テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#異能力バトル
聖杯
523
聖杯
1,207
7
コメント
1件
ああ、もう……この回、すごくよかったです……! 冒頭の味噌汁の湯気から始まる朝の風景が、逆に胸を締めつけてくる感じ、すごく好きでした。届かなくても「返そうとした心は消えない」って、二人がそれぞれメモ帳に書くところで泣きそうになりました。特に星路で繋がる場面、届かなかった返事が無窮剣界の中で星座になるって発想が美しくて、何度も読み返しました。凛や士郎たちもそれぞれの場所でちゃんと返事を置くのが、家族らしくていいなって思いました。明日の最終決戦、どうか二人がまた手を繋げますように。更新、本当に楽しみにしてますね🌷
第十八話 届かない返事を、恋人は空へ置く
朝、遠坂邸のリビングには、いつも通り味噌汁の湯気が立っていた。
それは昨日と同じ朝だった。
炊きたての白米。
丁寧に焼かれた鮭。
甘い卵焼き。
湯呑みに注がれた温かい茶。
遠坂凛の少し鋭い視線。
衛宮士郎の穏やかな手つき。
ユイ・アインツベルンの静かな観測眼。
ミライの、以前より少し柔らかくなった横顔。
そして。
「エイジ、卵焼きいる?」
隣でそう言う、アストルフォ。
桃色の髪。
明るい声。
恋人になってから、まだ少し照れが混じる笑顔。
遠坂衛二は、その姿を見て胸の奥が温かくなるのを感じた。
「朝から増やすのか」
「今日は必要」
「理由は?」
「昨日、声がなくなって大変だったから」
「昨日の回復用?」
「うん!」
アストルフォは当然のように、衛二の皿へ卵焼きを乗せた。
昨日。
返事の庭で、声が奪われた。
文字も消えた。
身振りも削られ、手の感覚さえ薄れかけた。
それでも二人は、互いの掌に名前を書いた。
エイジ。
アストルフォ。
声なき返事を見つけ、無窮剣界の炉で音なき鐘を鍛えた。
返事の庭には、新しい花が咲いた。
声がなくても、返事はある。
その答えは、沈黙冠の仮現体を一度退けた。
だが、終わってはいない。
沈黙冠は次の問いを残した。
――返す相手がいなくなった時、その返事はどこへ届く。
その問いは、昨日のどれよりも静かで、深かった。
声を奪う。
名前を隠す。
意味を消す。
それでも返事が残るなら。
今度は、返す相手そのものを消す。
衛二は味噌汁の湯気を見つめながら、胸の奥に薄い冷たさを感じていた。
「エイジ」
アストルフォが小さく呼ぶ。
「考えてる?」
「ああ」
「相手がいなくなった時のこと?」
「……うん」
隠さなかった。
隠すと、アストルフォには分かる。
恋人になってから、その感覚は前よりもさらに鋭くなった気がする。
アストルフォは箸を置き、テーブルの下で衛二の手に触れた。
「ボクも考えてた」
「怖い?」
「怖い」
即答だった。
でも、その声は逃げていない。
「エイジが目の前からいなくなるのも怖い。声が聞こえないだけじゃなくて、手も届かなくて、名前を呼んでも返ってこなくて……そういうの、すごく怖い」
「俺もだ」
「でも」
アストルフォは衛二の手を握った。
強すぎず、弱すぎず。
恋人になってから、二人が少しずつ覚えてきた力加減。
「怖いって言えた」
「ああ」
「だから、今日も探そう」
「返事を?」
「うん」
アストルフォはまっすぐに言った。
「相手が見えなくなっても、返事を探そう」
