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事件が起きる度に顔を合わせていた知り合いからアルマの診察を介して友人にまでなったリオンという青年のことを、最近のウーヴェはよく考えるようになっていた。
暇があれば、ではなく、例えば診察を終えた安堵に気を抜いた瞬間、脳裏にあの子どものような笑顔が浮かび上がるのだ。
当初はその理由を探ることもなかったウーヴェだったが、日を追うごとにそれが強くなり、何故との疑問が芽生えるが、本人に直接質問をしている訳ではない為、出てくる答えは己の中の彼がしたり顔で言い放つものばかりで、いい加減考える事に飽きた結果、出てきたいのならば好きにしろと、ある種の開き直りをして脳内のリオンと付き合うようになっていた。
脳内で毎日見ているからか、事件について意見を聞きたいと、ひょっこりと本人がクリニックに顔を出したときなど、危うくまた来たのかと皮肉を言いかけてしまうことも何度かあり、小首を傾げる本人を前に微苦笑しているのだった。
そんな不思議な日々を過ごしていたが、何度目かのアルマの診察の日を迎え、午前の診察を全力で終えたウーヴェは、今日はどんなおやつを食べさせようかとオルガと相談していたが、時間になってもアルマは来なかった。
リオンからの連絡も無いため、どうしたことだろうとオルガと顔を見合わせた時、クリニックの両開きのドアが開き、俯き加減のリオンが入って来る。
「遅かったな」
「・・・あぁ、ドク。遅くなってすいません」
ウーヴェの第一声に返したリオンの声はいつもと変わらない明るいものだったが、リオンの目が泳いでいる事、ウーヴェと視線を合わせようとしないことを読み取り、リアにお茶の用意を頼むと告げると、リオンには診察室にどうぞと声を掛ける。
「え?」
「・・・ここに来ると言うことは、多少なりとも時間があるということだろう?診察室で話をしようか」
驚くリオンにウーヴェが驚きそうになりながらも平静さを保ちつつ苦笑し、再度診察室へと促すと、腿の横で拳が一つ作られる。
「・・・へへ、ありがとう、ドク」
「どういたしまして」
頭に手を宛がいながら笑う様子も近頃では見慣れてきた光景ではあったが、それでもウーヴェの中に些細な違和感を植え付けたため、これを解消しなければならないと何故か強く感じてしまう。
そう自分で感じた理由もはっきりとは分からないが、屈託のないものから裏に鋭利な刃物を隠し持っている時の様なものまで、数多の笑顔を持つ彼にこのような顔をさせてはいけないのではないかという思いも不意に芽生え、その思いから診察室に案内するが、何事かを思い出したように断りを入れて部屋を出て行くと、キッチンスペースでお茶の用意をしてくれているオルガに頼んで冷蔵庫に入れてあるチョコもいくつか用意して貰う。
「・・・先生、彼の様子がどうか?」
ウーヴェの様子からリオンに何か変わったところがあるのか、いつもと変わらない気がすると問いかける彼女に苦笑し、取り越し苦労ならば良いのだけどと肩を竦めたウーヴェは、チョコを一つ手にとってキッチンスペースを出て診察室に戻る。
診察室の中、ぼうっと立ち尽くす様子からやはり何かあったと察したウーヴェは、窓際のチェアか患者が座る一人がけのソファが良いかどちらが良いと問いかけ、思わぬ声に驚いたように飛び上がるリオンに苦笑する。
「今日はアルマはどうした?」
以前言っていたように診察直前にご機嫌斜めになったのかと苦笑しつつ問いかけるウーヴェの言葉にリオンの肩が再度揺れた様子から、どうぞとウーヴェが示したのは一人がけのソファだった。
「そちらに」
「・・・あ、どうも」
ウーヴェの言葉に何となく余所余所しくなりながらソファに座ったリオンは、いつもウーヴェが座る椅子ではなく、リオンと最も近く向き合えるデスクに尻を乗せて足を組む。
「どうした?」
「へ?」
「・・・アルマが外出できないほど調子が悪くなったのか?」
