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#⛄️
kaede🍁
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目黒の家を出てから。
阿部は、行くあてもなく歩き続けた。
朝から降り始めた雨は、昼を過ぎても止まなかった。
傘なんて持っていない。
髪も。
服も。
バッグも。
すっかり濡れていた。
それでも阿部は歩いた。
立ち止まってしまったら。
目黒の家へ戻りたくなる気がしたから。
ポケットに手を入れる癖が出る。
けれど。
そこにスマホはない。
置いてきた。
目黒が買ってくれたものだから。
それに。
持っていたら。
きっと連絡してしまう。
『めめ。』
たった二文字。
送ってしまえば。
目黒は迎えに来てくれる。
そんな確信があった。
だから。
置いてきた。
(……寒い。)
雨の中。
どれくらい歩いただろう。
足が動かなくなってきた頃。
阿部は小さな店の軒先で立ち止まった。
花屋だった。
店先には。
雨に濡れないように並べられた色とりどりの花。
綺麗だな。
そう思った。
そのまま。
阿部はしゃがみ込んだ。
___________
「ねえ、大丈夫?」
顔を上げる。
年配の女性が心配そうに阿部を見ていた。
「……大丈夫です。」
反射的に答えた。
「大丈夫な人は、こんな雨の中ずぶ濡れで座ってないわよ。」
奥から男性も出てくる。
「とにかく中に入りなさい。」
「でも……。」
「風邪引くよ。」
その言葉に。
胸が痛くなった。
似ている。
『夜だから危ない。』
あの日。
目黒も。
自分を放っておかなかった。
「……。」
涙が出そうになって。
阿部は俯いた。
「……ありがとうございます。」
___________
老夫婦は。
何も聞かなかった。
温かい飲み物を出してくれて。
タオルを貸してくれた。
そして。
阿部が行くところがないと知ると。
二階を指差した。
「上、空いてるよ。」
「……え?」
「昔は私たちが住んでたんだけどね。」
「今は近くの家に移ったから。」
「でも……。」
阿部は慌てる。
「そんなことしてもらえません。」
「だったら。」
奥さんが笑った。
「ここで働いてくれない?」
「……。」
「最近二人だけじゃ大変になってきたの。」
「力仕事も増えてね。」
旦那さんも笑う。
「住み込みの店員さんがいたら助かる。」
まただった。
行き場をなくした自分に。
仕事と。
住む場所をくれる人。
「……俺。」
阿部の目から涙が落ちた。
「一生懸命働きます。」
「うん。」
「何でもします。」
「そんなに頑張らなくていいよ。」
「でも……。」
「ここにいてくれれば、それで助かる。」
また。
似た言葉。
阿部は泣きながら笑った。
「……ありがとうございます。」
___________
それから。
阿部は花屋で働いた。
朝早く起きる。
店先を掃除する。
水を替える。
花を並べる。
名前を覚える。
最初は。
何も分からなかった。
「これは?」
「ガーベラ。」
「こっちは?」
「トルコキキョウ。」
「……難しい。」
老夫婦に教えてもらいながら。
一つずつ覚えた。
どうすれば。
もっと花が売れるだろう。
小さなブーケを作ってみた。
店先の黒板に。
おすすめの花を書くようにした。
SNSの使い方を覚えて。
毎日。
綺麗な花の写真を載せた。
記念日用。
誕生日用。
ちょっとしたプレゼント用。
用途ごとに。
分かりやすく花束を作った。
「最近、若いお客さん増えたわね。」
奥さんが嬉しそうに言う。
「阿部さんのおかげだ。」
旦那さんも笑う。
「そんなことないです。」
そう言いながら。
阿部も嬉しかった。
恩返しがしたかった。
助けてもらったから。
今度こそ。
もらってばかりではいたくなかった。
___________
給料が入るたび。
