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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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信じてもらえますか、と聞かれても、私の目は「信じる」ためのものではない。
見えるのは、ぶれるか、ぶれないか。それだけだ。
「宮下さん。一つだけ、言い切ってもらえますか」
私は会議室の扉を閉めて、彼女の正面に座った。眼鏡を外す。
「久我部長とは、どういう関係ですか」
宮下さんは、ハンカチを握りしめたまま、私の目を見た。
「部長とは、そういう関係ではありません」
三秒、四秒、五秒。
輪郭は、一本の線のままだった。
ぶれない。
「……わかりました」
「信じて、くれるんですか」
「私は、宮下さんが本当のことを言ったのを、見ました」
彼女は少しだけ不思議そうな顔をして、それからまた、左の耳たぶをつまんだ。
「写真の日、ホテルには行きましたか」
宮下さんの指が、耳たぶの上で止まった。
「……ロビーの、ラウンジで、お話をしただけです」
「何のお話を」
彼女は、唇をきつく結んで首を振った。
「それは、言えません。部長に、迷惑がかかるので」
迷惑がかかるのは、不倫の噂が立っている今より、もっと困ることなのだろうか。
彼女の鞄の持ち手に、白いプラスチックの札がクリップで留めてあった。面会者用の入館証だ。どこの病院のものかまでは、読めなかった。
*
久我部長には、四十三階の小会議室に来てもらった。
四十九歳。白髪の混じった短い髪、よく日焼けした顔。広報の顔らしく、背筋がまっすぐ伸びている。
社長は窓際に立ち、腕を組んでいた。
「宮下さんとの関係について、お聞きします」
「どうぞ」
部長は、膝の上で両手を組んだ。
「宮下とは、そういう関係ではありません。社長にも、会社にも、恥じるようなことは一つもしていない」
一本の線。
宮下さんと、同じ言葉だった。
「写真の日、ホテルには行かれましたか」
部長は、すぐには答えなかった。
「……あの日のことは、申し上げられません」
言い切りではない。私の目では、判定できない。
けれど、そう口にした瞬間、部長の眉の内側だけが、ほんの一瞬、持ち上がった。〇・二秒。すぐに元に戻る。
――罪悪感、ではない。
あれは、悲しいときの眉だ。
この人は、何かを隠している。
けれど隠しているのは、不倫ではない。悲しいことだ。
部長は考えるとき、左の耳たぶを親指と人差し指でつまむ癖があった。
私は、その指先から目が離せなかった。
*
「あの写真のホテル、どこだか知ってる?」
昼休み、一階の受付の奥。まどかが、紙パックのいちごオレのストローを噛みながら言った。
「総務に回ってきたの、広報のメールの件。私も見ちゃった。あれ、御茶ノ水のホテルだよ。後ろにちょっとだけ写ってる白い建物、大学病院。うちの派遣の子が、前にあそこの受付やってたの」
「大学病院」
「そう。救急の入口の赤いランプ、あれで一発」
それから、まどかは声を落とした。
「あとね、久我部長って、バツイチなんだって。二十年くらい前。奥さんが、まだ小さかった娘さん連れて出てったって。広報の古い人はみんな知ってる話」
「娘さんの名前は」
「さすがにそこまでは知らないよ。名字も、奥さんのほうに変わってるだろうし」
名字が、変わる。
私はストローの袋を、指先で小さく折り畳んだ。
親が別れたり、死んだりすると、子どもの名字は変わる。
変わった名字を名乗っている人間は、周りから見れば、元の誰とも関係のない人になる。
私が、そうだった。
「灯? 顔、怖いよ」
「……ごめん。ありがとう、まどか」
「お礼は、社長室のいいお菓子でいいからね」
*
その日の夕方、私は三十階の広報部に、もう一度降りた。
宮下さんは、自分の席で、私が来るのを待っていたみたいに立ち上がった。
非常階段の踊り場で、二人きりになった。
私は、長い前置きをしなかった。
「久我部長は、宮下さんのお父さんですね」
宮下さんの肩が、びくりと跳ねた。
