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草原草原

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草原草原

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三浦課長補佐は、その日の午後から在宅勤務になった。
「体調不良のため、とのことです。今週いっぱい、自宅から業務にあたると」
柏木室長が、申請書の写しを社長の机に置いた。提出時刻は、十時四分。私と目が合ってから、二十分も経っていない。
「広報部の聞き取りは、ビデオ会議でなら応じる、と本人が申し出ております」
社長は、申請書を指で弾いた。
「逃げたな」
「あるいは、本当に体調が悪いのかもしれません」
私が言うと、社長は横目で私を見た。
「君は、どちらだと思う」
「わかりません。まだ、見ていませんから」
*
聞き取りは、三時から、社長室の大きなモニターで行われた。
画面の中の三浦さんは、自宅の書棚を背にして、紺のカーディガンを羽織っていた。髪は、いつもどおりきっちり七三に分けてある。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。少し、熱っぽくて」
私は、社長の斜め後ろの椅子で、眼鏡を外した。
画面の中の顔を、見た。
何も、見えなかった。
輪郭は一本の線でも、二重でもない。ただの明るい画像だった。眉は動いている。口も動いている。けれど、その下にあるはずの小さな揺れが、全部、画面の表面でつるりと消えてしまう。
テレビのニュースキャスターを見ているときと、同じだ。
「三浦さん。広報部に届いた告発文に、心当たりはありますか」
柏木室長が、手帳を開いて尋ねた。
「ありません。部長と宮下さんのことは、私も驚いているんです。正直、残念です」
「告発文の写真について、何かご存じですか」
「いいえ、何も」
画面越しの「いいえ」は、ただの音だった。
私は、膝の上で眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
読めません、の合図。
社長は振り返らなかった。けれど、机の上の指先が、一度だけ止まった。
聞き取りは、十五分で終わった。三浦さんは丁寧に頭を下げ、画面が暗くなった。
黒い画面に、外した眼鏡を持った私の顔が映っていた。
「読めなかったか」
「はい。画面を通すと、何も見えません」
「理由は」
「わかりません。昔から、そうなんです。写真も、映像も、電話も」
私は、眼鏡をかけ直した。
「あの人は、それを知っていたのかもしれません」
「知っていたのか、たまたまか」
「どちらにしても、同じです。私の目は、あの人には届きません」
社長は、黙って窓の外を見た。
それから、短く言った。
「なら、どうする」
私は、机の上の、告発文の印刷物を見た。
社内便で、社長室の通報の束に紛れ込んでいた一枚。
「顔が読めないなら、紙を読みます」
*
紙は、何も喋らない。
けれど、ときどき、喋るよりも多くを残している。
印刷物は、カラーのA4だった。社内のどの部署でも使っている、ごく普通の再生紙。
見出しの書体、写真の粗さ、余白の幅。どれも、それだけでは誰が刷ったかを教えてくれない。
「瀬名さん」
柏木室長が、自分の手帳型のケースから、小さなペンライトを取り出した。先端が、青く光る。
「カラーの複合機は、印刷物に、その機械の製造番号を刻み込みます。肉眼ではほとんど見えない、黄色い点の並びで。偽札対策です」
「……室長、どうしてそんなことを」
「以前、社内の怪文書の調査を担当したことがございます」
室長は、表情を変えずに、ペンライトの光を紙の余白に当てた。
青い光の中に、ごく小さな黄色い点が、規則正しく浮かび上がった。
まるで、星座みたいに。
「点の配列を読み取れば、製造番号がわかります。社内の機器は、すべて総務部の機器管理台帳に登録されています」
室長は、ようやく私の顔を見た。
「台帳の閲覧は、総務の許可が要ります。私が正式に申請すれば、二日かかります」
二日。
その間に、三浦さんは何でも片付けられる。
私はスマホを取り出して、一階の受付に電話をかけた。
「まどか。総務の、機器管理台帳って、見られる?」
『……見られるけど。何、また何か始まってるの?』
「製造番号を一つ、照合してほしい」
『あのさあ、それ、借りたって言わないでよ?』
まどかの声は、もう半分笑っていた。