阿部は少しずつ貯金した。
生活に必要な分だけ残して。
あとは。
ほとんど使わない。
目標があった。
目黒に返す。
病院代。
服。
スマホ。
食費。
住ませてもらった期間の家賃。
正確な金額なんて分からない。
だから。
多めに貯めようと思った。
全部返せたら。
目黒への迷惑が。
少しだけ減るような気がした。
でも。
阿部自身。
本当は分かっていた。
お金を返したところで。
何も返せない。
怖くて眠れなかった夜。
隣の部屋に目黒がいるだけで安心できたこと。
初めて「めめ」と呼んだ時の笑顔。
一緒に作った夕飯。
帰宅する目黒を待っていた時間。
『ただいま。』
『おかえり。』
そんなものに値段なんて。
つけられなかった。
昼間は忙しかった。
だから。
大丈夫だった。
花を触って。
お客さんと話して。
老夫婦と笑って。
新しい花束を考えて。
一生懸命働いていれば。
目黒のことを考えずに済んだ。
問題は夜だった。
店を閉めて。
二階へ上がる。
「……ただいま。」
誰もいない部屋。
当然。
返事はない。
阿部は、自分で言ってから悲しくなった。
「……何言ってんだろ。」
電気をつける。
夕飯を作る。
一人分。
それにも。
まだ慣れなかった。
目黒と暮らしていた頃は。
一人の日だってあった。
なのに、全然違う。
あの頃は。
帰ってくると分かっていた。
今日は一人でも。
明日は。
明後日は。
目黒が帰ってくる。
今は。
もう。
帰ってこない。
ベッドに入る。
目を閉じる。
すると。
どうしても。
思い出す。
『あべちゃん。』
目黒の声。
『おかえりって言ってくれた。嬉しかった。』
「……。」
阿部は布団を頭まで被った。
「思い出さない。」
呟く。
でも。
無理だった。
目黒の笑顔。
目黒の声。
大きな手。
料理をしている背中。
ソファで隣に座っていた温もり。
全部。
鮮明だった。
「……めめ。」
呼んでも。
返事はない。
それが。
一番辛かった。
「……会いたい。」
涙が落ちる。
「会いたいよ……。」
好きだった。
今だって。
好き。
本当は。
お金を返すことを理由にして。
いつか。
もう一度。
目黒に会いたかった。
(……ごめんね。)
自分からいなくなったくせに。
会いたいなんて。
勝手すぎる。
阿部は枕へ顔を埋めた。
___________
翌朝。
目が腫れていた。
鏡を見て。
(……ひど。)
冷たい水で顔を洗う。
そして。
一階へ降りる。
店を開ける。
花に水をあげる。
「おはよう、阿部さん。」
「おはようございます。」
いつものように。
笑う。
今日も。
頑張る。
一輪でも多く誰かに花を届ける。
少しでも多く貯金する。
いつか。
目黒に全部返せるように。
そしてその日が来たら。
「ありがとう」だけは。
ちゃんと顔を見て言おう。
それ以上は望まない。
そう決めているのに。
阿部は店先に並べた花を見ながら。
ほんの少しだけ考えてしまった。
もし。
この店の扉が開いて。
「見つけた。」
そう言って。
目黒が入ってきたら。
自分は。
どんな顔をするのだろう。
たぶん。
泣いてしまう。
そして。
きっと。
もう一度離れることなんて。
できなくなってしまう。
だから。
会わない方がいい。
そう思うのに。
店の扉が開く音がするたび。
阿部は今でも。
ほんの一瞬だけ。
目黒だったらいいのに、と願ってしまっていた。
コメント
1件
ああ、もう…読んでて胸がぎゅっとなったわ…。雨の中、スマホも置いて、ただひたすら歩く阿部の姿が目に浮かんで辛かった。花屋の老夫婦の優しさに救われるところはほっとしたけど、夜になって「ただいま」って言っちゃうシーンで泣きそうになったよ。目黒のいない日常にまだ慣れなくて、それでも必死に働いて、いつか「ありがとう」を言うために頑張ってる阿部の強さと脆さがすごく伝わってきた。最後の「目黒だったらいいのに」って願い、切なすぎる…。