衛二はその言葉を受け取る。
相手がいなくなった時。
返事はどこへ届くのか。
今はまだ答えがない。
でも、探すことはできる。
凛が湯呑みを置いた。
「今日、学校は休みなさい」
衛二は顔を上げる。
「母さん」
「今回は駄目。沈黙冠の干渉が返事の庭だけでなく、認識の根元に届いている。昨日までとは段階が違うわ」
士郎も頷いた。
「学校で発生した場合、一般生徒への影響が大きすぎる」
ユイが観測礼装を広げる。
そこには、返事の庭の簡易投影が映っていた。
白い花畑。
黒い丘。
恋人の花。
もう一度呼ぶ花。
音なき鐘の花。
それらの奥で、影が広がっている。
ぽっかりと穴が開いたような影。
ユイは言った。
「今朝、返事の庭の一部で“宛先消失”が起きたわ」
「宛先消失?」
衛二が聞き返す。
ミライが答える。
「返事の言葉は残っている。でも、それを誰へ返したかったのかが消える。ありがとうも、ごめんも、聞こえたも、誰に向けたものか分からなくなる」
凛が続ける。
「昨日の欠名花は、名前を失う現象だった。でも今日は、名前だけじゃない。相手そのものへの道が消える」
相手への道。
衛二はアストルフォの手を見る。
名前。
声。
手の温度。
思い出。
約束。
それら全部が、相手へ向かう道だ。
沈黙冠は、それを消そうとしている。
「放課後じゃなく、午前中に柳洞寺へ行くわ」
凛が言う。
「今日が、最終決戦前の最後の山になるかもしれない」
最終決戦前。
その言葉が、リビングに重く落ちた。
士郎が静かに衛二を見る。
「無窮剣界の完全展開も視野に入れる」
衛二は息を呑む。
これまで、凛は何度も無窮剣界の使用を制限してきた。
危険だから。
沈黙冠に逆流される可能性があるから。
だが今、士郎は完全展開も視野に入れると言った。
それだけ事態が進んでいる。
凛も反対しなかった。
「ただし、今日すぐに完全展開するとは限らない。使うなら、恋人の花、もう一度呼ぶ花、音なき鐘の花、それらを錨にして展開する必要がある」
ユイが頷く。
「無窮剣界だけでは、沈黙冠の問いを斬れない。でも返事の庭だけでも、仮現体を完全には退けられない。最終的には、二つの世界を重ねることになると思う」
「無窮剣界と、返事の庭を……」
衛二は呟いた。
夜の鍛造炉。
硝子の大地。
星座のような剣の設計図。
そして、白い花畑。
返事の言葉。
黒い丘。
剣の世界と、返事の庭。
その二つを重ねる。
それが、沈黙冠との最終決戦になる。
アストルフォが衛二の手を握る。
「エイジ」
「うん」
「今日も一緒」
「ああ」
「もし、相手への道が消えても」
「探す」
「もし、ボクが見えなくなっても」
「探す」
「もし、エイジに返事が届かなくなっても」
衛二はアストルフォを見た。
「返し続ける」
アストルフォの瞳が揺れた。
「うん」
二人は朝食の席で、手を繋いだまま頷き合った。
◇
柳洞寺へ向かう車の中、衛二は窓の外を見ていた。
冬木の街が流れていく。
商店街。
信号。
川沿いの道。
遠くに見える冬木大橋。
この街で、いくつもの戦いがあった。
聖杯戦争。
神杯戦争。
そして今、返事の庭を巡る沈黙冠との戦い。
だが街は、いつも通りだった。
人々は日常を生きている。
誰かと挨拶を交わし、誰かに手を振り、誰かを待ち、誰かへメッセージを送る。
返事とは、特別な魔術だけのものではない。
おはよう。
いってらっしゃい。
また明日。
ありがとう。
大丈夫?