いつもと比べれば声に張りはなく調子も狂っている雰囲気のリオンを気遣いつつ問いかけると、リオンが頭を掻きむしりながらあまり褒められない言葉を口の中で連発する。
それを黙って聞いていたウーヴェに気付いたリオンが目を見張り、すいませんと謝罪をするが、その謝罪はどういう意味だと問われて更に目を見張る。
「今の汚い言葉への謝罪なら受け入れよう。アルマが来ないことに対しての謝罪なら、その理由を聞かされていないのに謝罪されるのは納得できないから受け入れないことにしよう」
さあ、どうすると己の意思を尊重してくれる様子に瞬きをしたリオンは、誰に向けたものかが分からない舌打ちをした後、溜息と共にアルマが今日ここに来られなかった理由と思しき言葉を口にする。
「・・・ドク、やっぱり子どもって親が良いのかな」
「どういうことだ?」
「んー、アルマ、連れて行かれちまった」
「・・・・・・」
軽口に見せかけた重い言葉にウーヴェが口を閉ざして目を伏せるが、先日、アルマの母親がホームに突然押しかけ、嫌がる彼女を無理矢理連れて行ったと語るリオンの様子に顔を上げるが、目の前にあるのが陽気な子どものような笑みを浮かべる青年の顔ではなく、人生の暗部ばかりを見つめ続けてきた為に目も昏く皮肉な笑みしか浮かべられなくなった年を経た男の顔のように思え、無意識に背筋を震わせる。
「やっぱりさ、子どもには親が必要なんだろうな」
だから、自分の妹が情夫に殺され娘もレイプされたのに、その男が出所したら三人で一緒に暮らすと言う母親について行くんだよなぁと嗤われてきつく目を閉じるが、視界を閉ざすことで見えてきたのは、昏い感情の奥で声にならない声を上げている魂だった。
人が口や顔に出す思いが全てではない事をウーヴェは良く知っているが、今目の前で昏く嗤う青年の心の中を見てみたいと思う以上に、陽気な笑顔が似合う男にこんな顔をさせてはいけないという思いが再度沸き起こり、そっと目を開けて掌に載るチョコへと目を向ける。
リオンと一緒にここにやって来たアルマという少女が、診察を受ける不安を少しでも解消してくれればとの思いからウーヴェが買ってきたチョコだったが、その思いは無駄にならないどころか、ウーヴェとリオンの心理的な距離を縮める役目も果たしてくれたのだ。
その時に少女が笑顔を取り戻す切っ掛けとなってくれたように、今もまたそうなってくれればと願ったウーヴェの耳に、聞くだけで心臓を鷲掴みされたような痛みを生む声が流れ込む。
「俺には親がいないから分からねぇけど、どんなに酷いことをされてもやっぱり親が良いんだよな」
だから自分を陵辱した男といずれ過ごすことになると分かっていてもついて行くんだよなぁと、己に衝撃を与えたであろう言葉を繰り返し肩を揺らされ、チョコを載せた手とは別の手を握った後、白とも銀ともつかない髪を左右に振る。
「確かに、ある程度の年齢まで親は必要だと思うが、今回の場合は親が彼女を必要としていたんじゃ無いのか?」
「母親がアルマを必要としているって?」
「ああ。彼女はまだ数回しか診察をしていないが、それでも年齢以上に聡明だと思った。自分の置かれている状況をちゃんと理解出来ている女性だ」
「じゃあ・・・それなら、どうしてついて行った?俺ならそんな親を捨ててホームで暮らすことを選ぶけどな」
ウーヴェの言葉に深く重い言葉が反比例した軽い口調で告げられると同時に、ウーヴェの中に冷めた熱としか言い表せないものが生まれてしまう。
言葉と表情が裏腹なのも、軽口に込められた本音も、先ほど感じた魂が発する悲鳴に感じてしまい、聞きたくは無いと思う反面、理由は分からないが、決して目を逸らせてはいけないとの思いが熱と共に不思議な感覚で腹の中で産声を上げたことに気付き、足を組み替えて真っ直ぐに昏く光る蒼い目を見つめる。
「もしも彼女の母親が犯罪被害者の娘が得られる公的な支援を当てにしているのであれば、彼女と一緒に生活をしないと受けられないかも知れない」