彼女は、私の顔を見た。それから、左の耳たぶに手を伸ばしかけて、その手を、ぎゅっと胸の前で握った。
「……どうして」
「お二人とも、考えるときに、同じところをつまむので」
宮下さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりとうなずいた。目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
母が病気なんです、と彼女は言った。
御茶ノ水の大学病院に、春から入院している。手術をするかどうか、決めなければいけない。母の兄弟はみんな遠くに住んでいて、相談できる大人がいなかった。
「だから、一度だけ、父に会ってほしいって、私から頼んだんです。病院の近くのホテルの、ラウンジで。母のことを、話しただけです」
入社したのは、父がいる会社だと知っていたからだ、とも言った。
でも、それを誰かに知られたら、父の評価にも、自分の評価にも、色がつく。
だから二人で決めた。会社では、部長と新人のままでいようと。
「部長、私のこと、『宮下くん』って呼ぶんです。一回も、名前で呼んだことないんです」
宮下さんは、泣きながら笑った。
「なのに、あの写真のせいで、全部」
私は、彼女にポケットティッシュを渡した。
ポーチの中の古いハンカチは、なぜか、渡せなかった。
*
夜。目黒川沿いの家の、黒いダイニングテーブル。
社長が帰りに買ってきたという、総菜屋の煮物と焼き魚を、二人で並べていた。味噌汁だけは、私が作った。
全部を話し終えると、社長は箸を置いた。
「二人は、それを公にする気はないのか」
「ありません。宮下さんの評価も、部長の評価も、変わってしまうので」
「なら、告発が嘘だと証明するには、二人の秘密を出すしかない」
「出しません」
私は言った。
「二人の秘密は、出さずに守ります。そのかわり、あの告発文を書いた人を見つけます。嘘をついたのは、あの二人ではありませんから」
社長は、しばらく黙って私を見ていた。
それから、焼き魚の骨を、ゆっくりと外しはじめた。
「君は、嘘を暴くより、守る方が上手いのかもしれないな」
一本の線。
私は、何と返せばいいかわからなかった。代わりに、自分の皿の魚の骨を外した。
いつのまにか、社長が外した身のほうが、私の皿に載っていた。
名字の変わった子ども。
宮下さんの話をしているあいだ、私は一度も、自分のことを言わなかった。
この人の机の一番下の引き出しに、私の元の名字が入っている。そのことも。
向かいで黙って箸を動かす社長の手元を見ながら、私は、喉の奥まで来ている言葉を、味噌汁と一緒に飲み込んだ。
*
翌朝。三十階、広報部。
告発文の見出しの書体と、写真の撮られた角度を、私はもう一度、頭の中で並べていた。
あの写真は、ホテルの真正面からではなく、道路を挟んだ斜め向かいから撮られている。病院の救急入口の赤いランプが、ちょうど写り込む位置から。
偶然、通りかかって撮れる写真ではない。誰かが、待っていたのだ。
フロアの島の一つで、何人かが固まって話していた。
「でも、写真があるんだから」
「写真は嘘をつかないですからね」
その声に、聞き覚えがあった。
窓際の席。七三に分けた髪、銀のカフス。三浦課長補佐が、部下たちに向かって、穏やかに首を振っていた。
写真は嘘をつかない。
そう言う人は多い。けれど写真は、本当のことも、何ひとつ言わない。
私は、三浦さんの顔を見ていた。
彼が、ふとこちらを向いた。目が合う。
三浦さんの笑顔が、一瞬だけ止まった。
次の瞬間、彼は机の上のスマホをつかみ、何も言わずに席を立った。
コメント
1件
うわあ……第13話、すごく沁みました。写真は嘘をつかないって言葉がこんなに重くなるなんて。主人公が「ぶれない線」で人の真実を見極めるスタイル、かっこよすぎます。宮下さんと久我部部長が親子だった真相にはグッときました。同じ耳たぶをつまむ癖って、そういう細かい描写が刺さるんですよね。社長との夕食シーン、お互いの過去を抱えながら言葉にしない距離感が切なかった。ちゃんと守ろうとする主人公の姿勢が、この物語の優しさそのものだと思います。最後の三浦課長補佐……次が気になります! (198字)