*
二十分後、まどかから届いたメッセージは、短かった。
『三十階、広報部。窓際の奥の、古いカラー複合機。撮影用の資料を刷るやつ。社員証をかざさなくても印刷できる、最後の一台だって』
窓際の奥。
三浦さんの席の、すぐ後ろだ。
柏木室長が、広報部の座席表と、出入りの記録を並べた。
告発メールが送られた日の前夜、二十一時十二分。広報部のフロアに残っていたのは、三浦さん一人だった。
それから、もう一つ。
来週から始まる広報部の昇進面談。三浦さんは、次長への昇格の候補だった。面談官は、久我部長。昨年度の評価で、三浦さんに一番低い点をつけたのも、久我部長だった。
社長は、それらを一枚ずつ見て、最後に紙を伏せた。
「在宅勤務の申請は、却下する」
「社長」
「明日の朝九時、広報部の部内会議だ。三浦も出席させろ。社長命令だ」
*
翌朝、九時。三十階の会議室。
広報部の全員が、長机を囲んでいた。久我部長は、一番奥の席でまっすぐ前を見ている。宮下さんは、その対角の端で、膝の上で手を握っていた。
三浦さんは、ドアに一番近い席に座っていた。顔色は、昨日の画面の中より、ずっと悪かった。
社長は、何も言わずに壁際に立った。
私は、三浦さんの正面に座った。眼鏡を外す。
画面ではない、本物の顔。七三の分け目。銀のカフス。こめかみに浮いた汗。
「三浦さん。はい、か、いいえで、お答えください」
私は、黄色い点の浮かぶ印刷物を、机の上に置いた。
「この印刷は、あなたがしましたか」
「……いいえ」
言い終えた直後、三浦さんの目が、すっと横へ滑った。
長机の奥の、久我部長の顔へ。信じたかどうかを、確かめるように。
――ぶれた。
「今の、嘘です」
会議室の空気が、止まった。
柏木室長が、台帳の写しと、前夜二十一時十二分のフロアの記録を、机の上に並べた。
「この印刷物は、三浦さんの席の真後ろにある複合機で刷られています。その時間、フロアにいたのは、三浦さんお一人です」
三浦さんの喉が、大きく上下した。
「そ、それは、たまたま残業していただけで」
「写真は、どなたが撮りましたか」
私が聞くと、三浦さんは口を開いて、閉じた。
胸ポケットのスマホを、無意識のように手で押さえていた。
社長が、壁際から一歩前に出た。
「告発の中身は、私が確認した。事実無根だ」
平らな声が、会議室の隅まで届いた。
「三浦。君は、面談の前に、自分の評価者を潰そうとした。部下を一人、巻き添えにして」
三浦さんは、それきり何も言わなかった。
三浦課長補佐は、懲戒処分のうえ、翌月一日付で北陸の子会社へ出向となった。
久我部長と宮下さんの関係は、会議室の誰にも説明されなかった。
知っているのは、社長と私だけだ。
会議室を出るとき、久我部長が私の横で、深く頭を下げた。何も言わなかった。
宮下さんは、廊下の角で、左の耳たぶをつまんだまま、小さく手を振った。
*
帰りの車の中で、右のこめかみが脈を打ちはじめた。
朝から何十人の顔を見ただろう。会議室の十二人、廊下の人たち、エレベーターの人たち。
窓に頭をもたせかけて、目を閉じた。
ふいに、こめかみに冷たいものが当たった。
目を開けると、社長が、ペットボトルの水を私の右のこめかみに押し当てていた。後部座席の肘掛けの、小さな保冷庫から出したらしい。表面に、細かい水滴がついている。
「……社長」
「動くな」
冷たさが、脈打つ痛みの上に、ゆっくり広がっていく。
「顔を見すぎだ」
社長は、前を向いたまま言った。
「今日はもう、私以外見るな」
一本の線。
私はペットボトル越しに、彼の横顔を見ていた。言われたとおりに。
*
目黒川沿いの建物の前で、車が止まった。
社長が電話に出るために車に残り、私は先にエントランスへ向かった。
ガラスの自動扉の向こうに、誰かが立っていた。
明るい栗色の巻き髪。赤いリップ。夜のロビーに浮かび上がるような、白いパンツスーツ。
細いヒールが、大理石の床でかつりと鳴った。
女は、私を頭からつま先まで眺めて、赤い唇の端を上げた。
「あなたが、怜さんの”嘘発見器”ね」
コメント
1件
**はる。だわ!** めっちゃ面白かった! 画面越しだと相手の嘘が読めないって設定、今回のエピソードでめちゃくちゃ効いてたな。三浦が在宅勤務に逃げたのは「“見えない”から」っていうのが、あとで効いてくる伏線だったんだな。印刷物から製造番号を特定するところも、地味だけどリアルでいい。そして最後の社長のペットボトル冷やし “今日はもう私以外見るな” はキュンと来た…❤️ 最後の女の登場で次回がめっちゃ気になる!🔥