「あー、そういうのあるな」
「ああ。彼女は大好きな叔母が目の前で殺されたのを見ているし自身も被害者だ。世間的に見れば気の毒な可哀想な少女だ。それを前面に押し出せば支援も得られるだろうな」
「・・・胸くそ悪ぃ話だな」
「そうだな。・・・それが、悪い結果を生まないことを願っている」
「・・・悪い結果?」
「ああ。────きみなら分かるだろう?」
ウーヴェが暗に示した悪い結果が何であるのかを考えるのか、広げた足の間で組んだ親指をくるくると回転させ始めるが、程なくしてその動きが止まり、この世で最も恐ろしい何かを見るような目つきでウーヴェを睨んでしまう。
「・・・まさか」
「さっきも言ったが、彼女は私たちが考える以上に聡明だ。母親とはいえ利用されている事に気付けば、また心を閉ざすかも知れないし、今度は声が出なくなるだけではすまないかも知れない。可能なら保護した方が良い」
「・・・そっちか。アルマが親を殺すなんて普通は考えられねぇよなぁ」
「?」
リオンがボソリと呟いた言葉を全て聞き取れずに違和感だけを覚えつつも初めて診察をした時から診察から診察の間に必ずきみが持って来てくれた手紙からもそれは窺える事だと目を伏せ、彼女の行き先に心当たりはないのかと問われてリオンの表情が一変する。
「・・・マザーが何か聞いてるかも知れねぇ。確かめる」
「ああ。取り越し苦労だと良いのだけれど・・・」
リオンの焦りが滲んだ声にウーヴェが微苦笑しつつ答えたとき、ドアがノックされる音が響き、二人同時に診察室のドアを見つめてしまう。
「どうぞ」
「失礼します。・・・先生、お茶の用意とお客様をご案内いたしました」
「客?」
有能であることが日を追うごとに知らしめてくれるオルガの働きぶりに満足しているウーヴェだったが、そんな彼女の口から客だとの言葉が出てきた時、咄嗟に語気を強めてしまうが、そんなウーヴェの様子に負けることなく頷いたオルガは背後にいる客に入室を促す。
「診察時間には少し遅れてしまいましたが、大丈夫ですよね、先生」
オルガが用意しているお茶と何故かチョコレートが器に入りきらないほど盛られている事に気付き、彼女の背後へと二人が目を向けると、恐る恐るといった様子でオルガの腰の少し上辺りから少女の顔が見え隠れする。
「アルマ!?」
真っ先に反応を示したのはリオンで、その言葉に釣られてウーヴェも目を見開くと、オルガの身体の陰からたった今まで二人の間に重い空気とともに話し合っていた少女が姿を見せる。
「────リ、オン・・・」
「!?」
顔を出したアルマが掠れた声でリオンを呼び、二人同時に驚愕から身体を起こして少女の前に駆け寄ると、言葉を覚えたばかりの子どものようにリオンの名を繰り返すが、ウーヴェへと視線を向けた後、先生という小さな声が流れ出す。
「アルマ・・・お前、声が出るようになったのか?」
「・・・う、ん。ママに、ね、イヤだって言いたかったの」
ホームに母親が迎えに来たときの様子を聞かされていたリオンは、嫌だと言いたいのに声が出ないもどかしさを乗り越えるだけではなく、それを切っ掛けにして声を取り戻したのだと少女に教えられてきつく目を閉じると、大きな温かな掌でアルマの頬を撫で、彼女の身体に恐怖から来る緊張などを感じなかったため、そのまま小さな身体を抱きしめる。
「・・・良かったなぁ、アルマ!」
お前は本当に頑張り屋だと少女を手放しで褒めたリオンは、まるで己が褒められている時のような顔でウーヴェを振り返ると、アルマが戻って来るだけではなく声まで取り戻したと満面の笑みを浮かべる。
その顔を見た瞬間、ウーヴェの頭のてっぺんからつま先までを一気に電流に似たものが駆け抜け、その衝撃に身体がびくりと揺れてしまい、突如生まれた身体の反応に己でもかなり驚いてしまう。
「ドク?」
「何でも無い。・・・アルマ、もう声を出せるようになったのか?」
「うん。でも、まだ・・・」
声が掠れる時が多く、喉も痛いと咳き込みながら告げた為、オルガが彼女の背中をそっと押して窓際のチェアに案内する。