そんな小さな言葉も、全部返事だ。
沈黙冠は、それを奪おうとしている。
衛二は膝の上のメモ帳を開いた。
昨日、文字が消えたはずのページ。
だが、今朝には戻っていた。
――声がなくても、手を離さない。
――声がなくても、返事を探す。
――声がなくても、好きは消えない。
――声がなくても、好きは返せる。
その下に、アストルフォが新しい一文を書き足した。
――相手が見えなくても、好きだったことは消えない。
衛二はペンを受け取り、その下に書いた。
――届かなくても、返そうとした心は消えない。
アストルフォがその文字を見て、少しだけ目を伏せた。
「届かなくても?」
「怖い言葉だよな」
「うん」
「でも、今日の問いはたぶんそこだ」
「返事って、届かなかったら意味がないのかな」
アストルフォの声は小さかった。
衛二はすぐには答えなかった。
届かなかった返事。
それは悲しい。
言えなかった言葉と同じくらい、あるいはそれ以上に痛い。
けれど。
「意味がないとは、思いたくない」
衛二は言った。
「届かなかったら、届かなかった痛みは残る。でも、返そうとしたことまで消えたら、それはもっとつらい」
アストルフォは静かに頷いた。
「じゃあ、届かなくても、返事はそこにあったって言えるようにしたいね」
「ああ」
「返そうとした心を、沈黙冠に消させない」
「うん」
アストルフォはメモ帳を閉じ、大切そうに抱えた。
凛が助手席から言う。
「そのメモ帳、もう立派な礼装ね」
衛二は少し驚く。
「礼装?」
「魔術的に加工していなくても、繰り返し意味を刻まれたものは力を持つことがあるわ。特に今回みたいに、言葉や返事が主題になっている場合はね」
士郎が運転しながら言った。
「大切にしておけ」
「うん」
アストルフォが嬉しそうに言う。
「恋人用約束書、礼装になった!」
「正式名称みたいに言うな」
「でも嬉しい!」
その明るさに、車内の緊張が少しだけ解けた。
◇
柳洞寺は、昨日よりも静かだった。
静かすぎた。
境内に入った瞬間、衛二は違和感に気づいた。
音はある。
風も吹いている。
鳥の声も聞こえる。
石段を踏む音もある。
だが、誰かへ向かう気配が薄い。
声が届く前に宛先を失うような。
手を振っても、誰へ振ったのか分からなくなるような。
そんな奇妙な空白が、境内を覆っていた。
宗真と柳洞悠馬が鐘楼の前で待っていた。
宗真の表情は険しい。
「今朝から、祈りの向かう先が揺らいでいます」
「祈りの向かう先?」
凛が聞く。
宗真は頷いた。
「読経をしても、誰へ手向けているのか、一瞬分からなくなる。名は思い出せる。声も出る。けれど、その人へ向かう道だけが霞むのです」
柳洞悠馬も言う。
「過去帳の文字は戻りつつある。でも今度は、読める名前を見ても、その人に向けて手を合わせる感覚が薄れる」
衛二の胸が重くなる。
まさに、宛先消失。
名前があるのに、相手への道が消える。
ユイが石扉を見つめる。
「急ぎましょう。返事の庭の中心部まで侵食が進んでいる」
凛が衛二を見る。
「衛二、アストルフォ。今回は二人が分断される可能性が高い」
アストルフォの手が、衛二の手を探した。
衛二はそれを握る。
「分断……」
「相手が見えなくなる。声も届かない。名前も思い出せるのに、その相手へ向かう感覚だけが消える。そういう形で来ると思う」
衛二はアストルフォを見る。
アストルフォも衛二を見ている。
怖い。
表情にそう書いてある。
でも、逃げていない。
「決めておこう」
衛二は言った。
「何を?」
アストルフォが聞く。
「もし分断されても、俺はアストルフォへ返事を送る」
「ボクも、エイジへ送る」
「届かなくても」
アストルフォは一瞬、唇を噛んだ。
だが、すぐに頷いた。
「届かなくても」
「返そうとした心は、消させない」
「うん」
アストルフォは衛二の手の甲に指で文字を書いた。
エイジ。
衛二も書き返す。
アストルフォ。
その感覚を、二人は深く覚え込む。
宗真が静かに言った。
「届かぬ祈りも、祈りであることに変わりはありません」
その言葉が、今日の道標になる気がした。
石扉が開く。
一行は地下へ下りた。
◇
