名のある丘をいくつも覆い尽くす迷わずの森と呼ばれる広大な森林の中央に、いつの頃からか迷宮派という都があった。神秘を切り拓いて築かれた街を魔の者どもは好かないのが常だが、例外的に彼らの嬖愛を得た黄昏に寄り添う街だ。知に魅入られた者が冬の星空のように秘密が隠された無辺の森に分け入れど、街へと至る人の道を見つけることはない。しかしワーズメーズを目指す者の中にその街にたどり着けない者はいないという。
街を目指して進んでゆくと、やがて幽鬼が乗り越えることのできない背の低い不思議な石垣に突き当たる。これは街を長々と悠々と囲んでいるが、石垣を超えたところですぐに人に会えるわけではない。この不思議な地にあっても例外なく、あいかわらず橄欖や木栓樫の木々は意地悪く生い茂り、街に建ち並んでいるはずの尖塔の先さえ見ることは出来ない。
しかし、特に初めて訪れた者は得てして驚くのだが、ワーズメーズの訪問者が石垣を超えた後にその森で迷うことは難しい。かの伝説に名高い灰色の彷徨者とて容易ならざることだろう。道というものを嫌いがちな子供でも杖を奪われた盲者でもその気さえあれば、気が付くと迷宮都市と称される街ワーズメーズにたどり着いてしまう。
たどり着いてみれば、これ程奇妙な街は見たことがないと、初めて訪れた者は一様に溜息を漏らした。怪鳥の止まり木、もしくはその肉串となる針のように鋭い尖塔。ありとあらゆる妖精が唾を吐きかける偉大な魔法使いの大理石像と彼が導いた戦の戦勝記念に聳え立つ石柱。夏の夜空を表すようにと言えば聞こえの良い、無造作な陶板で乱雑に舗装された道、あるいは屋根、もしかすると広場。誰かがひっくり返して以来そのままにされた信仰なき寺院。試しに横向きに建造されたという死霊を慰める鐘楼。
ほぼ街の中心に位置しているワーズメーズ運営委員会の議事堂を除けば、これらの建築物は十年と待たずに姿を消す。本当に目に見えなくなる例は別にしても、取り壊されるか、取り壊されるのを待たずして壊れるのがこの街の一般的な建築物の在り方だった。猫の歩幅に合わせた奇妙に捻じれた階段や、異常に繊細に芋虫の彫刻を施された露台。床と天井の違いが分かっていない者が建てたのだろう数々の家屋。美を見出す者は少ないが飽きの来ない魔の都だった。
荒野を出てからのユカリたちの道のりは穏やかなものだった。優しい風の吹く古い街道を行き、十二のなだらかな丘の間を行き、六つの清らかな小川を超え、二つの賑やかな街を通り過ぎた。
とうとう行き着いたデミバータの森に入り、苔生した低い石垣を超え、ユカリは魔導書の気配を感じ、舗装された道が見つかり、木々がまばらになり、木漏れ日がいっぱいになって、ようやく建物が見えたところで、予めそうしようと決めていたかのようにパディアが立ち止まる。ユカリもビゼもつられて立ち止まる。
この街にはビゼの知人である魔導書の所有者がいる。しかし魔導書自体はこの街に二つあるのだという。詳しいことは着いてから教えてくれるとユカリは聞いていた。
はやるユカリの前に立ちはだかるように向き直ったパディアは、不安と慈愛が混ざったような妙な微笑みを浮かべている。
「さて。ユカリ。ワーズメーズでの注意事項についてなんだけど」
「またかい? パディア」とビゼが愚痴をこぼす。
「一番大事なことをまだ伝えてません」パディアはビゼに釘をさす。「それともこの旅を終わりにしたいのですか?」
「そうだったけ? ああ、いや、そうだったね。まあまあ、そんなに睨まないでよ。もちろん旅を続けたいさ」
見たこともない大きな街の一部を前にして、背伸びし、つま先立ちし、目を細め、そわそわしつつユカリはうわの空で答える。
「ええ、大丈夫です。もう覚えました。滅茶苦茶な建物、無理無体な街路、支離滅裂な広場、ですね。早く見てみたいです。わあ、見てくださいあの建物。トメトバも大きな街だったけど、あんなに高い建物は無かったですよね。あんなものをどうやって建てるんでしょう? もしかして巨人でしょうか? 巨人ならあんなに大きな建物も子供の石積遊びみたいに簡単に出来てしまうのでしょうね」
石垣を超える際も、デミバータの森に入る際も注意事項をユカリは聞いた。暗唱出来るほどに繰り返されても、都市への興味は衰えなかった。