「お茶とチョコレートを用意したから先生とリオンと一緒にここでお茶を飲んでね、アルマ」
「・・・ありが、とう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
オルガに案内されてソファに座ったアルマに遅れてリオンとウーヴェも腰を下ろすが、どうやってここまで来たのかをリオンが問いかけると、アルマの頭が少しだけ右に傾き、ママに送って貰ったと笑ってリオンを見るが、ウーヴェが経験上、リオンは直感で何かを感じ取ったように口を閉ざしてしまう。
「・・・アルマ、これからはママと一緒に暮らすのか?」
得てしまった感覚に内心焦りつつも平静さを保って問いかけるウーヴェに少女の頭が左右に振られ、リオンがいた孤児院が良いと呟いた為、三人がリオンの顔を見つめてしまうが、オルガが我に返ったような顔でトレイを胸元に宛がい、外で仕事をしている、今日はもう診察の予約が入っていないからゆっくり話をしてくれと言い残して診察室を後にする。
「・・・ママが、アルマと一緒が良いって言ったけど、ベッキーが怒ってるからイヤだって言ったの」
少女がジュースとチョコを嬉しそうに見つめながら当然のように呟いた言葉は、アルマがチョコを食べて良いかと二人に問いかけるまで身動きが取れなくなるような衝撃を与えるものだった。
「あ、ああ、もちろん、好きなものを食べて良い」
「ありがと、先生。ベッキーがね、ママと一緒にいればあの男がまたアルマの嫌がることをするから、ママとは離れて暮らしなさいって」
孤児院から母親に連れて行かれた時にはベッキーは反対しなかったが、母親が新たに借りたアパートで落ち着いた時に話を聞かされ、その直後から彼女が反対をし始めたと、無邪気に語る少女に二人は絶句してしまう。
「・・・ドク、アルマの言葉は・・・」
「ウソはないと思うが・・・」
ベッキーと言うのは間違いなく殺されたアルマの叔母だろうが、その叔母の声が聞こえると語る真意が分からないとウーヴェが眉を寄せ、リオンが初めて見せるような顔でウーヴェの腕に手を重ねる。
「ドクっ!俺、お化けやクランプスは専門外なんだけどっ!」
「・・・私も専門外だ。きみは教会のすぐ傍で育ったのだろう?」
悪魔払いやエクソシストに知人はいないのかと、大人二人が挙動不審に陥ってしまった様子を小首を傾げて見ていたアルマだったが、ベッキーが言っていたことは本当だったと呟いて悪戯が成功した顔で笑う。
「アルマ?」
「・・・ベッキーがね、そう教えてくれた」
少女の言葉に衝撃から先に立ち直ったのはウーヴェで、それはいつ聞いたと問いかけながらチェアの上で座り直し、ベッキーがいなくなる前と呟いたことから表情を切り替えると、彼女は本当にきみが大切で大好きだったんだなと目を細め、頷くアルマの頭をそっと撫でる。
患者にこうして触れることなどほとんどしないウーヴェだったが、自然と彼女の髪を撫でると一瞬驚いた様に目を丸くしたアルマは、次いで初めてウーヴェやリオンが目にするような子どもらしい笑みを浮かべ、照れたように小さく笑い声を上げる。
「えへへ・・・先生がベッキーを好きって言ってくれるの、嬉しい」
自分が好きな人が褒められることに関して年齢は関係なく、基礎学校に通う年齢の少女であっても嬉しいのだとアルマの様子からウーヴェが察し、少しだけ表情を和らげて彼女の目を見つめると、照れたように首を竦める。
「そうか?」
「うん。リオンのも好きだけど、先生のがもっと好き」
「ありがとう、アルマ」
再度髪を撫でた後隣で呆然としているリオンへと視線を向けたウーヴェは、どうしたと言葉ではなく問いかけると、我に返ったリオンが頭を犬か何かのように激しく振った後、レベッカは今はいないのかと声を潜め、アルマが満面の笑みでいないよと笑ったことから安堵に胸を撫で下ろすが、同じ言葉が繰り返されたとき、アルマに変化が生まれる。
「ベッキー、もう、いないよ・・・」
