ねる呂色《ろいろ》の山々と、永遠と穢《けが》れ続く、果ての無い爛《ただ》れた大地に覆われていた。
古き良き時代の遺構達は、その存在すらも忘却の彼方へと置き去りにされ、僅かながらの痕跡を残すに至っている。
命の芽吹きすらも感じ得ない、殺伐とした闇の中に堕とされ、下魂《げこん》した魂魄《こんぱく》達は、巨大な怪鳥に捕食されぬ様に、腐敗の湖を目指す。
軈て目の前に広がる、悪念《あくねん》に満ちた飛瀑《ひばく》が幾重にも立ち開《はだ》かり、立ち入らんとする亡者達の瀬踏《せぶ》みすらも拒絶し、絶望を植え付け苗床にする。
河を流れ行く、対価とされた生贄の遺骸と血潮の行き先は、羴《なまぐさ》い臭いに湧き立つ大量の蠅と思《おぼ》しき蟲達と共に、本流へと吐き出され、何時しか深潭《しんたん》の大瀑布から轟音と共に放たれていた。
毒突《どくつ》いた残渣《ざんさ》を含んだ朱き腐敗の湖へと誘われた血潮は、野火が広がるかの如く、濛々《もうもう》と生温い靄《もや》を立ち昇らせ、空に霞《かすみ》をかけると、霞から延びた漏斗雲《ろうとうん》は、渦を巻きながら湖面まで不気味な手を伸ばす。そして、ゆっくりとグネグネと移動を繰り返すその様は、まるで黒緋《くろあけ》に染まる血柱の様でもあった。
誘われた血潮は―――
―――湖の中心に浮かぶ巨大な肉城の養分とされていた。
受肉される事無く命になり損ねた肉塊と、腐りかけた臓物の寄せ集めでその城は形成され、脈打つ太い無数の血管が、城内全てに張り巡らされている。
その上空には、不気味にゆっくりと渦を巻く暗赤色《あんせきしょく》の雲がぽっかりと口を開け、今正に古城を飲み込まんと、稲光を孕んでいた。
その狭間は赤《血》と黒《闇》で成り立ち―――
時間の概念も無く昼夜も存在しない。火山は遠く溶岩を吐き出し、酸の雨が全てを溶す。永遠と続く死の存在しない歎《なげ》き色の世界の名は―――
―――奈落と呼ばれていた。
身体を失った者達が堕ちて来る理《ことわり》の底、無限牢獄。あらゆる思念体の墓場であり絶望の混沌。自分が何者で有ったのかさえも記憶に残す者は無く、新たな身体《器》に、魂は故意に繰り返し入れられ生まれ変わる……
―――そう……
化け物として幽囚《ゆうしゅう》となる場所。
死ぬ事は安寧を意味し、許される事は無く、此処奈落では、弔鐘《ちょうしょう》を聞く事は疎《おろ》か、嘆く者も居ない。理性も無いまま化け物として生まれ、死んではまた、新たに生まれる事を永遠と繰り返すのだ。
そして、全ての世界種族と対立を宣言している低闇の軍事国家こそが、この混沌の世界を牛耳る奈落連合国であった。
今でこそ混沌が支配する闇の世界だが、それ以前では、こんなにも廃れた世界では無かった……
敗戦より終末に堕とされ数千年。空から現れた標《しるべ》を説く者により、神の意思である巨大な大聖樹が一夜にして根を下ろすと、大地は芽吹き、息を吹き返す事となる。そして、標を説く者により、導かれた者達は、知性と肉体を与えられると、軈て文明が開化した。
巨大な大聖樹は天空に覆い被さると、大きく枝葉を伸ばし、黄金に輝き放つ傘を広げた。この大聖樹は、異界の五大精霊の一柱である火を司る理の監視者、祖天霊王《おやあまのひおう》サランドラの住まう場所であり、律を守護する龍により立ち入る事を禁じられ、大聖樹の庇護の下、都市は大きく発展していった。
その都市国家は、火山都市ボルドリアと呼ばれていた―――
知性と肉体を与えられ、導かれた者達は妖霊《ジン》と呼ばれ、国家の中枢を担っていた。然し、軈て平和だった世界は、突如として崩れる事となる。
異界の国々が世界規模で鎬《しのぎ》を削った、先の幻魔大戦の敗戦国であったこの国は、強国復活を密かに目論《もくろ》む隠然《いんぜん》たる勢力によって蝕《むしば》まれて行く事となる。
標を説く者が策略により膝を突き、投獄されると妖霊《ジン》達は、悪意を植え付けられ魔に堕ちた。それは新たな軍事国家の幕開けと、魔妖霊《マジン》【魔人】と名乗る者達の誕生へと繋がる事となった。
理性を縛られ精神をも支配された魔人達は、一昼夜にして自らの国を滅ぼし、新たな国家の樹立を宣言すると、全ての異界への往来を禁じ、異界全土に宣戦布告を掲げた―――
―――これが奈落連合国の誕生である。
大聖樹を守護していた山を覆う程の巨大な龍は、魔人達の猛攻撃により、鋼鉄の杭を何本も打ち込まれ串刺しにされると絶命し、その頃、時を同じくして大聖樹にも火が放たれ、数年間、猛けた呪い火により焼かれ続けると、美しかった枝葉は全て焼け落ち、真っ黒な僅かばかりの爛《ただ》れた根幹《こんかん》を残すだけとなった。
理と秩序を保つ存在であった大聖樹の内の1つが崩壊した事により、結果、世界の均衡は大きく崩れ、現在の戦乱の世を招いた。