「いいえ。気を付けるなんてものじゃないわ。確かにこの街は変な造りではあるんだけど、そこはさして問題じゃないの。この街には遥か昔から様々な奇人変人の魔法使いが棲み続けているわ。そして彼らは、ある理由があって、ありとあらゆる迷う仕掛け、呪いや魔術をこの街に施してきたの。自分が迷わないように気を付けてどうにかなるものではなくて、街の方が積極的に人間を迷わせに来るのよ」
街の中心の方ほど高い建物が多いことにユカリは気づいた。塔だけではない。丘のような建物の色とりどりの硝子窓が光を反射している。楕円形の黄金の屋根に鳥ではない小さな何かが蠢いている。立ち昇る煙は星々の赤子のように煌めいている。
ユカリは早く駆け出して見物したいのに、パディアは注意と注意、あと注意しかしなかった。
「でも、この街には人が住んでいるのですよね?」とユカリは疑問を呈する。「それも沢山の人たちが。老若男女。子供も異国の人も。だとすればそんな場所で生活できるんですか? とても不便だと思うんですけど」
「彼ら魔法使いたちの営みを生活と呼んで良いものか分からないけど、まあその通りね。不便なのも確かだわ」パディアはため息しつつ頷く。「だけどここで生活することは出来るの。それについての説明がまだだったわ。ちょっとしたものなのよ。彼らには、そしてこの街に来た誰にでも、迷いの呪いにまみれながら必ず迷わない方法があるわ」
「私、あまり魔法は詳しくないですし、呪い除けなら魔法少女になっちゃった方が手っ取り早いかもしれません」
そこにビゼが口を挟む。「いや、調べたところ魔法少女の服の呪い除けは直接ユカリに働きかける類の呪いに限ったもののようだよ」
「ええっと、それは確か」と言ってユカリはこれまでにビゼと共に調べたあれやこれやを思い出す。「私自身を操ったり変化させたりすることは出来ないけれど、例えば魔法で生み出した剣や炎を防ぐことは出来ないという話でしたよね。でも迷わせる呪いなら、人そのもの、私そのものにかかる呪いではないんですか?」
「そういう呪いもあるし、それに関してはユカリさんの言う通り心配はないと思う。だけどワーズメーズに満ちている呪いの中には直接街の形を変えたり、存在しない幻像を浮かべるものがあって、魔法少女の衣装ではこれを除けることは出来ない。それに魔法少女に変身すること自体、魔法使いの多いこの街では控えた方が良い。そこから魔導書を所持しているとまで推測することはできないだろうけど、誰も見たことのない魔法を使えば、控えめに言っても注意を引くだろう。パディアに心配をかけたくないなら言うことを聞くことだね」
ユカリはパディアの顔を見上げる。そこには義父や義母が浮かべていた本物の不安、心配が見て取れた。
「じゃあ」と言ってユカリはパディアの手を握り、急かすように引く。「パディアさんとずっと手を繋いでいればいいですね。どうせ一緒に街を回るわけですし」
「それこそ油断よ。ユカリ」と言ってパディアは大きな両手でユカリの手を包み込む。「次の瞬間には見知らぬ魔法使いの青銅像の手を握っていてもおかしくないの。そういう街なのよ、ここは」
ユカリは眉根を寄せつつも、遠目にも不思議な街の風景に何度も目をやった。何かが引っかかった。不思
議な建物、不思議な格好の人々。
「その簡単な方法、迷わないで済むちょっとしたものっていうのは何ですか?」
パディアは自分の精悍な頬を指さして、口角を持ちあげた。
「笑いよ」とパディアは言うが、ユカリは街の方を見ていた。
ユカリが引っかかりを覚えたのは道の先を歩いて行く少女だった。その少女が建物の角を曲がった時、その理由が分かった。何度も見た横顔。異国の民の血を示唆する顔立ち。神秘を隠した夜闇のような黒髪。朝日を照り返す新雪のごとき白肌。遠目であっても見間違いではないとユカリを確信させた。
「ユーア!」とユカリは叫んだ。
何も考えずにパディアの手を離してしまい、ユカリはワーズメーズの街へと駆け出す。
確かにユーアが石造りの建物の角を曲がったのを見た。ユーアの影を追って、馴染みのない踏み心地の石畳の坂を駆け下り、建物の角を曲がる。そこは大らかな様子の広場だった。中心に厳めしい花崗岩の噴水があり、青々とした芝生が陽光を浴び、和やかな雰囲気で市民が思い思いに憩っている。
