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第八十九話 春を待つ時間
三月。
大学の活動も、
湊の撮影の仕事も少し落ち着き始めていた。
街を歩けば、
冬の冷たさの中に少しだけ春の気配を感じる。
湊はカメラを持って、いつもの道を歩いていた。
撮影の予定があったわけではない。
ただ、何となくシャッターを切りたくなった。
交差点で信号を待つ人。
コンビニから出てくる親子。
ベンチに座って話している学生。
以前なら、そんな風景を見ても
「普通の日常」としか思わなかった。
今は違う。
その一つひとつにも、それぞれの時間がある。
誰かにとっては、何でもない一日。
誰かにとっては、忘れたくない一日。
湊はカメラを構えた。
シャッターを切る。
その日の夜、紬と電話をした。
「最近、春っぽくなってきたよね」
紬が言う。
「うん。そろそろ桜も咲きそう」
「去年は卒業の時期だったね」
その言葉を聞いて、湊は少しだけ黙った。
一年。
高校を卒業してから、もう一年近くになる。
あの頃は、
こんなふうにそれぞれ違う場所で
夢を追っているなんて想像していなかった。
「早いな」
「ほんとに」
少しの沈黙。
でも、不思議と気まずくはなかった。
以前なら、
沈黙が続くと何か話さなければと思っていた。
今は違う。
相手が何も話していない時間も、
そのまま受け入れられる。
「湊」
「ん?」
「去年より、写真変わったよね」
突然言われて、湊は笑った。
「そう?」
「うん。前より、人をちゃんと見てる感じがする」
その言葉は、湊の中に静かに残った。
「……紬も変わったと思う」
「私?」
「うん。前より、自分から人に話しかけるようになった」
「それは……大学で鍛えられたからかな」
二人で笑った。
夢に向かって進むということは、
何か大きなことを
一気に成し遂げることではないのかもしれない。
毎日の小さな変化。
昨日できなかったことが、今日は少しできる。
昨日見えなかったものが、今日は見える。
そんな積み重ねが、いつか自分の進む道になる。
電話を切ったあと。
湊は今日撮った写真を見返した。
その中に、春を待つ木が一枚あった。
まだ花は咲いていない。
枝だけが空に伸びている。
けれど、よく見ると小さな芽がついている。
湊はその写真を保存した。
タイトルは、
『春を待つ時間』
だった。
📷 Photo.089「春を待つ時間」
撮影日:3月3日
まだ咲いていないからこそ、
そこに残せるものがある。
湊は写真を見ながら、そんなことを考えていた。
春は、もうすぐそこまで来ている。
そして二人の一年目も、終わろうとしていた。
――次回、第九十話「一年目の終わり」へ続く。
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コメント
1件
うわあ、このエピソード、すごく沁みましたね。湊が「以前なら普通の日常としか思わなかった風景」を撮るようになったのって、彼の中で明らかに何かが変わった証拠だと思うんです。紬が「写真変わったよね、人をちゃんと見てる感じがする」って言う場面、ここが個人的に一番刺さりました。あと、沈黙を気まずく感じなくなったっていう二人の距離感、一年かけてじっくり育んできた信頼が感じられて…「春を待つ時間」というタイトルも、まだ咲いてないからこそ残せるものがある、っていう湊の気づきも含めて、本当に優しい一話でした。