そして最後までその姿を誰にも顕現する事の無かった火の祖天霊王サランドラの消息は、今も不明となっている。
守護龍は長い年月を経て石化しても尚、紅い大河の一滴を、現在も永遠と流し続け、肉城の糧と成り果てていた。
そう―――……
この世界もまた、現在に至るまで、幾度となく生と死を繰り返していたのであった。
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「ベルゲル様――― 」
異臭漂う肉の回廊に歩を進める度に、ネチャリとした感覚が足裏に伝わり糸を引く。もう、うんざりだと呟きが出掛かった時に不図《ふと》、聴き慣れた声に呼び止められた。
「あぁ、ゾイルか…… 随分と遅かったね。何か掴めたの? 」
化け物と呼ぶには程遠く、限りなく人の見た目に近い、透き通る程の白い肌を持つ眉目秀麗《びもくしゅうれい》なベルゲルと呼ばれた人物が、それと分かる鋭い2つの犬歯を覗かせ乍《なが》ら、片足を持ち上げ、足裏の感覚に眉を顰《ひそ》める。
「単独にて偵察中に異界の者と一戦交えましてに御座います」
ゾイルの感情の無い淡々とした告白に対し、慌てて驚きを隠したベルゲルは、一旦咳払いをし、落ち着き払った声色を返した。
「ふ~ん、何処で? それって――― 」
「いいえ、神邏《じんら》の者では有りません。人界域にて得体の知れぬ者達と邂逅致しました」
ベルゲルは外套を翻《ひるがえ》し、初めてゾイルに振り返ると、膝を着く部下の顔を覗き込む。無事な事を確認すると、1つばかりフゥと小さく溜息を溢し、周りに悟られぬ様に静かに呟いた。
「戦闘禁止区域か…… まぁ、でも円卓が機能していない今、人界に侵攻する絶好の時機って所か…… 人界を手中に収めたいのは、我が同胞の狂信者共だけじゃ無いって事だね。天界の連中でないとすると惺黎《せいれい》界の連中? 敵の規模は? 」
「敵の規模は、混人者《まざりもの》が2つ。風貌から推測するに、人族《ひとぞく》に近く、惺黎《せいれい》界の者達では無いと思われます。ただおかしな点が1つ――― 」
「おかしな点? 」
「はい、奇怪な力を身に宿しておりました」
「奇怪な力…… 」
「はい――― 」
得体の知れぬ体液の様な液体が、片膝を突いたゾイルの腰巻にシミを作る。沈黙が過ぎる程、その染みはジワジワと広がって行き、漸く俯いた顔をゆっくりと上げ、その重たい口を開いてみせた。
「そして、拮抗した争いの中に於いて、愈々《いよいよ》と思われたその時、邪魔が入りまして」
「邪魔? 」
「はい、それが…… 」
普段は淡々と任務を熟《こな》す冷静沈着なゾイルではあるが、この時ばかりは、ゾイルらしからぬ、恐怖に満ちた動揺が、肩を揺らすその僅か乍《なが》らの仕草から垣間見えた。
「うん、いいよ続けて――― 」
「 ―――…… 」
「大丈夫。私は、お前を信じている。お前が私に一度でも虚言を吐いた事があるかい? 」
「いっ、いいえ、そんな事は一度も御座いません―――」
「だったら、見て来た、ありのままを報告をしなさい」
「はい―――…… 」
ゾイルは言葉に詰まりながらも、主の信頼に応えようと、見て来た真実をボソリと語り出した。
「剣を交える最中に於いて、巨大龍が降臨致しました」
「なっ―――⁉ 本当なのか⁉ 」
「はい、間違い御座いません。危うく消し炭となる所でした」
「龍と言えば律の監視者。争いに加担するなんて有り得ない。若《も》しや、大聖樹を傷つけたのか? 」
「いいえ、人界域の大聖樹は未だ発見に至らず、探索中ですので」
「じゃあ何で監視者《龍》が現れたの? 」
「それはわかりません…… ただ…… 」
「ただ? 何だい? 」
「龍が言魂《ことだま》で導きを唱《とな》えましてに御座います。それが何たる存在であったのか、愚者の私《わたくし》では到底、窺い知れず…… 」
「何だと――― 」
愕然《がくぜん》と気色《きしょく》を変えたベルゲルは、一瞬の忘我《ぼうが》の中で、興奮した様相を晒すと、ゾイルの胸元に掴みかかり、雄弁に捲くし立て持論を説いて見せた。それは、ある可能性を示唆した一言でもあった。
「監視者《龍》は律《大聖樹》から離れる事は無い。そして、導きを唱えられる様な位人臣《くらいじんしん》を極めた龍なんて存在しないのだぞ…… 」
小さき火種は、漸くとして寂然無音のまま大火となり、静寂を纏ひて世を呑み込む。生死不知に彷徨ふ魂魄を、枝に刺し貫きたる怪鳥は、血を啜り肉を裂き骨を喰らひ貪る。此れ、天命攘夷の如く繰り返されるは、定めか虚構か、答ふる者なし。
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