呟かれる言葉に少女が抱えるにしては大きすぎる感情が籠もったことに気付いたのはウーヴェではなくリオンで、勢いよく立ち上がったかと思うとスカートを握りしめて俯き肩を震わせるアルマの頭に大きな手を載せ、見上げてくる少女を軽々と抱き上げる。
「・・・ベッキー、もう、いないっ・・・!!」
「・・・ああ。そうだな。でも・・・絶対に彼女はお前のことを見守ってる。いつでもどこでもお前を守ってくれる。だから泣くのは今だけだ」
これから先、お前が生きていく上で悲しみや悔しさの涙を流すだろうが、そんな時には必ずベッキーが傍にいることを思い出せと告げ、己の肩にしがみついて泣きじゃくるアルマの背中を優しく撫でる。
ただ慰めの言葉を伝えるだけではなく、また気休めを言う訳でも無いリオンのその言葉を意外そうな顔で聞いていたウーヴェは、リオンが横目で合図を送ってきたことに中々気付かなかったが、視線を感じて蒼い目を見つめると、後で話があるが、今少しだけ二人きりにしてくれないかと囁かれて二度三度と頭を上下させてしまう。
「・・・ダンケ、ドク」
「あ、ああ」
少し呆然としながら診察室を出たウーヴェは、不安そうに見つめて来るオルガに気付き、カウチソファに腰を下ろしながら診察室のドアを見つめる。
「先生?」
「・・・本当に、考えられないほどの表情を持っている男だな、彼は」
「え?」
ウーヴェの独白にオルガが小首を傾げると、何でも無いと頭を左右に振りつつ苦笑し、さっきは驚いたと彼女の顔を見ると、少しだけ表情を硬くさせたオルガが差し出がましいことをしましたと謝罪の言葉を口にしたため、怒っているわけではないと苦笑を深くする。
「少し驚いただけだ」
こちらこそ機転を利かせて貰って助かったと礼を言い、彼女の様子はどうだと問われて目を伏せ、組んだ膝頭を意味もなく掌で撫でてしまう。
「レベッカが死んだ事実を受け入れようとしている」
それは少女にとっては途轍もない大きな作業になるが、それをあの数多の表情を持つリオンが今傍にいて支えているとのだと気付くと、ころころ変わる表情や目にする確率が圧倒的に高い笑顔の奥に、アルマが親に連れ去られたと教えたときのあの昏い顔が隠れている事にも気付く。
初めてリオンが抱える暗部を目の当たりにしたのだとウーヴェが気付くのは暫く経ってからだったが、あのような手に負えない表情をするときもあるのかと、当然と言えば当然の疑問に我ながら苦笑する。
「────本当に、面白い男だな」
その独白にオルガが黙ってウーヴェの横顔を見つめるが、カウチの肘置きで頬杖をつきながら診察室のドアを見つめているウーヴェはその視線に気付かず、ドアが開いて泣き腫らした目を真っ赤にしたアルマが顔を洗いたいと小さく呟いたため、オルガがウーヴェよりも先に立ち上がって少女の手を取り、トイレへと案内をする。
「ドク」
「あ、ああ、どうした」
「・・・うん、ダンケ、ドク。アルマをホームに送ってくる」
「そうだな」
今日は診察どころではないだろうし、それ以上に大切な、彼女の将来を決める話し合いがこの後行われるのだろうと頷いたウーヴェにリオンが左右に視線を泳がせるが、目を逸らしたまま鼻の頭を引っ掻きだしたため、どうしたんだと苦笑交じりに問いかける。
「・・・えーと、その・・・」
「?」
ここに昏い顔をしてやってきたときや診察室で同じ顔で親についての己の思いを吐露している時から考えると想像も出来ないほど挙動不審な様子であぁだのうぅだのと口ごもるリオンにだからどうしたと苦笑を深くするウーヴェだったが、アルマを送ってくるが、もう一度来ても良いだろうかと、上目遣いに見つめられて眼鏡の下で瞬きを繰り返してしまう。
「も、もちろん、来ても良いが・・・」
その質問を口にするだけでそれほどまでに慌てなければならないのかと驚愕から問いかけると、更にリオンが口の中で不明瞭な言葉を発したため、聞こえないとウーヴェが眼鏡を押し上げながら口調を厳しくしてしまう。