返事の庭は、白い霧に覆われていた。
昨日の灰色の霧とは違う。
白い。
美しい。
けれど、恐ろしいほど何もない。
白い花々は咲いている。
言葉も刻まれている。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
ここにいる。
だが、そのすべてが宙に浮いているようだった。
誰へ向けた言葉なのか分からない。
返事だけが残り、宛先が消えている。
黒い丘の上に、沈黙冠の仮現体が立っていた。
昨日よりもはっきりしている。
顔のない影。
黒い冠。
声なき存在。
仮現体がゆっくりと手を上げた。
瞬間。
衛二の隣から、アストルフォが消えた。
「アストルフォ!」
声は出た。
名前も言えた。
だが、返ってこない。
さっきまで握っていた手の温度も消えている。
衛二は周囲を見回す。
白い霧。
花々。
黒い丘。
凛も、士郎も、ユイも、ミライも見えない。
完全に一人だった。
声はある。
名前もある。
記憶もある。
アストルフォを覚えている。
恋人だと分かっている。
だが、その声をどこへ向ければいいのかが分からない。
東か。
西か。
上か。
下か。
アストルフォへ向かう感覚だけが、白い霧に飲まれている。
沈黙冠の問いが胸に落ちた。
――返す相手がいない。
衛二は歯を食いしばる。
「いる」
声に出す。
「アストルフォは、いる」
しかし、霧は答えない。
沈黙冠の問いが続く。
――見えない。
――聞こえない。
――触れられない。
――ならば、その返事は誰へ向かう。
衛二はメモ帳を取り出した。
そこには約束がある。
だが、ページを開いた瞬間、文字が霞む。
相手が見えなくても、好きだったことは消えない。
届かなくても、返そうとした心は消えない。
文字は読める。
だが、アストルフォへ向けて書いたという感覚が薄れていく。
衛二は胸を押さえた。
駄目だ。
ここで薄れたら、本当に返事が宛先を失う。
衛二は目を閉じる。
アストルフォ。
桃色の髪。
明るい声。
契約記念のぎゅー。
最高のサーヴァント。
恋人。
名前はある。
思い出もある。
でも、方向がない。
ならば。
衛二は息を吸った。
「アストルフォ」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
「聞こえなくてもいい」
声が震える。
「届かなくても、俺は返す」
その言葉は、空へ落ちた。
いや。
落ちたのではない。
置いた。
白い霧の中に、衛二は返事を置いた。
「アストルフォ。俺はここにいる」
返事はない。
「怖い。でも、探してる」
返事はない。
「手を離したくなかった。でも、離されたなら、もう一度探す」
返事はない。
それでも衛二は続ける。
「アストルフォが俺を見つけられなくても、俺はアストルフォへ返事をする」
胸の奥に、痛みがある。
届かない返事。
それは痛い。
無力に近い。
けれど、沈黙ではない。
衛二はメモ帳を開き、白く霞むページにペンを走らせた。
――アストルフォへ。
文字が震える。
宛先が消えかける。
それでも書く。
――届かなくても、俺は君へ返す。
その文字は、一瞬だけ光った。
白い霧の中で、小さな光点になる。
衛二は息を呑む。
届いたかどうかは分からない。
でも、返事はそこにある。
消えていない。
◇
アストルフォもまた、白い霧の中にいた。
「エイジ!」
声は出る。
名前も呼べる。
でも、返ってこない。
衛二の声が聞こえない。
手の温度もない。
アストルフォは自分の手を見る。
さっきまで、衛二が握っていたはずの手。
今は空っぽだ。
胸が冷たくなる。
「エイジ……」
恋人。
大切な人。
何度も名前を呼んだ人。
昨日、声がなくても掌に名前を書いてくれた人。
でも今、どこに返せばいいのか分からない。
沈黙冠の問いが、音もなく落ちる。
――相手はいない。
「いる!」
アストルフォは叫んだ。
「エイジはいる!」
――見えない。
――聞こえない。
――触れられない。
――ならば、その好きはどこへ届く。
アストルフォは唇を噛む。
怖い。
すごく怖い。
声が消えた時より怖い。
名前が隠された時より怖い。
