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あの日見た空を私は忘れられずにいた。
アニメと包丁が打つ音の混じり合う、この部屋をそれは確かに照らしていた。写真では伝えられない、クレヨンでは表せない。その空を焼く色は、私をこのために生きているのだと思わせてくれるほどに美しかった。
母が「綺麗な空」と呟いた時、自分が声を出す事すら忘れていた事に気が付く。まるで時が止まっているかのようだった。あの瞬間だけはアニメも包丁も烏も、この世界からは消えていた。私すらも消えていた。
そう。それは太陽が沈む直前に見せる生命の輝き――。夕陽であった。
『生命の色』
自殺、安楽死、命、命、生命。それらの言葉は、まだ私の中では偉大なものであった。だから、どれほど辛くとも、その選択が姿を見せる事は無かった。ただ、心の何処かではきっと、その壁を解消したいと思ってしまっている。
その証拠に今私は、偉大なそれらを歌った曲をイヤホンを通して脳に叩き付けていた。『死にたい。死にたい。でも、生きたい』曲中では何度も繰り返しそのようなフレーズが飛んでいる。『何度死にたいって叫んだって、僕ら結局死ねないんじゃないか』それを聞いた時、私はこのまま死にたいと叫べずに終わるのだと理解できた。
よく面接で重要となるのは、どれだけ自己理解が深いかだと聞く。私は幼い頃から異質なほどにそれが得意だ。朝食を食べる時、学校へ行く時、授業の最中に。様々な時間の合間合間で私は、自分という存在について考察する。何が得意で、何が不得意。嫌いなもの、好きなもの。それらを寄り分けているものは何か。物心ついた時には既に、好奇心は自身へと向いていた。
大人たちはこれを素晴らしい能力だと、よく評してくれる。だが決して謙遜などでは無く、こんなのは詰まらないものであって、ちっとも素晴らしくなんか無い。始めの頃、自己理解は私に成長をくれた。だが今ではそれが、私から生きやすさを吸い取っている。
現に私は、自分が死にたいとは思っていない事を理解してしまっている。私に仲間はいない。一人一人、人間は違う生き物なのだから当然ではあるが、それにしてもだ。私と同じ考えを持った存在は世界の何処にもいないのかもしれない。そう思えてしまうくらいには常にそこには孤独があって、性質上私はそれから逃れる事は不可能なのだ。
笑えなくなったのはいつからだったか。理解しておきながらも問うてみる。そのあまりに虚しい行動が面白くて思わず笑みが溢れる。そこに心は無くて生きる為に本能がそうさせたようだった。
知っているか音楽家ども。何か深そうな事を叫んでいたが、お前らなんかは何処も見えてはいない。どんなに死にたいって叫んだって、人間は一生命である以上、死ぬ事なんてできやしないのさ。
そしてだ。それは今日この瞬間で終わる。
私がその人間の理解を超える。
階段を登り終えた私は、スマホごとイヤホンを投げ捨てた。漏れ出ているドラムの音が鼓動とともに揺れている。このような場所の風は強いと思っていたが案外弱く、折角のキャップ帽も意味無かった。
高層なんて大層なものでは決して無い、街の何処にでもあるような五階建てのビル。その屋上。そこに私は立っていた。
生きたいと思えないけれど、死にたいとも思えない。生きる理由なんてそれで十分。誰が初めに言ったのかもわからない、今では月並みな言葉。みんな誰しもこれを胸で叫んで今日を生きている。
だが、誰もその事の重さを理解してはいない。死にたいと思えないのを生きる理由とする事は、生きたいと思えないのを死ぬ理由とする事を肯定するのと同じなのだ。
柵の向こうはどこか別の世界なのかと思っていた。非現実的な考えではあるのに、何故か不思議とそう思っていたのだ。だが、こうして実際に見てみればなんて事は無い。何も変わらぬ世界がそこにはあった。
私がこうして飛び降りようとしても、道を歩き走る者たちは誰もそれに気付かない。彼らには何も見えていない。
生きたいと叫べたなら、死にたいと叫べたなら。ああ、どれほど楽な事だろうか。貴様らの見られ方ばかりを気にした薄っぺらい音楽は、生き方は。どれだけ楽で、甘ったれた糞ったれなのだろうか。
私が貴様らに現実を見せてやる。
そう片足を宙へ浮かせたその時、私は。夢にまで見た柵の向こうの異世界へと連れ出された。
この時間に死ぬ事に決めたのは、幸せな皆様の下校を赤で塗り潰すためだった。思えばそんな事はどうでも良くて、本当は最期にこの景色を見たかったのかもしれない。
「綺麗な空……」
昼という時間を喰らう闇に歯向かうように、その光は世界を照らしていた。写真では伝えられない、クレヨンでは表せないその色は強く美しく、どこか悲しげであった。
いつしか灰色に染まってしまっていた私の世界を、それは赤く輝かせてくれた。屋根が一つ一つ違う事なんて、街路樹が緑である事なんて久しく忘れていた。
誰かがこの瞬間に過ごしている青春は、誰しもが思っいるよりもずっと淡く儚いものだ。だが、だからこそ。この色のように美しく思えるのだ。
何も見えていなかったのは、私も同じだった。
頬を伝う涙の感覚は懐かしかった。そう思い出したのはあの日の事だ。
あの夕日に初めて目を奪われたあの日、私は泣いてしまった。それに理由など無い、ただ不思議な事に泣いてしまったのだ。それが可怪しくて可笑しくて。母とにらめっこでもするかのように、顔を合わせて沢山笑った。
ああ、ああ。今私、笑っている。笑えている。
これは偽物では無い。本物の笑いだ。それが薄っぺらいものかなんて考えもせずに放つ、一見して浅いようで何よりも深い。そういう笑いだ。
私は今、生きているんだ。
胸にあった虚ろがほんの少しだけ埋まったような、そんな気がした。
生きようとは思えないし、死にたいとも思えない。だから私は今日のところは生きてみようと。そう思えた。
だって今の私にはまだそれが、少し偉大すぎるから。