テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#異能力バトル
聖杯
523
聖杯
1,207
7
第十七話 声なき返事を、恋人の手で
朝、遠坂衛二は自分の声を確かめた。
「アストルフォ」
言えた。
自室の窓辺で、まだ朝日が薄く差し込む中、衛二は小さく息を吐いた。
昨日、返事の庭で名前を隠された。
アストルフォの名前が、喉の奥で灰色に曇った。
目の前にいるのに呼べない。
好きな人の名前が、手の中からこぼれ落ちる。
あの感覚は、まだ胸の奥に残っている。
だから今朝、最初に名前を呼べたことが、ひどくありがたかった。
名前を呼べる。
ただそれだけのことが、こんなに大事だったなんて、少し前の自分なら考えもしなかっただろう。
扉が軽く叩かれる。
「エイジ、起きてる?」
アストルフォの声。
衛二の胸に、温かいものが灯る。
「ああ。起きてる」
「入っていい?」
「いいよ」
扉が開き、アストルフォが顔を出した。
桃色の髪が朝の光を受けて、柔らかく揺れている。
恋人になって三日目。
まだ、その事実に慣れない。
それでも、昨日よりは少しだけ自然に目を合わせられるようになった気がした。
「おはよう、エイジ」
「おはよう、アストルフォ」
名前を呼び合う。
その瞬間、二人は同時に少しだけ笑った。
昨日の恐怖を覚えているからこそ、今の呼び合いが温かい。
アストルフォは衛二の前まで来ると、少しだけ緊張したように手を差し出した。
「手、握っていい?」
「いいよ」
衛二は答え、彼の手を取った。
強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい力加減。
「今日の手は?」
アストルフォが聞く。
「昨日より落ち着いてる」
「ほんと?」
「ああ。アストルフォは?」
「ちょっと怖い」
アストルフォは正直に言った。
「昨日、名前を呼べなくなったから。今日は、声も取られちゃうかもしれないって思ったら、少し怖い」
衛二の胸が重くなる。
沈黙冠の次の問い。
――声そのものを奪われた時、人はどう返事をする。
昨夜、返事の庭では白い花々が一瞬、すべての音を失ったという。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
その返事たちが、声を奪われた。
名前を隠すだけではない。
今度は、返事そのものを沈黙させようとしている。
「アストルフォ」
「うん」
「もし声が出なくなっても、手は離さない」
アストルフォの瞳が揺れる。
「うん」
「名前が呼べなくても、目を見る。手を握る。文字が書けるなら書く。書けなくても、隣にいる」
「うん」
「声がなくても、返事を探す」
アストルフォは少しだけ笑った。
まだ怖さは残っている。
けれど、その笑顔には温度があった。
「ボクも。エイジの声が聞こえなくなっても、エイジの手を覚えてる。温度も、力加減も、ぎゅーの強さも」
「ぎゅーも含まれるのか」
「もちろん!」
いつものように胸を張るアストルフォを見て、衛二は少し笑った。
その笑いが、朝の不安をほんの少しだけ薄める。
アストルフォは小さく息を吸った。
「契約、再確認していい?」
「ああ」
アストルフォは衛二の額に、そっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
柔らかい声。
「ボクはエイジのサーヴァント。そして、エイジの恋人。もし声がなくなっても、手で返事をする。目で伝える。隣にいる。エイジが呼べなくなっても、ボクはエイジを探す」
衛二は目を閉じる。