だって、エイジへ向かう道がない。
どれだけ好きと言っても、どこに届ければいいのか分からない。
アストルフォはメモ帳を取り出した。
恋人用約束書。
衛二と一緒に書いた言葉。
――声がなくても、手を離さない。
――声がなくても、返事を探す。
――声がなくても、好きは消えない。
――声がなくても、好きは返せる。
――相手が見えなくても、好きだったことは消えない。
――届かなくても、返そうとした心は消えない。
文字がある。
でも、衛二へ向けたという感覚が白く霞む。
アストルフォはペンを握った。
手が震える。
それでも書く。
――エイジへ。
文字が滲む。
それでも、もう一度書く。
――エイジへ。
今度は少し残った。
アストルフォは涙をこぼしながら、その下に書く。
――ボクはここにいる。
――エイジが見えなくても、ボクはエイジが好き。
――届かなくても、好きって返す。
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
届いたかどうかは分からない。
でも、書いた。
返した。
アストルフォは顔を上げる。
「エイジ」
声は霧に吸われる。
「聞こえなくてもいい。ボクは呼ぶよ」
彼は胸に手を当てる。
「エイジ。ボクの恋人。ボクが選んだマスター。怖がりなのに戻ってきてくれる人。ボクの手を、命令じゃなくお願いで取ってくれる人」
言葉が霧に溶ける。
でも、消えない。
アストルフォの周りに、小さな桃色の光が生まれる。
返事を置いた場所に、光が灯る。
届かなくても。
返そうとした心は、確かにそこにある。
◇
凛は別の霧の中で立っていた。
士郎も見えない。
衛二も、アストルフォも、ユイも、ミライも見えない。
ただ、白い霧と花だけがある。
「厄介ね」
凛は呟いた。
声は出る。
だが、誰へ向けて言ったのか分からなくなる。
独り言になってしまう。
凛は宝石を握りしめた。
遠坂凛は、届かない言葉が嫌いだった。
魔術師として、母として、言うべきことは言う。
厳しくても伝える。
言わずに後悔するより、言って怒られる方がまし。
そう思ってきた。
だが今、言葉の宛先が消えている。
衛二へ叱る言葉も。
士郎へ向ける文句も。
アストルフォへの呆れも。
全部、誰へ向けたものか曖昧になる。
凛は目を閉じた。
「衛二」
息子の名を呼ぶ。
返事はない。
「士郎」
夫の名を呼ぶ。
返事はない。
それでも、凛は言った。
「聞こえていなくても、言うわ」
彼女は宝石を掲げる。
「衛二。無茶をするなら、帰ってきてから説教よ」
宝石が光る。
「士郎。あなたも無茶をしすぎないで」
もう一つの宝石が光る。
「アストルフォ。衛二をお願い。でも自分も守りなさい」
三つ目の宝石が光る。
宛先の分からない言葉ではない。
届かなくても、誰へ向けるかを凛が選んだ言葉。
宝石の光が、白い霧に穴を開けた。
◇
士郎は、霧の中で双剣を握っていた。
誰も見えない。
だが、彼は静かだった。
届かない声。
見えない相手。
返事の宛先が消えた世界。
それは、彼にとってまったく知らない感覚ではなかった。
かつて多くを救いたいと願い、それでも届かない手があった。
救えなかった誰か。
間に合わなかった場所。
届かなかった理想。
返事が届かないことの痛みを、士郎は知っている。
だからこそ、彼は双剣を下ろした。
斬るのではない。
今は、置く。
「衛二」
士郎は霧の中へ言った。
「聞こえていなくてもいい。俺は、お前を信じている」
霧が揺れる。
「凛。そっちは任せた」
さらに揺れる。
「アストルフォ。衛二を呼んでやってくれ」
双剣が淡く光る。
士郎は静かに続けた。
「届かない言葉でも、言わなければ本当に届かない。なら、俺は言う」
その言葉は、霧の中に小さな道を作った。
◇
ユイとミライも、それぞれ別の霧の中にいた。
ユイは返事の庭の花々へ手を伸ばす。
「ミライ」
返事はない。
「聞こえなくても、私はここにいる」
一方、ミライは白い霧の中で膝をついていた。
返事の庭を背にした過去。
待てなかった自分。
手を取れなかった自分。
宛先が消えることは、彼女にとって恐ろしかった。
