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黒豹のノワールは獣人。
もともとは子どもに恵まれなかった人間の夫婦に引き取られ、思いのほか優秀だったため、次期当主として期待され、スパルタ教育を受けて育てられた。
教育が始まる前までは、夫婦は優しく穏やかで、ノワールも安心して日々を過ごしていた。
だが教育が始まると、二人は別人のように冷たく、厳しくなった。
ノワールはそのギャップに胸を痛めながらも、期待に応えようと必死に努力した。
しかしある日、夫婦に亀裂が生じる。
夫がメイドと子どもを作ってしまったのだ。
毎日の夫婦喧嘩に加え、義母からは八つ当たりのように厳しく当たられ、勉強を押し付けられるノワール。
義父はメイドの世話に追われ、顔を見せることすらなくなった。
ノワールは逃げ出したくなるが、時折、初めて出会った頃のように優しくなる義母の面影が忘れられず、離れられない。
そんな日々の中、ある日義父がノワールの部屋に入り、静かに告げた。
「すまない。お前を次期当主にすると言ったが、期待するな」
雷に打たれたような衝撃のあと、世界がひどく静かになった。
耳鳴りの奥で、義父の声だけが遅れて届く。
(……僕が、今までやってきたことは)
必死に覚えた文字。
血が滲むまで続けた訓練。
褒められるたびに、胸の奥が少しだけ温かくなった感覚。
それらが、音もなく崩れていく。
義父は目を合わせなかった。
部屋の壁、書棚、床——どこか遠くを見ながら、淡々と言葉を重ねる。
「アイツと……義母と話し合った結果だ。
人間の方が体裁がいいだろう、ということでな」
喉が、ひくりと鳴った。
「メイドには、このまま子どもを産ませる。
……ノワール、その」
一瞬だけ、ためらいがあった。
その一瞬に、かすかな希望が差し込んだ気がしてしまった。
「お前じゃダメだ、なんて思っているわけじゃない」
否定の言葉なのに、救いにはならなかった。
「だが、お前は獣人だ」
その一言で、すべてが終わった。
「わかってくれ」
わかる、という言葉が何を指すのか、ノワールにはもう分からなかった。
尻尾が、意思とは関係なく床に垂れ落ちる。
黒い耳が、ゆっくりと伏せられる。
胸の奥にあったものが、ずるりと抜け落ちた。
——まただ。
期待され、
しがみつき、
応えようとして、
最後に突き放される。
雷に打たれたあとの身体は、痛みよりも先に、重さを失う。
足元が崩れ、音もなく落ちていく感覚。
ノワールは、再び谷底へ突き落とされた。
義父の靴音が遠ざかっても、部屋の空気は変わらなかった。
静寂の中で、ただ一つ、確かなものがあった。
——ここに、居場所はない。
それでも、不思議と涙は出なかった。
泣く理由すら、もう奪われてしまったからだ。
次の日、ノワールはいつも通り、夜が完全に明ける前に目を覚ました。
身体は勝手に動く。考えるより先に、長年染みついた習慣が彼女を起こした。
顔を洗い、机を拭き、椅子を引く。
教本を並べ、背筋を伸ばして座る。
——先生は、もうすぐ来る。
そう思うことすら、意識には上らなかった。
ただ、そうなるものだと信じていた。
時計の針が一つ進む。
二つ進む。
廊下は静かなままだった。
遠くで、使用人たちの足音がする。
食器の触れ合う音。
朝の支度が始まっている気配。
それでも、扉は開かない。
胸の奥が、じわりと冷えていく。
(……遅いな)
そう思った瞬間、はっとして、耳がぴくりと動いた。
足音。こちらに近づいてくる。
期待が、反射的に立ち上がる。
——けれど。
現れたのは先生ではなく、家令だった。
彼は扉の前で一度だけ立ち止まり、必要最低限の礼をして告げる。
「本日より、ノワール様の勉学はすべて中止となりました」
その言葉は、説明でも、謝罪でもなかった。
ただの報告だった。
「……中止?」
声が、自分のものとは思えないほど低く響いた。
家令は書類を一枚差し出す。
そこには整った文字で、予定がすべて線で消されていた。
今日。
明日。
来週。
その先も。
「先生方には、すでにお伝えしております」
それだけ言うと、家令は踵を返した。
理由も、慰めも、続きの言葉もない。
扉が閉まる。
音は静かだった。
あまりにも、あっけなく。
ノワールは、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。
教本の表紙に、朝の光が当たっている。
昨夜まで、未来だったもの。
それが今は、ただの紙の束だ。
手を伸ばしかけて、止める。
触れたら、何かが決定的に終わってしまう気がした。
——ああ。
理解は、感情よりも先に来た。
期待は、もうされていない。
必要とされる理由も、なくなった。
勉強がキャンセルされたのではない。
自分が、キャンセルされたのだ。
その事実だけが、静かに、確かに、部屋に残った。
部屋に、音がなかった。
朝の光が机の上を滑り、教本の角を白く照らしている。
整えられた背表紙。
几帳面に揃えられた紙。