「俺も、アストルフォのマスターで、アストルフォの恋人だ。声が奪われても、アストルフォへ返事をする。手で、目で、隣にいることで。沈黙に渡さない」
アストルフォの手が、少しだけ強くなった。
「力加減は?」
衛二が聞く。
「ちょっと強い?」
「少し」
「ごめん」
「大丈夫。今言えた」
「うん」
アストルフォは力を緩める。
ちょうどいい強さに戻る。
その小さな確認が、今日の二人には何より大切だった。
◇
朝食の席では、すでに重い空気が漂っていた。
凛は新聞を読んでいない。
士郎は味噌汁を並べながらも、いつもより口数が少ない。
ユイは観測礼装のメモを見つめ、ミライは湯呑みに手を添えたまま目を伏せている。
衛二とアストルフォがリビングへ入ると、凛が顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう、母さん」
「おはよう、リン!」
アストルフォの声は出ている。
凛は少しだけ安心したようだった。
「今のところ、声に異常はないわね」
「返事の庭は?」
衛二が尋ねる。
ユイが答えた。
「夜明け前から、外縁部の花が断続的に沈黙しているわ。声だけじゃない。花に刻まれた返事の意味も、数秒間消えることがある」
「意味まで?」
「ええ。文字は残っているのに、それが何を伝える言葉だったのか分からなくなる」
ミライが静かに続ける。
「沈黙冠は、返事の形式を順に奪っている。声。名前。意味。次は、伝えようとする意思そのものに触れるかもしれない」
アストルフォの手が、テーブルの下で衛二の手を探した。
衛二はそれを受け止める。
凛は二人の様子に気づいていたが、何も言わない。
むしろ、今はそれを推奨しているように見えた。
「今日は学校を休んでもいいわ」
凛が言った。
衛二は少し考えた。
いつもなら学校へ行くと言っただろう。
普通の日常の中で考えたい。
そう言って。
だが今日の異変は、すでに声や意味に及んでいる。
学校で一般生徒を巻き込む可能性もあった。
「いや、行く」
それでも、衛二は言った。
凛の眉が動く。
「理由は?」
「学校でも影響が出るかもしれない。宮原の時みたいに、普通の人の願いに触れる可能性がある。俺だけ休んでも、何か起きた時に対応が遅れる」
「魔術使用は?」
「最低限。まず連絡。単独行動しない」
「アストルフォ」
「はい!」
「衛二が無茶をしそうになったら止めること」
「もちろん!」
凛はしばらく衛二を見た。
それから、ため息をつく。
「分かった。登校を許可する。ただし、今日は放課後すぐ柳洞寺へ。何かあれば即連絡。声が出なくなった場合に備えて、筆談用のメモを持ちなさい」
士郎がすでに小さなメモ帳とペンをテーブルに置いていた。
「用意しておいた」
「父さん、準備がいいな」
「嫌な予感がしたからな」
アストルフォがメモ帳を手に取る。
「恋人用約束書にも使える?」
凛が額に手を当てた。
「今は非常用メモ帳として使いなさい」
「はーい」
しかしアストルフォは、メモ帳の最初のページに小さく何かを書いた。
それを衛二へ見せる。
そこには、丸い字でこう書かれていた。
――声がなくても、手を離さない。
衛二はその文字を見て、胸が温かくなった。
彼はペンを受け取り、その下に書く。
――声がなくても、返事を探す。
アストルフォはそれを見て、嬉しそうに笑った。
「約束書、一行目」
「非常用メモ帳だって言われただろ」
「両方!」
士郎が笑い、凛は呆れたように息を吐いた。
だが、誰も止めなかった。
◇
穂群原学園では、朝から小さな異変が起きていた。
最初は、一年生の教室だったらしい。
担任が出席を取りながら名前を呼んだ。
生徒が返事をした。