「あーもー!恥ずかしいからに決まってんだろ!ドクのくそったれ!!」
「・・・誰がくそったれなんだ、リオン・フーベルト?」
「ぎゃー!!!」
ごめんなさーいと、まるで学校で一番恐ろしい教師に睨まれた子どものような顔で頭を抱えてその場に蹲ったリオンを呆然と見下ろしたウーヴェだったが、ギャップの激しさと震える背中に自然と笑いが込み上げてきて、ついに堪えきれずに吹き出してしまう。
「ドク・・・?」
「・・・本当に、楽しい男だな、きみは」
「あー、そんなことを言うー」
「いや、誰が見てもきっと同じ事を言うと思うな、うん」
だからこの今の笑いに関しては不可抗力だと、目尻に溜まった涙を拭きながらウーヴェが弁解すると、途端にリスか何かのように頬が膨らむが、見る見るうちに頬袋が解消され、そこには惚れ惚れとするような極上の笑顔が浮かび上がる。
ああ、破顔一笑とはきっとこのような顔を現すのだろうと感心しつつ呟いたウーヴェに、リオンが若干照れつつも手を出し、今日は恥ずかしいところを見せた、忘れてくれとは言わないが是非忘れてくれと言い放ち、呆気に取られるウーヴェの手を握って片目を閉じる。
「ドクには格好いい俺を見ていて欲しいからなー」
「ごめんなさーいって叫んで蹲るような?」
「・・・ドクのトイフェル、悪魔」
己の希望を一言で粉砕したウーヴェを涙目で睨み付けたリオンは、トイレから出てきたアルマを見つけると、早くホームに帰るぞと八つ当たり気味に声を張り上げる。
「リオン?なんで怒ってるの?」
「何でもねぇ!」
「アルマ、孤児院に帰って少し話をする事があると思うが、周囲にいる大人の力を借りるんだ」
血の繋がった親とは暮らせないが、きみのこれからの人生を豊かにするためには労力を惜しまない大人が孤児院には沢山いるだろう、その人達の力を借りるんだと目を細めると、アルマがリオンを真っ先に見上げ、次いでウーヴェとオルガの顔を見ると、大きく頷きリオンの手を取る。
「うん」
「・・・リオン」
「・・・な、なんだっ?」
「話し合いが終わって落ち着いたら来てくれ」
アルマの今後の人生が光に満ちたものになるように全力を出すだろうが話を聞かせて欲しいと、患者と医者の関係ではなく、友人に頼み事をするような顔でリオンを見たウーヴェは、戸惑いや躊躇いではなくただ嬉しいと言いたげな顔で頷かれて無意識に安堵の溜息を零す。
「もちろん」
「ああ」
「フラウ・オルガも今日は迷惑を掛けてしまったけど、後で話をしにきます」
「ええ、お願いします」
リオンが二人の顔を交互に見た後、再度アルマを抱き上げて頬にキスをすると、マザーやゾフィーにお前のことを相談しようと頷き、お騒がせしましたーと陽気な声を残してクリニックを出て行く。
二人を見送ったウーヴェとオルガは、何だか嵐が去った後のようだと苦笑しつつも、台風一過の時のような不思議な心地よさも感じているのだった。
リオンとアルマが帰ってからオルガと二人終業に向けて書類整理をしたり明日の診察に備えて注意事項の確認をしあったりしていたが、その時間になってもリオンは戻って来なかった。
今日はお疲れ様と、習慣になりつつある一日の労いの言葉を掛け合い、気にはなるが帰りますと苦笑するオルガを見送ったウーヴェは、彼女のデスクに尻を乗せ、ぼんやりと両開きの扉を見つめてしまう。
今日だけでも一体いくつの表情を見せられたのかを思い出すと同時に、まるで真冬の太陽のような暖かさすら感じさせる男にあのような昏い顔をさせてはいけないのではないかとの思いと、彼の顔を暗くさせるものとは一体何かという疑問が芽生え、親という言葉が自然と思い浮かんでくる。
教会が運営する孤児院で育ったと教えられたが、自分には親はいないとの言葉から察するに、物心ついた時には既に孤児院にいたのだろうが、それだけが親という存在に昏い顔を向ける理由だろうかと思いを馳せたとき、脳裏に父の顔が浮かび上がり、それを掻き消すように頭を激しく振ると、親に対する憎しみならば彼にも負けないほど己も抱いていることを今更ながらに思い出してしまう。