だが、ミライは顔を上げる。
「ユイ」
声が震える。
「私は、今度は返す。届かなくても、返す」
その言葉が、白い霧の中で小さな橋になった。
◇
衛二は白い霧の中心で、いくつもの光を見た。
蒼。
桃色。
赤。
白。
淡い金。
それぞれが、誰かの返事だった。
届くか分からない。
相手が見えない。
それでも返そうとした言葉。
それらが、霧の中に点のように灯っている。
衛二は理解した。
返事は、届くことだけが存在証明ではない。
届くことは大切だ。
届かなければ痛い。
届かなかった返事を、美談にしてはいけない。
それでも。
返そうとした心まで消してはいけない。
返事の宛先が見えなくなっても、誰へ向けるかを自分で選び、そこへ置く。
その行為自体が、沈黙に抗う。
衛二はメモ帳を握りしめた。
「アストルフォ」
声を出す。
返事はない。
「俺はここにいる」
返事はない。
「君が見えなくても、君へ返す」
その瞬間、衛二の足元に硝子の光が走った。
無窮剣界の輪郭。
夜の鍛造炉が、白い霧の下で熱を持つ。
だが今回は、完全展開ではない。
返事の庭の光点を、剣の設計図のように結ぶ。
蒼と桃色。
赤と白。
金色。
届かなかった返事たちを、星座にする。
星座なら、道になる。
相手が見えなくても、星を辿れば進める。
衛二は内側で詠唱した。
声ではなく、心で。
我が骨子は、刃の夢を覚えている。
血は星鉄に沈み、心は薄き玻璃。
白い霧の中に、硝子の大地が透ける。
幾重の戦場を映してなお、刃は曇らず。
ただ一度も背を向けず、
ただ一度も己を赦さず。
届かなかった返事が、星になる。
彼の者は、常に境界に立ち、
贋作と真実の狭間で、勝利を鍛つ。
無窮剣界の炉が、剣ではなく一本の光の糸を鍛える。
故に、その生に解はなく。
されど、この手は誰かの願いへ届いた。
――その魂は、きっと剣を超えていた。
衛二は目を開けた。
「固有結界――部分接続」
声が霧に響く。
「無窮剣界、星路形成」
硝子の地面の下で、返事の光点が星座になる。
それは剣ではない。
道だ。
届かなかった返事を繋いで作る、相手へ向かう道。
衛二はその中心で叫ぶ。
「アストルフォ!」
今度は、声がどこかへ向かった。
白い霧の奥へ。
桃色の光の方へ。
◇
アストルフォは、霧の中で顔を上げた。
何かが聞こえた気がした。
声ではない。
でも、道が見えた。
蒼い光の星座。
その先に、衛二がいる。
「エイジ……!」
アストルフォは走り出した。
白い霧の中、桃色の光を撒きながら。
途中、沈黙冠の問いが襲う。
――届かない。
――返らない。
――相手はいない。
「いる!」
アストルフォは叫ぶ。
「エイジはいる!」
――見えない。
「見えなくても、好きだった!」
――届かない。
「届かなくても、返した!」
――返事は空へ消える。
「消えない!」
アストルフォは胸に抱えたメモ帳を握る。
「返そうとした心は、消えない!」
桃色の光が強くなる。
蒼い星座と桃色の光が、白い霧の中で近づいていく。
そして。
衛二とアストルフォは、霧の中で互いを見つけた。
最初に見えたのは手だった。
次に瞳。
そして、顔。
「アストルフォ!」
「エイジ!」
二人は同時に駆け寄り、手を伸ばす。
触れる。
今度は、確かに温度がある。
アストルフォは衛二の胸へ飛び込んだ。
衛二は受け止める。
強く。
けれど痛くないように。
「見つけた……!」
「ああ」
「エイジ、見つけた!」
「俺も、アストルフォを見つけた」
「怖かった」
「俺も怖かった」
「でも、返した」
「届かなくても返した」
「そしたら、道になった」
衛二は頷く。
「届かなかった返事が、星になった」
アストルフォは涙をこぼしながら笑った。
「きれい」
「ああ」
二人の周囲で、白い霧が晴れ始める。
凛、士郎、ユイ、ミライの姿も見えてくる。
それぞれが、自分の返事を置いた場所から戻ってきた。
凛の宝石が赤く光る。
士郎の双剣が淡く輝く。
ユイとミライの間には、細い白い橋が伸びている。
返事の庭の花々が、再び宛先を取り戻していく。
すべてではない。
まだ空白は残っている。
