かつてはビトラの恵みにささやかな喜びを享受していただろうデノクの港町は、荼毘に付されたかのように跡形もなく失われていた。人影はなく、誰にも顧みられない古い王の陵墓のように静まり返っている。
ユカリとベルニージュ、それにノンネットたちも甲板へ出て、空っぽの港町を眺める。ノンネットは再び背の階段を、今度は昇って加護官の肩の上に立っていた。やはり軽業師の如き類まれな技だ。
家々は完膚なきまでに破壊されている。豊漁を祈願する柱は倒され、祖先から受け継がれた屋根は焼け落ちている。もはやこの港を訪れた者に元の美しさ、大河ビトラも愛した青の港町を推し量ることはできない。まるで石をも灰に還す地獄の炎で焼き尽くされ、大地に根差す者には目もかけない魔性の軍勢に蹂躙されたかのようだ。すでに燻りすらなく熱は失われており、ただ声なき《怨嗟》がふらつく足取りで道も家屋も区別のつかない瓦礫の山を徘徊している。
この光景が戦争の結果によるものだけだとは、ユカリにもベルニージュにも思えなかった。間違いなくここにサクリフが訪れている、とユカリもベルニージュも確信した。
その英雄的資質によって天に慈悲を乞う人々を助けつつ、その怪物的資質によって無慈悲な天災のように街を破壊してしまったのだ。人と怪物によって何もかも破壊しつくされたのち、さらには病までこの河港に目をつけ、いかに歴戦の戦士たちとて立って戦える者はいなくなった。それゆえにサクリフが体を張って助けるべき者はいなくなり、その悲しき怪物はここを立ち去ったのだ。
街の奥の小高い丘に構える城砦はほとんど傷ついていない。重厚な石の壁は堂々たる構えを保って、街に横たわる無残な敗北の影を静かに見つめている。戦火もサクリフもそこまで届くことなく収束し、立ち去ったらしい。
ユカリとベルニージュは相談の結果、やはりこの戦場跡でも出来る限りサクリフの情報収集をすることに決めた。それにもしかしたら生き永らえる奇跡の魔導書によって流行病を退けることはできないだろうか、とユカリは考えていた。
そういうわけでユカリとベルニージュ、そして救済機構の護女ノンネットと加護官の一行だけがこの船を降りて、デノクの土地に上陸した。《幸福》と《繁栄》の他に乗船する者はいなかった。
秋も半ばを過ぎて色褪せた昼の太陽はあるべきところに収まっていたが、焼き尽くされた港街には暗い影が落ちているように見えた。炭になった石畳を恥であると覆い隠すように白い灰が深く降り積もっている。
死者すら存在しないかのような空虚な感覚を覚え、ユカリは身震いし、吐き気を催す。やはり街には誰もいない。火事場泥棒さえ近寄らない理由があるとすれば、ここはまだ危険ということかもしれない。
誰一人一言を発することもない。僧侶たちも祈りの言葉を唱えられずにいる。
「ユカリ。何かいるよ、ここ」と耳元で囁かれ、ユカリは変な声を出しそうになる。何とか堪える。
「何? グリュエー? 何がいるって?」ユカリは囁く。
「分からない。分からないけど、グリュエーに似た何か。ユカリは感じないの?」
「川風のこと? そんなのずっと吹いてたじゃない」
「違うー」そう言ったきりグリュエーは黙った。
一行は静寂に沈む焼け爛れた街を二列になって通り過ぎ、ただ一つ無事に残った城砦までやってくる。大きな門扉は左右にいっぱいまで開かれており、一行はようやく人の声を聴けた。苦しみと恨みの満ちた人間の呻き声が地響きのように聞こえたが、それでも静寂の街を通り過ぎた後であれば、人の声に不思議な安堵を感じた。
誰に咎められるでもないので、一行はそのまま砦の中へと入る。怪我人や病人が通路にまで溢れ、呻き苦しむ者たちの間を人々が忙しく立ち働いているのが見えた。
あからさまに大怪我を負っている者もいれば、一見してどのような種類の苦しみと戦っているのか分からない者もいる。立ち働いている者は精力的だが、この涼しい季節に玉の汗を流し、やはり疲れが表情に出ていた。