「・・・似たもの同士、なのかも知れないな」
外見的特徴も性格も何もかもまったく違うリオンと己だが、根幹を成すものはもしかすると鏡に映し出したかのように同じものかも知れないと気付き、親という存在に対する愛憎の深さをこの時改めて感じてしまい、このままつらつらと思考に自由な旅をさせているととんでもない場所に辿り着いて宝箱よろしく決して開けてはならない箱を開けそうな気がしたため、もう一度頭を左右に振って伸びをした時、ドアがそっと開いて隙間からくすんだ金髪が見えてくる。
「・・・もう話し合いは終わったのか?」
「あ、や、ドク、まだいたんだ?」
「・・・きみが来ても良いかと言っていたので待っていたのだが?」
「あー、ははは、その・・・遅くなりました」
中に入って頭に手を宛がうリオンを眇めた目で見つめたウーヴェだったが、遅くなったと反省の言葉を述べられて溜飲を下げてしまい、分かればよろしいと口でだけ厳しいことを言いながら眼鏡を押し上げる。
「今日は色々迷惑を掛けて悪かった」
「いや、気にしなくて良い」
謝罪を改めてするリオンに頭を左右に振って気にするなと伝えたウーヴェは、少し話をしたいと思ったから待っていたと答え、眼鏡の下の目元を和らげるが、リオンの蒼い目が限界まで見開かれて沈黙してしまった事に気付いて首を傾げる。
「リオン?」
「・・・アルマじゃねぇけど、ドクに待ってたとか言われるの、何かすげー嬉しい」
「そうか?」
「そう。理由は分かんねぇけど、何でだろうな」
先程は少女が大好きだった叔母を褒められたことが嬉しいと笑ったが、今目の前で己とさほど年の変わらない男が待っていたというただその一言が聞けた喜びに目を伏せて感動すら覚えている様子にウーヴェが呆然としてしまう。
己は言葉を巧みに操れるわけでもなければ人の心を容易く動かせる技術を持っているわけでもないが、何でも無い一言で予想外に喜ばれてしまえば嬉しくない筈がなかった。
だから、先程よりももっと柔和な、このクリニックでは滅多に見せない穏やかな笑顔でありがとうと素直に礼を言うと、見る見るうちにリオンの顔が赤くなっていく。
「・・・あれ、何か暑くなった?」
「きみの顔は赤くなっているな」
リオンの様子に小さく笑みを零したウーヴェは、デスクから立ち上がると同時にもし良かったら飲みに行かないかと誘いかけ、壊れた人形のようにリオンの頭を上下させることに成功する。
「行く行く!」
「じゃあ行こうか」
この間はきみが紹介してくれた店だったから今日は自分が紹介しようとも笑い、クリニックを閉める準備をするから少しだけ待っていてくれとリオンに背中を向けて診察室に入ったウーヴェは、出てきた時にもまだリオンが呆然としている事に気付いて苦笑する。
「どうした?」
「・・・ドクってさ、そんな顔して笑うんだな」
「そんな顔とはどんな顔だ」
「んー・・・春先の太陽みたいな顔」
照れつつも素直に己の感想を口にしたリオンに今度はウーヴェが驚き絶句してしまい、同じようについつい素直になってしまう。
「太陽は・・・きみだろう?」
「へ?」
「────っ!な、なんでもないっ!」
「えー、ドク、今なんて言ったんだよ?」
「何でも無いと言っただけだ!」
お互いに顔を赤らめつつなんと言った、何でも無いと言い合いをしているバカらしさにほぼ同時に気付いて吹き出した二人は、それはどうでも良いがこの後の店についてはなるべく早く出かけた方が良いとウーヴェが提案し、リオンもそうだったと大きく頷いたため、クリニックの戸締まりを確認したウーヴェが一足先に両開きのドアの外に出たリオンを追いかけるようにドアから出て、診察終了の札を丁寧にドアに掛けると、この後の時間で更にどんな顔を見せてくれるのかを密かに楽しみにしつつ、すっかり学生時代からの友人のような顔で隣に並ぶくすんだ金髪とロイヤルブルーの双眸の持ち主の横顔を少しだけ見つめるのだった。