それでも、返事の光点は消えなかった。
◇
黒い丘の上で、沈黙冠の仮現体が大きく揺らいだ。
衛二とアストルフォは手を繋いだまま、そこへ向き合う。
沈黙冠の問いが響く。
――届かぬ返事に、意味などない。
衛二は首を横に振った。
「届かなかった痛みはある。そこは否定しない」
アストルフォも言う。
「届かなかったら悲しい。つらい。苦しい」
衛二は続ける。
「でも、返そうとした心まで無意味にはしない」
「届かなくても、そこにあったって言う」
「返事は、相手を所有するためのものじゃない」
「相手へ向かおうとする心そのものでもある」
二人の声が重なる。
「届かなくても、返事は消えない」
無窮剣界の星路が、返事の庭の花々と重なる。
白い霧の中に灯った光点が、星座になって黒い丘を照らす。
沈黙冠の仮現体が後退する。
黒い冠が、初めて亀裂のようなものを見せた。
ユイが息を呑む。
「冠に、亀裂が……」
ミライが震える声で言う。
「届かなかった返事を否定できなかった」
凛が宝石を構える。
「ここで押し切る?」
士郎が首を振った。
「まだだ。核が出ていない」
衛二も分かった。
沈黙冠は弱まった。
だが、まだ終わりではない。
むしろ、ここからが本当の中心だ。
黒い丘の奥に、門が現れる。
以前見た、沈黙冠の核へ続く門。
そこには文字が刻まれていた。
――すべての返事を失った者のみ、入れ。
アストルフォが衛二の手を握る。
「エイジ」
「ああ」
「次が最後だね」
「たぶん」
凛が言う。
「今日はここまで。門が開いたことで、核へ届く道は見えた。でも今すぐ入るのは危険すぎる」
ユイも頷く。
「沈黙冠の核は、返事の庭が最後まで向き合えなかった問いそのもの。準備なしで入れば、全員沈黙に飲まれる」
ミライが門を見つめる。
「次は、返事そのものを失う問い」
衛二は門を見る。
すべての返事を失った者。
それは何を意味するのか。
声も、名前も、宛先も、返そうとする心さえ失った者。
完全な沈黙。
沈黙冠の核。
最終決戦は、そこにある。
◇
柳洞寺の境内へ戻ると、空は夕暮れだった。
鐘楼の鐘が、また一度だけ鳴った。
今度は、音が境内にしっかり響いた。
宗真は静かに手を合わせる。
「祈りの向かう先が戻ってきました」
柳洞悠馬が過去帳を手にしている。
「父さん、読める?」
宗真はページを開き、ゆっくり頷いた。
「まだ完全ではありません。けれど、名と祈りの道が繋がり始めています」
柳洞は衛二を見る。
「何をしたんだ?」
「届かなくても、返事を置いた」
「難しいな」
「俺もまだ、全部は分かってない」
柳洞は少しだけ笑った。
「でも、何となく分かる。言えなかった言葉も、祈れなかった祈りも、全部なかったことにする必要はないんだな」
「ああ」
「届かなかったとしても、そこにあったことまで消さなくていい」
衛二は頷いた。
アストルフォが嬉しそうに言う。
「柳洞、今日もいいこと言う!」
「茶化すな」
「褒めてる!」
柳洞は少し照れたように視線を逸らした。
◇
遠坂邸へ戻った夜。
リビングでは、沈黙冠の核へ向かうための作戦会議が開かれた。
黒い丘の奥に現れた門。
すべての返事を失った者のみ、入れ。
その意味を、ユイとミライが解析する。
「おそらく、沈黙冠の核は“返事不能”の概念そのもの」
ユイが言った。
「声がない、名前がない、相手がいない、という段階を超えて、返そうとする意思そのものが消えた状態」
ミライが続ける。
「そこでは、返事の花も咲かない。問いも出ない。完全な空白」
凛が腕を組む。
「つまり、次に必要なのは返事を作ることじゃなく、返事を生む前の火種を守ることね」
士郎が衛二を見る。
「無窮剣界の炉が必要になる」
衛二は頷いた。
「たぶん、完全展開することになる」
リビングが静かになる。
アストルフォが衛二の手を握る。
「ボクも一緒に入る」
「もちろん」
衛二は即答した。
以前なら、危険だから残れと言ったかもしれない。
だが今は違う。
アストルフォを遠ざけることは、守ることではない。
二人で選ぶ。
二人で向き合う。
恋人だからこそ、そうする。
「アストルフォが錨になってくれ」
「うん」