傷病人も看護人も救済機構の僧侶たちを見て、不思議がる者たちがほとんどだったが、中には僧侶たちに拝み、祈りの言葉を唱える者もいた。少なからず救済機構の信徒がいるのだろう。あるいは助けてもらえるのであれば何でもいい、そういう所にまで追い詰められているのかもしれない。
そして忙しいためか、作法が分からないためか、あるいはそうすべき人物が彼ら自身にも分からないためなのか、僧侶たちに対応する者はいなかった。そこで救済機構の僧侶たちは責任者を探し出すことから始めた。
ユカリとベルニージュは所在なさげに歩き回りつつ言葉に気を付けて囁きを交わす。
「生き永らえる奇跡があれば彼らは助かるでしょうか?」
ベルニージュは一つ一つ検討するように考えながら話す。「その奇跡で退けられるのは人智の及ばない宿命的な寿命か偶然的な事故だけのはず。つまり命を奪う何かから回避できても、怪我や病を癒す力はないと思う。でも、怪我や病が命を奪う、その直前で止める可能性はあるね。それが人間の敵意や害意によるものでないならだけど。とにかく実験しようがないから、分かることが少なすぎるんだよ、その魔法は」
「何にしても損はないですよね」
ユカリがそう言うとベルニージュは驚いたような表情を返す。「そりゃそうだね。違いない。悩むことなんて何もないか。とりあえず力が及ぶか観察してみよう」
ユカリたちは護女も加護官もいない通路に移動し、寝かされた意識のない怪我人のそばに屈み、脈を測るように首元に手を触れつつ、合切袋を押し当てる。
生きている。しかし、目に見えて変化はない。
「何をしているの? それで治っちゃうの?」と小さな少年に声をかけられる。
まだ男か女かも分からない幼い少年だ。赤茶色の長い髪の毛に色艶の良い肌、毛織物の服をまとっている。見た目には健康そうなその少年が、ユカリの隣で同じように屈み、押し当てられた合切袋を見ている。
「治るかどうかは分からないけど、ちょっとしたおまじないを試してみたんだよ。君は大丈夫なの?」とユカリは安心させるような微笑みを浮かべて言った。
その少年もユカリが返事したことを喜んでいるかのように微笑む。
「うん。お母さんに言われたんだ。ちょっとその辺で遊んでなさいって」
「そっか。でも、まだどんな病か分からないし、感染するものかもしれないから寝かされている人には近づかない方が良いよ。お母さんはどこ?」
「お母さんはあっち」そう言って子供は壁を指さす。
砦の反対側にいるのだろうか。方角としては港とは反対の方向だ。
「じゃあ、なるべくお母さんのそばで遊んだ方が良いよ。お母さんも心配するからね」
「うん!」子供は元気に返事をする。
ベルニージュは唸り、廊下の向こうから反対側へと視線を走らせる。
「うーん。そうか。そうだね。エイカ。正直言って魔導書に触れさせるのが最も効果が高いのだとはいえ、大規模に運用するのは難しいよ」
ユカリもそれは理解できた。一々患者に触れて周れば目立つ。いくらノンネットが良い子だとはいえ、魔導書を見せるつもりはない。
「じゃあ、しばらく要塞に滞在してもいいですか? この、これはただ近くにあるだけでも影響を及ぼす魔法なわけですし、ノンネットたちの手伝いをしながら、ただ魔導書が存在しているだけでも手助けになると思うんです。どういうものなのか、より深く知ることも出来ますし」
ベルニージュは感情を抑えた瞳でユカリを見つめる。
「駄目だとは言わないけど。いつまで? この城砦がどうなるまで?」
その問いに対する適切な答えをユカリは持ち合わせていなかった。「それは……」
「こうしている間にもサクリフは北西へ北西へと飛んで行ってるかもしれない。些細な争いの間に入って、力の余り街を潰しているかもしれない。目の前の危機が最大の危機とは限らないよ」ベルニージュはユカリの耳元で囁く。「今この世界で最も魔導書の厄災に対抗できるのは自分だということを忘れないで、ユカリ」
少し離れてベルニージュは微笑みを浮かべる。「ね?」
その微笑みから逃げるように、ユカリは少しだけ俯いた。
「はい。そうです、よね」
ふと先程の少年を探したが、そばにも廊下の向こうにももう姿はなかった。