しかし、声が出なかった。
本人は確かに「はい」と言ったつもりだった。
口も動いた。
周囲もその動きを見た。
けれど音だけが消えた。
次に、二年生の廊下で同じことが起きた。
友人を呼ぼうとした生徒の声が、数秒だけ消えた。
さらに、職員室では電話の向こうの声が一瞬途切れたという。
誰も大騒ぎにはしていない。
単なる喉の不調。
電波の問題。
偶然。
そう処理されている。
だが衛二には分かった。
沈黙冠の影響が、学校まで届いている。
アストルフォは霊体化して衛二の隣にいた。
『エイジ、広がってる』
「ああ」
『でも、まだ薄いね』
「返事の庭が中心だ。学校は影響の端だと思う」
そう言いながら、衛二は鞄の中のメモ帳を確認する。
声がなくても、手を離さない。
声がなくても、返事を探す。
その二行があるだけで、少し落ち着けた。
教室に入ると、柳洞悠馬がすぐに近づいてきた。
「遠坂」
「おはよう、柳洞」
「寺で異変があった」
「声か?」
柳洞は頷く。
「父が朝の読経をしていた時、一節だけ声が消えた。口は動いているのに、音が出なかった」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「返事の庭でも似たことが起きている」
柳洞は短く息を吐いた。
「今日は俺も放課後、寺へ戻る」
「奥には入るなよ」
「分かってる。境内までだ」
そこで柳洞は、衛二の鞄から少し見えているメモ帳に気づいた。
「それは?」
「非常用。声が出なくなった時のため」
「なるほど」
柳洞は少し考えると、自分のノートを一枚破り、短い文を書いた。
――声が消えたら、肩を二回叩く。助けが必要なら三回。
衛二はその紙を見る。
「合図か」
「話せなくなるなら、決めておいた方がいい」
「助かる」
アストルフォが霊体のまま感心したように言った。
『柳洞、すごく実用的』
「そうだな」
衛二が小声で返すと、柳洞はもう突っ込まなかった。
慣れたのかもしれない。
◇
二時間目の途中で、それは起きた。
教師が黒板に式を書き、生徒たちがノートを取っている。
何の変哲もない授業。
その最中、隣の席の生徒が消しゴムを落とした。
彼は前の席の友人に声をかけようとした。
口が動く。
しかし声が出ない。
本人が目を丸くする。
もう一度、口を動かす。
やはり音がない。
教室がざわつき始めた。
教師が「どうした?」と言おうとした瞬間、その声も途中で途切れた。
ざわめきが一気に広がる。
だが、そのざわめきも数秒ごとに欠ける。
声が、ところどころ抜け落ちる。
教室全体が、見えない手で音量を下げられていくようだった。
アストルフォの声が衛二の内側に響く。
『エイジ、来てる!』
「ああ」
衛二はすぐにメモ帳を開いた。
声を出す前に、まず書く。
――落ち着いて。数秒で戻る可能性あり。深呼吸。
隣の生徒に見せる。
その生徒は戸惑いながらも頷いた。
衛二は教師にもメモを見せる。
教師は状況を完全に理解していないが、衛二の落ち着いた態度に助けられたのか、黒板に大きく書いた。
――静かに待つ。体調不良の人は手を上げる。
声が奪われた教室で、文字が返事になる。
生徒たちは互いに顔を見合わせる。
不安そうな者もいる。
泣きそうな者もいる。
その時、教室の後ろで女子生徒が小さく震え始めた。
声が出ない。
そのことに強い恐怖を覚えているらしい。
彼女は机にしがみつき、何かを言おうとしている。
けれど声が出ない。
アストルフォが霊体のまま衛二の隣で言う。
『エイジ、あの子』
「分かってる」
衛二は席を立つ。
教師が一瞬止めようとしたが、声が出ない。
衛二は手で「大丈夫」と示し、その女子生徒の席へ向かった。