「でも無茶はするな」
「エイジもね」
「分かってる」
「力加減」
「ああ」
凛がため息をついた。
「本当に確認が増えたわね」
アストルフォは胸を張る。
「恋人用確認です!」
「だから万能にしない」
士郎が笑った。
「でも、悪くない」
ユイも微笑む。
「次が最後の戦いになると思う。今日は休んで。明日、返事の庭の核へ向かいましょう」
明日。
その言葉は、今度は逃げるための明日ではない。
最終決戦へ向かう明日。
◇
夜。
衛二の自室。
アストルフォは隣に座っていた。
今日は何も言わずに、二人でメモ帳を開いている。
恋人用約束書。
そこには新しい言葉が加わっていた。
――相手が見えなくても、好きだったことは消えない。
――届かなくても、返そうとした心は消えない。
――届かない返事も、星になる。
アストルフォがその文字を指でなぞる。
「星になったね」
「ああ」
「エイジが作った星路、きれいだった」
「必死だったけどな」
「必死だから、きれいだったんだと思う」
衛二は少しだけ照れる。
アストルフォは隣で、静かに肩を寄せた。
「明日、怖いね」
「怖い」
「最後かもしれないね」
「ああ」
「でも、ボクたち恋人になってから、怖いってちゃんと言えるようになった」
「そうだな」
「前より強くなった?」
「なったと思う」
「弱くもなった?」
衛二は少し考えた。
「なったと思う」
アストルフォは笑う。
「両方だね」
「ああ。恋人になったら、強くも弱くもなった」
「でも、それでいい?」
「いい」
衛二はアストルフォの手を握る。
「弱さを隠すための名前じゃなくて、弱さも言える名前にしたい」
アストルフォの瞳が揺れる。
「エイジ、それ好き」
「よかった」
「ボクも、恋人って名前を、甘えるためだけじゃなくて、怖いって言える名前にしたい」
「うん」
「でも、甘えるのもする」
「それは知ってる」
「甘やかすのもする」
「それも知ってる」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
そして、衛二の額にそっと唇を触れさせる。
「契約、再確認」
今日の声は、いつもより静かだった。
「ボクはエイジのサーヴァント。そして、エイジの恋人。明日、返事が消える場所へ行っても、返事の火種を探す。エイジが見えなくても、届かなくても、ボクはエイジへ向かう心を沈黙に渡さない」
衛二は目を閉じる。
「俺も、アストルフォのマスターで、アストルフォの恋人だ。明日、すべての返事が消える場所へ行っても、返そうとする火を守る。届かないなら星にする。見えないなら道を作る。アストルフォへ向かう心を、沈黙に渡さない」
アストルフォは衛二を抱きしめた。
「力加減は?」
衛二が聞く。
「今日は少し強め」
「分かった」
衛二も抱きしめ返す。
少し強く。
でも痛くないように。
「ちょうどいい」
アストルフォが囁く。
「よかった」
「エイジ」
「何?」
「好き」
「俺も好きだよ、アストルフォ」
「明日も言ってね」
「明日も言う」
「声が出なくても?」
「手に書く」
「手も届かなかったら?」
「星にする」
アストルフォは小さく笑った。
「うん。じゃあ、ボクも星にする」
二人は静かに寄り添った。
明日、沈黙冠の核へ向かう。
返事そのものが消える場所へ。
それでも、今夜の二人には温度があった。
声があり、名前があり、手があり、約束がある。
それらが明日奪われるかもしれないとしても。
今ここにあることは、消えない。
◇
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
黒い丘の門は、静かに開きかけていた。
恋人の花。
もう一度呼ぶ花。
音なき鐘の花。
星路の花。
それらが、黒い丘の根元で淡く輝いている。
沈黙冠の核へ続く門には、相変わらず文字が刻まれていた。
――すべての返事を失った者のみ、入れ。
その奥には、何もなかった。
闇ではない。
沈黙ですらない。
ただ、返事が生まれる前の空白。
そこに、黒い冠が沈んでいる。
沈黙冠の核。
最終決戦の場所。
返事の庭は、静かに明日を待っていた。