——全部、まだそこにある。
それが、ひどくおかしかった。
ノワールはゆっくりと立ち上がった。
足音を立てないように、癖のまま。
机の前に立ち、教本を一冊手に取る。
何度も開いたページ。
書き込みの跡。
自分の癖が染みついた文字。
指先に、力がこもる。
ばり、と紙が裂けた。
思っていたより、あっさりだった。
抵抗もなく、音も軽い。
もう一度。
今度は、背表紙ごと。
裂けた紙片が、床に落ちる。
黒い体毛の上に、白い紙が散った。
胸が、少しだけ楽になった。
次の一冊。
その次も。
音は小さいのに、確実に壊れていく。
積み重ねてきた時間が、形を失っていく。
最後に残ったのは、先生からもらった古いノートだった。
端が擦り切れ、何度も直された跡のあるもの。
一瞬、手が止まる。
——褒められた日のことを、思い出してしまった。
その瞬間が、一番、いけなかった。
ノワールはノートを床に置き、爪を立てた。
黒い爪が、紙を深く引き裂く。
裂け目が、中心から広がっていく。
完全に、戻らない。
息が荒くなっていることに、ようやく気づいた。
耳が伏せられ、尻尾が床を叩く。
それでも、涙は出なかった。
壊したのは、物だけじゃない。
「期待に応える自分」そのものだった。
床に散らばった紙を見下ろしながら、ノワールは思う。
——これで、いい。
もう、誰の期待にも縋らなくていい。
期待されないなら、応える必要もない。
部屋の扉の向こうで、誰かの足音がした。
けれど、もう隠す気にはなれなかった。
壊れたままで、いい。
それが、ノワールが初めて選んだ、
自分の意思だった。
「ノワール様っ……」
声と同時に、背中に温度が触れた。
驚くほど、やさしい手だった。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、身体がその温もりを受け入れかける。
——やめろ。
考えるより早く、反射が勝った。
ノワールは身をひねり、振り払う。
獣人の力が、無自覚に込められた。
短い悲鳴。
乾いた音。
次の瞬間、視界に赤が走った。
使用人の腕に、細く長い傷が刻まれている。
黒い体毛の間に、鮮やかな血が滲んだ。
「……っ、大丈夫です、から……」
そう言いかけた彼女の声が、途中で震えた。
世界が、止まる。
——やったのは、僕だ。
胸の奥が、ぎゅっと潰れた。
息が、吸えない。
違う。
そんなつもりじゃない。
触れられただけで——
言い訳が、頭の中で渦を巻く。
けれど、現実は変わらない。
血は、確かに流れている。
「ごめ……」
声にならなかった。
視線が合う。
彼女の目には、責める色はなかった。
ただ、困惑と心配だけがあった。
それが、耐えられなかった。
——もう、だめだ。
これ以上、ここにいたら。
誰かに触れたら。
また、壊してしまう。
ノワールは踵を返した。
呼び止める声が聞こえた気がしたが、振り向かなかった。
廊下を走る。
足音が、いつもよりうるさい。
扉を押し開ける。
冷たい空気が、肺に突き刺さる。
——逃げたい。
逃げる理由は、もう十分だった。
家の外に飛び出し、石畳を駆ける。
背後で、誰かが名前を呼んだ気がした。
それでも、止まらない。
走りながら、さっきの光景が何度も蘇る。
優しい手。
赤い血。
振り払った、自分の腕。
胸が、焼けるように痛い。
——優しくされる資格なんて、最初からなかった。
そう言い聞かせながら、
ノワールは家を出た。
振り返らずに。
ただ、走った。
どこへ向かうでもなく、ただ足が動く限り。
石畳が土に変わり、道が細くなり、景色が知らないものに変わっても、止まれなかった。
胸が焼ける。
肺が悲鳴を上げる。
それでも、走ることだけはやめなかった。
——止まったら、思い出してしまう。
血の色。
やさしい手。
振り払った自分。
どれくらい走ったのか、分からない。
時間も、距離も、意味を失っていた。
やがて、足がもつれる。
視界が揺れ、地面が傾く。
もう、だめだ。
速度が落ち、走るのをやめ、ふらふらと歩く。
一歩ごとに、世界が遠のいていく。
(……歩けない)
膝が、崩れた。
地面に手をつこうとして、力が入らない。
身体が横に倒れ、冷たい感触が頬に触れる。
空が、ひどく明るい。
なのに、輪郭が滲んでいく。
——ここで、終わりでもいい。
そんな考えが、頭をよぎった瞬間。
「……大丈夫ですか?」
声がした。
遠くからのようで、すぐ近くのようでもある。
はっきりしない。
「ねえ、聞こえていますか」
優しい声だった。
命令でも、問い詰めでもない。
影が、視界に落ちる。
白っぽい布の端が、揺れた気がした。
何かを言おうとして、喉が動かない。
耳が、かすかに動いた。
「……獣人……?」
驚きよりも、戸惑いの色が混じった声。
それでも、嫌悪はなかった。
次の瞬間、何かが肩に触れた。
さっき拒んだはずの、誰かの手。
——また、壊してしまう。
そう思ったところで、意識が途切れた。
世界が、静かに暗転する。
ノワールの記憶は、そこで終わっていた。