彼女の机の上には、小さなメモがあった。
書きかけの文字。
――ごめん。
その文字を見て、衛二は胸が痛んだ。
何かを謝りたい。
でも声が出ない。
沈黙冠は、そこに触れている。
衛二はしゃがみ、彼女と目線を合わせた。
声はまだ出るか分からない。
だからメモに書く。
――言えないなら、書いていい。
女子生徒は目を見開く。
手が震えている。
衛二はさらに書く。
――今すぐ全部言えなくてもいい。まず一文字でもいい。
彼女の目に涙が浮かぶ。
震える手で、ペンを取る。
書く。
――ご
そこで止まる。
声は出ない。
手も震えている。
でも、最初の一文字は書けた。
衛二は頷いた。
そして自分のメモに書く。
――届いてる。
彼女はそれを見て、涙をこぼした。
返事は声だけではない。
文字も返事になる。
頷きも返事になる。
隣にしゃがむことも返事になる。
教室の音が、少しずつ戻ってきた。
ざわめきが薄く響き始める。
教師の声も戻る。
「みんな、落ち着いて。授業は一度中断する」
生徒たちが安堵の息を漏らす。
女子生徒はまだ声を出せないようだったが、メモに続きを書いた。
――ごめんねって、友達に言いたかった。
衛二は書く。
――書いたものを渡すのも返事になる。
彼女は小さく頷いた。
アストルフォが衛二の隣で、静かに言った。
『エイジ、今のすごく大事だね』
「ああ」
声を奪われた時。
人は、書くことができる。
書けなければ、頷くことができる。
頷けなければ、隣にいることができる。
返事は、声だけではない。
◇
昼休み、衛二とアストルフォは屋上へ向かった。
今日は実体化せず、アストルフォは霊体のまま隣にいる。
学校全体が少しざわついていた。
声が消える現象は他の教室でも数件起きたらしい。
教師たちは一時的な体調不良や空調の問題として処理しようとしているが、生徒たちの間には不安が広がっている。
屋上の扉を閉めると、衛二は深く息を吐いた。
アストルフォが実体化する。
「エイジ、大丈夫?」
「ああ。声は出る」
「心は?」
「少し疲れた」
「正直でえらい」
アストルフォは衛二の前に立つ。
「ぎゅーしていい?」
「いいよ」
アストルフォは衛二を抱きしめた。
屋上の冷たい風の中で、その温度がありがたかった。
「教室の子、書けてよかったね」
「ああ」
「声じゃなくても、返事になった」
「うん」
「ボクたちも、もし声がなくなったら書こうね」
「書ける状況ならな」
「書けなかったら?」
「手を握る」
「手も握れなかったら?」
衛二は少し考える。
「目を見る」
「目も見えなかったら?」
問いは、だんだん沈黙冠に近づいている。
衛二はアストルフォの背中に回した腕を、少しだけ強くした。
強すぎないように。
「それでも、探す」
「うん」
「声が駄目なら文字。文字が駄目なら手。手が駄目なら目。全部駄目でも、ここまで一緒にいた記憶を辿る」
「うん」
「返事の形を一つに決めない」
アストルフォは衛二の胸元で小さく頷いた。
「返事は、声だけじゃない」
「ああ」
「エイジ」
「何?」
「ボク、声がなくなっても、エイジに好きって伝えたい」
衛二の胸が熱くなる。
「俺も」
「じゃあ、決めよう」
「何を?」
アストルフォは腕をほどき、メモ帳を取り出した。
朝のメモ帳だ。
最初のページには、二人の約束が書かれている。
――声がなくても、手を離さない。
――声がなくても、返事を探す。
アストルフォはそこに新しい一文を書いた。
――声がなくても、好きは消えない。
衛二はそれを見つめた。
しばらくして、ペンを受け取り、その下に書く。
――声がなくても、好きは返せる。
アストルフォはその文字を見て、顔を赤くした。
