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退院してから数日が経った。けれど、まだ少しだけ、時間が止まっているような気がしていた。
朝の光が窓から差し込んでいる。
天井の模様、時計の音、布団の重み――全部、見慣れた自分の部屋のはずなのに、
なんだか少しだけ距離があるように感じる。
「……まだ、戻りきれてないのかな」
布団にくるまりながら、ぽつりと呟く。
体調は安定している。薬も、もう飲まなくていい。
でも心のどこかに、かすかに残る“あの日”の感触が、僕の動きを鈍くしていた。
誰にも頼らず、誰にも言わずに、倒れた日のこと。
あれは、単なる不注意なんかじゃなくて、僕の弱さだった。
無理してでも頑張らなくちゃ、迷惑をかけたくないって――
そんな気持ちが、いつの間にか僕を追い込んでいたんだと思う。
ピンポーンと、チャイムが鳴った。
時計を見ると、約束の時間ぴったりだった。
「……来たか」
ドアを開けると、涼ちゃんと若井が立っていた。
二人とも、変わらない笑顔だったけど、その奥に少しだけ優しさがにじんでいた。
「元貴、大丈夫?無理してない?」
「顔色、昨日よりマシだな。……でも、まだちょっと眠そうだな」
若井がにやりと笑う。
涼ちゃんは、手に紙袋を下げていた。
「ほら、朝ごはん代わり。昨日焼いたスコーンと、温かいハーブティーも持ってきたよ」
「……ありがとう。なんか、すごく嬉しい」
家に入ってもらって、3人でテーブルを囲む。
久しぶりにこうして笑っている時間が、少し不思議だった。
つい最近まで、ベッドに寝たきりだったなんて信じられないくらい、
空気が穏やかで、優しかった。
「元貴、まだ本調子じゃないんだから、今日も作業は少しだけな」
若井が言うと、涼ちゃんも頷いた。
「うん、今日はちょっとした打ち合わせだけ。無理はさせないよ」
「ありがとう、二人とも……なんか、ほんとに」
言葉が詰まった。
なんて言えばいいのか分からなくて、手にしていたカップをぎゅっと握る。
「ひとりで倒れたあの日、すごく怖かったんだ」
ぽつりと零したその言葉に、二人は黙って耳を傾けてくれた。
「動けなくて、声も出せなくて……でも、誰にも頼りたくなくて。
そうやってひとりで全部抱えてたの、すごく愚かだったなって、今になって思う」
カップの中で、ハーブティーの香りがゆらゆらと立ち上っていた。
その香りが、今の自分に優しく寄り添ってくれる気がした。
「でも、二人が来てくれて、僕のこと見つけてくれて、本当に救われた。
ありがとう。……ほんとに、ありがとう」
涼ちゃんが、そっと笑った。
「元貴が無事で、ほんとによかったよ。
あのとき、変だって思ってよかったって、心から思ってる」
若井も、腕を組みながらうなずく。
「元貴が倒れてもなお、連絡してこなかったことに関しては一生ネタにするけどな」
「……それ、感謝の気持ち消えるやつじゃん」
「いいんだよ、それで笑ってくれるなら」
そう言って、若井は少しだけまぶしそうに笑った。
僕も、なんだか胸の奥があたたかくなって、小さく笑い返す。
それから数時間、ゆっくりと作業をした。
音楽を流しながら、少しだけ歌詞を確認したり、新しいアイデアを出し合ったり。
特別なことはしなかった。
ただ、“いつもの僕たち”を少しずつ取り戻していく時間だった。
夕方になって、二人が帰る時間が近づく。
玄関先で涼ちゃんが振り返った。
「無理しないでね。またすぐ来るから」
「明日も顔色チェックしに来るからな」
「はいはい……ありがとう。ほんとに」
二人の背中が見えなくなるまで見送って、
僕は静かに部屋に戻った。
窓の外は、夕焼けが街を赤く染めていた。
少しずつ、世界が夜に向かっている。
でも、怖くない。
僕は、もうひとりじゃない。
もしまた何かがあったとしても、ちゃんと声を上げられる気がする。
頼ってもいいんだって、そう思えるようになった。
部屋の真ん中で立ち止まり、そっと息を吐いた。
「……ただいま」
誰にでもなく、静かにそう呟いた。
この言葉は、僕自身へ向けたもの。
ひとりで抱え込んだ心に、やっと帰ってきたような気がした。
どこかで、携帯の通知が鳴った。
涼ちゃんからのメッセージだった。
『今日の紅茶、合ってた?明日また違うの持ってくね』
その後すぐに、若井からの追撃。
『スコーン、俺の分は!?って思った。次は俺んち集合な』
画面を見ながら、また小さく笑った。
明日もきっと、この笑顔が続いていく。
少しずつ、日常が戻ってくる。
大丈夫。
僕は、ちゃんとここにいる。