ここにいる人たちのほとんどが魔法使いなのだと思うとユカリは少し変な気分になった。ミーチオン都市群において最も魔法使いの多い街だ。しかし魔法使いとそうでない人間の違いを見分けることにユカリは慣れていない。
オンギ村で魔法使いを名乗るのは義母のジニだけだった。他にも多少の魔法を使える人物は多々いたが生業のために魔法を使っているだけで、魔法を生業にしているわけではなかった。
ユーアの姿はどこにもない。広場を中心にいくつかの道が放射状に延びているが、どの通りにもユーアの姿はない。
ユカリは広場の隅の立派な山毛欅の木陰で休んでいる気の良さそうな老人に話しかける。
「すみません。少女を見かけませんでしたか? 私の胸くらいまでの背で、髪が黒くて、赤茶色の瞳で、肌が白くて、服は……」
老人は穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。「申し訳ないが見かけなかったよ。私の目はあまり良くないが、君以外に子供が通りかかっていないのは断言できる。それに、子供を探しているのなら、まずは君が迷子をやめなければ」
はっと気づき、ユカリは振り返る。ビゼもパディアもいなかった。
そして、さっき自分の曲がった石造りの建物の角さえ見つからなかった。近くのどこにも石造りの建物などない。この広場を囲む建物は主に赤茶色の煉瓦で造られていた。妖精の悪戯でも、こうも大掛かりなことはないだろう。パディアに注意された直後にこのような事態に陥り、ユカリは自分が恥ずかしくて、自分に呆れてしまった。
老人に丁寧に礼を言うと、ユカリは楽し気な噴水の近くに設えられた長椅子に座り、大きなため息をつく。
迷子はユカリの人生で二度目だった。一度目は故郷のオンギの村からできるだけ遠くへ行こうとした時のことだ。世界の端にたどり着いたら引き返せばいい、そう考えていたが結局森の中でまごついているところを義父ルドガンに連れ戻されたのだった。
その後も何度かユカリは村を飛び出そうとしたが、自分がどこにいるのか分からなくて困るということはなかった。どこにいたって構わなかったからだ。
パディアたちが見つけてくれるだろうか。それとも自分たちが探さなければならないだろうか。まさにこうならないための方法を聞く直前にはぐれてしまうなんて、と自身の愚かしさにユカリは顔が熱くなる。
パディアの言葉を思い返すが、思いのほか覚えていなかった。
「えーっと、迷わない方法? 何だっけ? グリュエー」とユカリは尋ねたが返事は返って来なかった。「グリュエーまで迷子になったの?」
「迷子になったのはユカリだけ。グリュエーは吹きたいところに吹く」と耳元で風が囁く。
「もう、不安になるじゃない。どこに行ったのかと思った」
「この噴水。グリュエーに似てる。友達になれるかも」
「そうだね。背中に水をかけないでって言ってくれる?」
「噴水と話せるのはユカリ。グリュエーは風だから、風以外にはユカリとしか話せない」
「無理だよ。言ってなかったっけ? 私、人見知りなんだよ。見ず知らずの噴水といきなり話すなんて」
「さっき知らないおじいさんと話してた」
「おじいさんは噴水じゃないからね。おじいさんじゃなくて青銅像だったなら話せたかも」
お爺さんが休んでいた木陰にはさっきまでは存在していなかった青銅像が立っていた。偉そうにふんぞり返った女性の胸像だ。
自分は青銅像と話していたのか、おじいさんが青銅像に変身したのか、その逆か。単におじいさんと入れ違いに青銅像がやって来て木陰で休んでいるのか、ユカリには分からなかったし、分かろうとするのも棚上げにした。
頬杖をついて胸の中に立ち込めた靄を全て吐き出そうともう一度ため息をつく。
「何なのこの街……」とユカリは唸るように呟く。
「ワーズメーズへようこそ、お嬢さん」
鈴の転がるような声を聴き、ユカリが顔をあげると、可愛らしい女性の琥珀色の眼差しと目が合った。
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