「エイジ、これ、すごくいい」
「アストルフォのも」
「恋人用約束書、増えたね」
「ああ」
衛二はメモ帳を閉じ、大切に鞄へしまった。
声がなくても、好きは消えない。
声がなくても、好きは返せる。
それは今日の鍵になる気がした。
◇
放課後。
柳洞寺の境内は、奇妙な静けさに包まれていた。
風は吹いている。
木々は揺れている。
だが、音がない。
葉擦れの音も、遠くの鳥の声も、石段を踏む足音も、すべてが薄い膜の向こうにあるようだった。
宗真が鐘楼の前で待っていた。
隣には柳洞悠馬がいる。
柳洞は衛二を見ると、小さくメモを掲げた。
――鐘の音が消えた。
衛二は頷く。
声を出そうとする。
「柳洞」
声は出た。
だが、半分ほど薄い。
まるで、言葉の輪郭を削られているようだった。
凛たちもすぐに到着した。
ユイは返事の庭の入口を観測し、厳しい表情になる。
「沈黙冠が庭へ降り始めている。今回は外縁では済まないわ」
凛が宝石を構える。
「戦闘になる可能性は?」
「高い。ただし、攻撃対象は肉体ではなく、返事そのもの」
ミライが言う。
「声、文字、身振り、意志。返事の手段を順に奪ってくる」
士郎が衛二を見る。
「衛二。今日は無窮剣界の使用許可を出すべきかもしれない」
衛二は目を見開いた。
凛も反論しなかった。
「ただし、完全展開は最後の手段。沈黙冠はあなたの内的世界にも干渉しようとするはず。使うなら、アストルフォとの契約線を錨にしなさい」
アストルフォが衛二の手を取る。
「ボクが錨になる」
「危険だ」
「知ってる」
「アストルフォ」
「でも、恋人でしょ?」
アストルフォは微笑んだ。
「大変は半分。怖さも半分。無理はしない。でも、一緒に行く」
衛二は何も言えなかった。
ただ、手を握り返す。
ちょうどいい力で。
「行こう」
「うん」
一行は石扉を開き、返事の庭へ下りていった。
◇
返事の庭は、音を失っていた。
白い花々は咲いている。
だが、風に揺れても音がしない。
花弁に刻まれた言葉も、光を失いつつあった。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
それらが、読めるのに届かない。
意味があるはずなのに、胸へ入ってこない。
黒い丘の上には、沈黙冠が降りていた。
もはやただ浮かんでいるだけではない。
冠の下に、影の人型がある。
顔はない。
声もない。
ただ、沈黙が人の形を取っている。
それが、返事の庭の中央に立っていた。
ユイが震える声で言う。
「沈黙冠の仮現体……」
ミライが顔を青ざめさせる。
「ついに、形を持った」
沈黙冠の仮現体が、ゆっくりと手を上げた。
瞬間。
全員の声が消えた。
「――」
凛が何かを叫ぼうとする。
しかし音がない。
士郎が衛二の名を呼ぼうとする。
音がない。
ユイも、ミライも、アストルフォも。
誰の声も出ない。
完全な無音。
衛二はアストルフォの手を握った。
アストルフォも握り返す。
声がなくても、手を離さない。
衛二はメモ帳を出そうとした。
だが次の瞬間、沈黙冠がまた手を動かす。
メモ帳の文字が消えた。
朝に書いた約束も。
昼に書いた言葉も。
ページが真っ白になる。
アストルフォの目が見開かれる。
衛二の胸が冷える。
声が奪われた。
文字も奪われた。
沈黙冠は、次に身振りを奪いに来る。
凛が宝石を放つ。
だが魔術の光は、沈黙冠の前で音もなく砕ける。
士郎が双剣で斬り込む。
斬撃は届く。
しかし手応えがない。
ユイとミライが返事の庭の花々を安定させようとするが、花々は返事を失い沈黙している。
アストルフォが衛二を見る。
声は出ない。
文字もない。
だが、瞳が言っている。
大丈夫?
