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いつもは冷静沈着、公認心理師として他者の心の闇を解きほぐしている滉斗。しかし、あまりにも重い案件が続いたある週末、ついに「心の守護神」の防衛ラインが突破される日がやってきました。
それは、土曜日の夕方のこと。いつもなら定時きっかりに帰宅し、元貴の隣を確保する滉斗が、どこか虚ろな瞳で玄関に現れました。
「……ただいま」
その声は消え入りそうで、靴を脱ぐ動作もどこかたどたどしい様子。リビングにいた元貴と涼架が駆け寄るよりも早く、滉斗はその場に膝をつき、迎えに来た元貴の腰にしがみつきました。
「……もとき。……もとき、どこ」
眼鏡の奥の瞳は潤み、焦点が定まっていません。仕事で神経をすり減らし、極限まで「大人」を演じ続けた結果、彼の深層心理が強制的に「一番安心できる場所」へと時計の針を戻してしまったのです。
「あらら……。今度は滉斗が『入園希望』かな? 元貴、これは重症だよ」
涼架が苦笑いしながら近づきますが、今の滉斗にとって涼架は「見張り番」ではなく、ただの「大きな音を出す存在」でしかありません。滉斗はさらに強く元貴の服に顔を埋め、小さな声で呟きました。
「……しーっ。……りょうかさん、うるさい。……もとき、ねてるから」
「あはは、ひろと、僕起きてるよ。……よしよし、大変だったね」
元貴は、かつて自分がしてもらったように、滉斗の広い背中をゆっくりと撫でました。すると、あの強気な滉斗が、元貴の腕の中で「くんっ」と小さく鼻を鳴らし、そのまま離れようとしません。
「……おれ、まもる。……もとき、おれが、まもるから……」
うわ言のように繰り返されるのは、保育園の頃に交わしたあの約束。大人になった今の責任感と、幼い頃の純粋な決意が混ざり合い、彼は夢うつつのまま「元貴を守る小さな騎士」へと退行してしまったのでした。
涼架の手伝いで、なんとか滉斗をソファへ運んだ元貴。
今の滉斗は、元貴が1センチでも離れようとすると、まるで世界が終わるかのような悲痛な顔をして指先を掴んできます。
「……いかないで。……ずっと、となりにいろって、いっただろ」
「行かないよ、ひろと。ずっとここにいるからね」
元貴が優しく囁くと、滉斗はようやく安堵したように、元貴の膝の上に頭を乗せました。
そこへ、涼架が気を利かせて、中等部時代の「青い林檎の香りのタオル」を持ってきました。
「はい、ひろと。これ、落ち着くでしょ?」
滉斗はそのタオルをぎゅっと抱きしめ、元貴の手を自分の頬に寄せたまま、深い眠りに落ちていきました。
「……心理師さんが、一番心のケアが必要になっちゃうなんてね。でも、元貴。今の滉斗、すっごく幸せそうな顔してるよ」
涼架の言葉通り、眠りに落ちた滉斗の表情からは、日頃の鋭いプレッシャーが消え、ただ一人の大切な人を守り抜いた満足感だけが漂っていました。
翌朝。いつも通りの時刻に目が覚めた滉斗は、自分が元貴の膝枕で、しかも中等部時代のタオルを抱きしめて寝ていることに気づき、石のように固まりました。
「…………。……元貴。俺は昨日、何を……」
「えへへ、ひろと、昨日はすっごく可愛い『騎士様』だったよ。僕のこと、ずっと守るって言ってくれたもん」
元貴がいたずらっぽく笑うと、滉斗は顔を両手で覆い、指の隙間から耳まで真っ赤に染まっているのが見えました。
「……忘れてくれ。……いや、削除しろ。脳内の全データを書き換えろ」
「ダメだよ。僕の心のフォルダに、しっかり保存しちゃったもん」
そこへ、キッチンから涼架の声が飛んできます。
「おはよー、ひろと! 昨日の『もとき抱っこ要求』、動画に撮りたかったなぁ! 公認心理師の新しい症例として発表しちゃう?」
「……涼架さん。……今すぐその口を閉じないと、法的措置を検討する」
いつもの理屈っぽい、けれどどこか照れくさそうな滉斗が戻ってきました。
外の世界では誰よりも強く、冷静な守護神。けれど、この家の中にだけは、彼が「守られる側」になれる温かな時間が、確かに流れていました。
元貴は、少しだけ軽くなった滉斗の背中を、昨日と同じリズムで優しく叩きながら、幸せそうに微笑むのでした。