不思議と底に惹かれるように落ちていく身体にもがくことなく、そっと水面を見上げる。空に上がる月から降る光がやけに眩しく映り、自然と目を細めてしまった。
落ちる直前に見た、涼ちゃんの表情が朧気に脳裏に浮かぶ。もし涼ちゃんが助けに来て共に飛び込んでしまえばどちらも危険に晒されるというのに、頭の中では何処か期待してしまっていた。
「涼架」
そう名を呼ぼうと口を開くが声にはならず、身体に残る酸素が行き場を求め海に溶け消えていく。身体が酷く重い。この広い海に全て身を委ねてしまいたくなる。
手足が徐々に痺れてきた。酸素が足りていない。そう頭では理解しているのに、いくらもがいても呼吸は出来ない。
息が苦しく、自然と込み上げてくる咳で視界が阻まる。それなのに尚も己を照らす月明かりの煩わしさに手を伸ばせば、誰かに力強く腕を掴まれた。
沈みかけていた意識を取り戻すように指先を絡め合わせ、水面を目指し上へと引き寄せられる。
周りの深い青が鮮やかさを取り戻していく。助かった、そう安堵するのも束の間。何とか継いでいた息が出来なくなる。
空いていた手で相手の袖を引くと、振り向いた瞳と初めて目線がかち合った。光を後ろにした姿は儚く、君を囲む碧達に今にも溶け入りそうだった。水に遊ばれた長い髪も全てが美しくて、目が離せない。
綺麗、だと伝えたかった。少ししか残らない酸素を使い切ってでも、この命が尽きてしまおうとも、言葉を交わしたかった。
精一杯の笑顔を作り、口を開く。だけど言葉は紡げなかった。代わりに触れたのは柔らかい唇で、ゆっくりと肺が酸素で満たされていく。
上手く状況が理解出来ず困惑する俺から顔を離すと、君はまた手を引いた。今度はその手を強く絡め返し、これから言われるであろう言葉に表情を緩ませる。
昔の借りは返した、と君は言うだろうか。
「っ、……はぁ、!!…げほ、っ、けほっ…、」
「滉斗!!大丈夫!?!?」
引き上げられた重い四肢を砂浜に放り出し、濡れた肌に砂が纏わりつくのも気にせずに必死に酸素を取り込む。喉に残る痛みも怠い身体も全部が最悪だ。
「、涼ちゃん……」
倒れ込んだ俺の顔を心配そうな瞳で覗き込む涼ちゃんの息は何故か正常に整っていて、海の中に居たであろう証は、濡れた長い髪から地面に滴り落ちる水滴のみだった。さっきの頭の中は生きることに必死だったが、少し冷静になった今数々の疑問が出てくる。昔の涼ちゃんは海に落ち、溺れていてしまったはず。俺を助けられる程泳ぐのが上手くなったなんて知らなかった。それに、何故そんなに呼吸が持つのだろうか。陸に上がったばかりだというのに変に息が整っている。そんな疑問を投げかけようとするが、先程まで生死を彷徨っていた身体では上手く声が出ない。
「おい!!!大丈夫か!!」
肺に入った水を吐き出そうと幾度なく咳を繰り返していると、砂浜の遠くの方から複数の足音と声が聞こえてきた。反射的に振り向いた涼ちゃんの瞳が大きく揺らいだ。何故だか嫌な予感がして、座り込んだままの涼ちゃんに手を伸ばすが、突然鈍く頭が痛み思わず俯いてしまった。
「、っ…、!いっ……た…」
地面を映す俺の視界に映っていた涼ちゃんの足が、砂を蹴る音と共に離れていく。追いかけなきゃ、そう本能が言っていた。痛む頭を抑えながら何とか顔を上げるが、もうそこには錆びたネックレスしか残されていなかった。
「滉斗…、!!あいつにやられたのか!?」
「だからこの街に置いておくべきじゃなかったんだ……!!」
沢山の大人達が俺を取り囲み、あれやこれやと疑問を投げかけてくる。きっと”あいつ”というのは涼ちゃんのことを指しているのだろう。涼ちゃんにやられてなんかない。寧ろ助けてくれたんだ、と言いたいのに、痛みが増す重い頭と酷い耳鳴りに言葉を発す余裕がない。
震える指先でネックレスに手を伸ばし、砂ごと力強く握りしめる。遠さがる意識の中、俺は願った。
もう一度君に会えるように、と。
コメント
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更新ありがとうございます!! はぁぁ…!! 私の大好きなシーンです😭😭😭 ありがとうございます!! こんな美しい場面を書いてくださって本当にありがとうございました。 読んでいて幸せな気持ちになります🥺 初めて『手を取って』を読んだ時の文章の美しさへの感動が思い出されました。 涼ちゃんの儚い美しさと海の美しさが、重なって見えて、何回も読んで味わいたいです。