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雨乞い
「あんたが好きだ」そう言ってくれたあの時、雨が降っていた。
ふと目を覚ます。部屋には自分以外誰もいない。当たり前だ、今はもうそういう道を選んだのだから。
編み物の途中で寝てしまったみたいだった。
糸が外れてないか確認する。今作っているのは内職というほど納期が決まっているわけではないが、お小遣い稼ぎに、完成した編み物の帽子や手袋をネットに出品して販売している。
本田は、機械に疎いので出品の時は知人に手伝ってもらっていた。編み物をするのには他にも理由がある。自分の動かしにくくなってしまった手先のリハビリだ。少しでも動かしておかないとと本田は思う。
ガタタンと家の近くの電車が通ると裸電球が揺れる、本田は部屋に唯一ある窓の外を見た。外はもう暗くなっているし窓の外には有刺鉄線があり、線路がある。その奥に大きな工場があって空はちらりとしか見えない。それでも本田は窓の外を見る癖がついていた。ふいに本田の腹の虫が小さく鳴いた。
「お腹空いたなぁ…何か食べないと」
本田はよいしょと言いながら立ち上がる。玄関の方に知人からもらったさつまいもがダンボールに入っているから茹でて食べようと思った。その時インターホンの音が鳴った、玄関に向かっていたから動かしにくい足には有難い。
「本田さん、今月の家賃なんだけど…まだもらえないかしら」
ドアを開いたら大家さんにそう言われる。本田は慌てて頭を下げた。
「すいません!今月なかなかお仕事いただけなくて…」
「困るんだよなぁ」
野太い声が聞こえた。大家さんではない男性の声。ぱっと顔を上げると大家さんを押し除けて大柄な男が玄関に入ってきた。
「噂には聞いてたけど…えらい別嬪(べっぴん)じゃねぇかぁ…あんたならいい商売が出来ると思うぜぇ?それとも俺のところに来てもらってもかまわねぇ」
ニヤニヤと本田を上から下まで見て男は笑う。
「ちょっと、本田さんはこう見えて男性なんですよ…」
大家さんが説明を入れると本田は申し訳なさそうにお辞儀しながら「男でごめんなさい」と言った。男は少し驚いていたがすぐに先ほどのニヤケ面になる。
「男には到底見えねぇけど、あんたほどのべっぴんなら」
その時男の後ろからもう1人の男性の声が聞こえた。
「すいません、お忙しいところ申し訳ないんですが少しよろしいですか?」
ざわりと本田の耳の血液の巡りが早くなる。耳の中の血管が脈を打っているかのようにドクドクとうるさい。この声は…知っている。全身が高揚感に包まれて動けなくなった。
「警察の方が何か用ですか?」
大家さんは怪訝そうな声で返答した。
「この近くで、盗難がありましてこちらにも被害が出てないか確認しにきました」
「うちは、見ての通りの佇まいだから…取られるものもないと思うけど…あ、そういえば、いくつかアクセサリーが見当たらないのよ。離れの方なんだけど…来ていただけるかしら?」
「はい」
大家と警察は離れの方に向かったようで男はいい機会とでも言うように部屋の中に入ってくる。
本田は耳を赤くして、なにやらうずくまっていた。
「おい、そこのアンタ。ちょっとお茶でも淹れてくれや、そうしたら家賃の件どうにかしてやってもいいぜ?」
「え…そんな!申し訳ないです。どうにかお金は用意しますので…もう少しお待ちいただけると」言葉の途中で男は本田の腕を強引に引いた。とっさに驚いた声が出てしまう。
「待てねぇっていってんだろうがぁ!」
男は語気を荒々しく強める。
本田はどうすればいいかわからず縮こまる。その時玄関から声が聞こえた。
「どうされましたかー?」
先ほどの、警官だった。
男は警官を睨みつけ、舌打ちをしながら玄関に出る。
ちょっと家賃を払わない人がいたんで、口論になったのだと適当に話を男はして、警官と共に出ていく。最後に本田をチラリと見たのは、まだ何かしらの思いがあるからだろう。
荒々しい時間が解けて、本田はヘタリと座り込む。ハッキリとは顔は見なかったけれど、確かに近くに愛しい人の存在を感じてしまった。
ふふっと本田は笑う。
「困ってたら、助けに来てくれるヒーローみたい」
本田は目を細めて笑った。
コツンコツンと、雨音が天井に落ちる音がする。雨が降ってきたようだ。
本田は、窓を開ける。
「俺も、ずっとずっと好きだよ。あの雨の日も、今もずっと」
『あんたが好きだ』
そう言ってくれたあの時、雨が降っていた。
ありがとう、土方くん。ありがとう。
あの時にあんな素敵な言葉をくれて。
以前にも増して、俺は雨が大好きになったよ。
今あの警官が、本田に会っても
「初めまして」から始まるのだろう
今日、本田の家にやってきたのは偶然で
会えることなんてないと思っていた本田にとって、顔が見えなくても、大好きな人の大好きな声が聞けた、それだけで胸がいっぱいだった。
だけど、望むなら一つだけ。
「雨粒さん、もし音を記憶できるなら 雨が降るたびどうか聞かせて、あの日土方くんが言ってくれた、あの言葉を。」
薄く瞳に涙を浮かべながらそう、本田は願った。