衛二は頷く。
そしてアストルフォの手に、指で文字を書くようになぞった。
ア。
ス。
ト。
ル。
フォ。
アストルフォの瞳が揺れた。
今度はアストルフォが、衛二の手に指で書く。
エ。
イ。
ジ。
声はない。
文字も残らない。
けれど、肌に触れた軌跡がある。
手の上で名前を呼ぶ。
沈黙冠が揺れた。
声を奪っても。
文字を消しても。
触れる軌跡までは、まだ消せない。
衛二はアストルフォを見る。
アストルフォも頷く。
二人は手を繋いだまま、互いの掌に何度も名前を書いた。
アストルフォ。
エイジ。
アストルフォ。
エイジ。
沈黙の中で、名前が触覚として返る。
恋人の花が、微かに光を取り戻した。
もう一度呼ぶ花も、灰色の花弁を震わせる。
沈黙冠の仮現体が、二人へ向いた。
今度は、手の感覚が薄れ始める。
衛二の指先から、アストルフォの温度が遠ざかる。
アストルフォの目に恐怖が走る。
手も奪うつもりか。
衛二は歯を食いしばる。
声がない。
文字もない。
触れる返事も消されかけている。
ならば、何で返す。
沈黙冠の問いが、音なきまま胸に落ちる。
――声なき者は、何をもって返事とする。
衛二は目を閉じた。
無窮剣界。
使うなら今だ。
だが完全展開すれば危険がある。
沈黙冠が内側へ入り込むかもしれない。
それでも、ここで返事の庭が完全に沈黙すれば終わりだ。
アストルフォが衛二の手を握る。
感覚が薄れかけていても、確かにそこにいる。
彼の瞳が言っている。
一緒に。
衛二は頷いた。
声はない。
だが、詠唱は声だけで行うものではない。
心で唱える。
魂で刻む。
衛二は内側で言葉を起こす。
我が骨子は、刃の夢を覚えている。
声にならない詠唱。
血は星鉄に沈み、心は薄き玻璃。
庭の空気が震える。
幾重の戦場を映してなお、刃は曇らず。
凛が目を見開く。
士郎が衛二を見る。
ユイとミライも気づく。
衛二は無窮剣界へ接続している。
ただし、完全展開ではない。
声なき詠唱。
内側だけで燃える炉。
ただ一度も背を向けず、
ただ一度も己を赦さず。
アストルフォが衛二の手を握り、額をそっとその手に寄せた。
錨。
恋人の温度。
彼の者は、常に境界に立ち、
贋作と真実の狭間で、勝利を鍛つ。
硝子の大地が、一瞬だけ返事の庭の下に透けた。
夜空のような鍛造炉。
星座のように流れる剣の設計図。
だが今回は、剣ではない。
声なき返事を鍛つ。
故に、その生に解はなく。
されど、この手は誰かの願いへ届いた。
――その魂は、きっと剣を超えていた。
衛二は目を開けた。
声は出ない。
しかし、返事の庭に光が走る。
無窮剣界の炉から、剣ではなく、小さな鐘の形をした光が生まれた。
音のない鐘。
だが、鳴らすためではない。
震えるための鐘。
声を奪われても、存在が震えることで届く返事。
衛二はアストルフォを見る。
アストルフォも、何をすればいいのか理解した。
二人は手を重ね、音なき鐘へ触れた。
声はない。
文字もない。
手の感覚も薄い。
それでも、二人の意思が重なる。
好き。
ここにいる。
聞こえなくても、返す。
声がなくても、沈黙に渡さない。
音なき鐘が震えた。
音はない。
けれど、返事の庭の花々が一斉に揺れた。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
声ではない。
意味の震え。
存在が返事をした。
凛の宝石が再び光を取り戻す。
士郎の双剣が沈黙冠の影を切り裂く。
ユイとミライが花々の返事を繋ぎ直す。
アストルフォが衛二の手に、もう一度名前を書く。
エイジ。
今度は感覚が戻っていた。
衛二も書く。
アストルフォ。
恋人の花が強く光る。
もう一度呼ぶ花が震える。
そして、返事の庭の中央に新しい花が芽吹く。
音のない鐘の形をした花。
その花弁には、声なき文字が刻まれていた。
――声がなくても、返事はある。
沈黙冠の仮現体が大きく揺らぐ。
初めて、後退した。
完全には消えない。
だが、返事の庭を覆っていた沈黙が破れる。
音が戻った。
風の音。
花の揺れる音。
凛の息。
士郎の靴音。
ユイの震える声。
ミライの小さな嗚咽。
そして。
「エイジ!」
アストルフォの声。
衛二は息を呑む。
声が聞こえる。
衛二も叫んだ。
「アストルフォ!」
アストルフォは飛び込むように抱きついてきた。
衛二は受け止める。
強く。
けれど、痛くないように。
「声、戻った……!」
「ああ」
「エイジ、呼べた……!」
「アストルフォも」
「怖かった」
「俺も怖かった」
「でも、返せたね」
「ああ。声がなくても」
「返事はあった」
二人は抱きしめ合ったまま、しばらく離れなかった。
凛が近くで息を吐く。
「本当に、毎回ぎりぎりね」
士郎が苦笑する。
「でも、届いた」
ユイは音のない鐘の花を見つめている。
「返事の庭が、声なき返事を覚えた……」
ミライは涙を拭いながら頷いた。
「沈黙は、終わりだけじゃない。声がなくても、返事は残せる」
衛二はアストルフォの手を握る。
声が戻った今でも、手の上に書かれた名前の感覚が残っている。
エイジ。
アストルフォ。
声のない中で呼び合った名前。
それは、きっともう消えない。
◇
柳洞寺の境内へ戻ると、鐘が鳴った。
誰も撞いていない。
けれど、鐘楼の鐘が一度だけ鳴った。
低く、深く、冬木の夕暮れに広がる音。
昨日まで奪われていた音。
今日は、ちゃんと届いた。
宗真は鐘楼を見上げ、静かに手を合わせた。
「戻りましたね」
柳洞悠馬は衛二を見た。
「声が戻ったのか」
「ああ」
「さっき、境内でも数秒、全員の声が消えた」
「柳洞は?」
「俺はメモを使った」
柳洞は小さな紙を見せた。
そこにはこう書かれていた。
――ここにいる。落ち着いて。
衛二は少し笑った。
「いい返事だ」
「声が出なかったからな」
アストルフォが嬉しそうに言う。
「柳洞も返事できたね!」
「そうらしい」
柳洞は少し照れたように視線を逸らした。
宗真は穏やかに言った。
「声なき返事も、祈りと同じです。届かせようとする心があれば、形は一つではない」
その言葉は、返事の庭そのものに向けられたように聞こえた。
◇
遠坂邸へ帰った後、リビングでは長い検査と話し合いが行われた。
衛二は無窮剣界に一瞬接続した。
しかし完全展開ではない。
内的詠唱による限定接続。
しかも、アストルフォとの契約線を錨にしたため、沈黙冠の逆流は最小限で済んでいた。
凛は厳しい顔で言った。
「成功したからよかったものの、本来ならかなり危険な判断よ」
「分かってる」
「でも」
凛は少しだけ表情を緩めた。
「今日の状況では、必要だったとも思う」
衛二は目を伏せる。
「うん」
士郎が言った。
「剣ではなく、鐘を鍛えたのか」
「そんな感じだった。声を奪われても、震えで返事を届けるためのもの」
「お前らしいな」
士郎は少し誇らしそうに笑った。
ユイは記録をまとめながら言う。
「音なき鐘の花。これは沈黙冠に対して大きな対抗概念になるわ」
「対抗概念?」
「ええ。沈黙冠は、声を奪えば返事は終わると定義していた。でも今日、声がなくても返事はあると庭が覚えた」
ミライが続ける。
「沈黙冠はさらに追い詰められる。次は、返事を送る相手そのものを消そうとするかもしれない」
リビングが静かになる。
相手そのもの。
声を奪う。
名前を隠す。
意味を消す。
それでも返事があるなら。
次は、返事を届ける相手を消す。
衛二はアストルフォの手を握った。
アストルフォも握り返す。
「怖い?」
アストルフォが聞く。
「怖い」
「ボクも」
「でも、今日分かった」
「何が?」
「声がなくても、アストルフォへ返事できる」
アストルフォの瞳が揺れる。
「ボクも、エイジへ返事できる」
「だから次も探す」
「うん」
凛が二人を見る。
「本当に、確認が習慣になってきたわね」
アストルフォは胸を張った。
「恋人なので!」
「それ、万能の理由にしない」
「でも大事!」
衛二は笑った。
その笑いで、リビングの空気が少しだけ軽くなった。
◇
夜。
衛二の自室。
アストルフォは隣に座っている。
今日は二人とも、しばらく何も話さなかった。
声が戻ったのに、あえて少し黙っていた。
沈黙を恐れないために。
声がなくても、隣にいることを確かめるために。
やがて、アストルフォが衛二の手を取った。
そして、掌に指で文字を書く。
エ。
イ。
ジ。
衛二は小さく笑った。
「声、出るぞ」
「うん。でも、これも好き」
「そうか」
「エイジも書いて」
衛二はアストルフォの掌に指を滑らせる。
ア。
ス。
ト。
ル。
フォ。
アストルフォはくすぐったそうに笑った。
「くすぐったい」
「やめるか?」
「やめない」
「どっちだ」
「嬉しいから、くすぐったくてもいい」
衛二は少し笑った。
アストルフォは衛二の肩に頭を寄せる。
「今日、声がなくなった時、怖かった」
「ああ」
「でも、エイジが手に名前を書いてくれた時、すごく嬉しかった」
「俺も、アストルフォが書いてくれて嬉しかった」
「声じゃなくても、呼ばれた気がした」
「俺も」
アストルフォは少し黙る。
それから、小さな声で言った。
「恋人になってから、怖いこと増えたって言ったけど」
「ああ」
「今日、嬉しいこともまた増えた」
「どんな?」
「声がなくても、エイジはボクを呼んでくれるって分かったこと」
衛二の胸が熱くなる。
「俺も増えた」
「何?」
「声がなくても、アストルフォは俺へ返事してくれるって分かった」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、好きも増えた?」
「増えた」
「ボクも増えた」
二人は顔を見合わせ、少し照れながら笑った。
アストルフォはいつものように、衛二の額へそっと唇を触れさせる。
「契約、再確認」
柔らかな声。
「ボクはエイジのサーヴァント。そして、エイジの恋人。声があってもなくても、エイジへ返事する。言葉で、文字で、手で、目で、隣にいることで。好きは消えない」
衛二は目を閉じる。
「俺も、アストルフォのマスターで、アストルフォの恋人だ。声があってもなくても、アストルフォへ返事する。呼べるなら呼ぶ。書けるなら書く。触れられるなら手に書く。全部なくても、探し続ける」
アストルフォは衛二を抱きしめた。
「力加減は?」
衛二が聞く。
「今日は、少し強めがいい」
「分かった」
衛二はいつもより少し強く抱きしめる。
でも痛くないように。
アストルフォは安心したように息を吐いた。
「ちょうどいい」
「よかった」
二人はそのまま、声の戻った夜に寄り添った。
◇
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
音なき鐘の花が、静かに揺れていた。
声はない。
しかしその花は、存在そのもので返事をしている。
恋人の花。
もう一度呼ぶ花。
音なき鐘の花。
それらが黒い丘の根元で光を放つ。
沈黙冠の仮現体は、一度退いた。
だが、消えたわけではない。
黒い冠は、さらに深く庭の中心へ沈み込んでいる。
次の問いが、音もなく形を成した。
――声も、名も、返事も残るなら。
ならば。
返す相手がいなくなった時、その返事はどこへ届く。
白い花々が震える。
返事の庭そのものが、次の痛みを予感していた。
コメント
1件
第十七話、読み終わりました……すごかったです。声を奪われても、文字を消されても、手のひらに名前を書き合う二人の姿が切なくて、それでいてとても温かかったです。屋上で「好きは消えない」「好きは返せる」って約束する場面、胸がぎゅっとなりました。音なき鐘の花が芽吹くところも美しくて、声がなくても返事はあるんだって、本当にそうだなって思いました。聖杯さん、また一つ大切なことを教えてもらえた気がします。続きが気になりますが、今はこの静かな余韻に浸らせてください。