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その日、志麻は堀沿いの道を急ぎ足で歩いていた。両替商で父の送ってくれた為替を換金した帰りである。女だてらに若衆姿で刀を差しているので嫌でも人目につく。
「門前町の茶店で柏餅買って帰ろ」
呟いた時、前方の橋の上が俄に騒がしくなった。夕暮れで人の往来も多くなった時刻である。
「痛てててて、何しやがる!」
「武士の懐を狙ったとあってはそれなりの仕置きをしなければならぬな」
若い男の腕を捻り上げながら武士が言った。男の手には分厚い紙入れが握られている。
「離せ!離しやがれ、このサンピン!」
「離せんな」
武士は男を引っ張って橋の右側に連れて行くと、紙入れを取り上げ、捻り上げた手を欄干に乗せた。
「な、何を・・・」
言い終わらぬうちに、男の手の甲に小柄が突き立った。
何とも言えぬ悲鳴が上がった。通行人も驚いて立ち止まり眉を顰めている。
「これで悪さはできまい、さて、これからどうするか?」
「ううううう・・・」
欄干に手を串刺しにされたまま男が呻いた。
「待て!」志麻が走り寄った。
「誰だお前は?」
「懐を狙ったのはそ奴いつが悪い、だけど何もそこまでしなくていいじゃない!」
「余計な口を挟むな、怪我をするぞ」
「こんな事黙って見過ごせない!」
そうだそうだと野次馬から声が飛ぶ。
「ふん、威勢の良い小娘だが、儂を江戸随一の剣客、草壁監物くさかべけんもつと知っての横槍か?」
「何ですって・・・」志麻の顔から血の気が引いた。
「ほう、儂の名を知っておるようじゃの」
「お前が草壁監物・・・?」
「最前からそう言うておろうが」
志麻が刀の柄に手を掛けた。
「草壁監物、尋常に勝負しろ!」
「何?」
「一年前、誓願寺門前の茶店でお前に斬り殺された桐山権太夫を忘れたか!」
「一年前?・・・はて、そんなことがあったかのぅ?」
「とぼけるな!」
「ふん、儂の刀にかかった奴は数知れぬ、一々覚えていられるか」
「き、貴様!」
「抜け、暇潰しに相手をしてやろう」
うぬっ!と歯噛みして志麻が刀を抜いた。
オオッ!と声を上げ、遠巻きにしていた野次馬が更に輪を広げる。
「叔父の仇、覚悟!」
気合いもろとも志麻が斬り込んだ。監物は刀を抜きもせず身を躱す。
監物の影を追って突きを放つ。高い金属音がして刀が戻ってきた。
鉄扇だ。監物が手に持った鉄扇が志麻の突きを弾き返したのだ。
「くっ!」
腕が痺れて動けなくなった。
ビシッ!と肩を打たれ顔が歪む。鉄扇を鼻先に突き付けられた。
「どうした、もう終わりか?」
監物が不敵に笑った。
今まで遠巻きにしていた群衆が騒ぎ始めた。
「何だ何だ、敵討ちだと?」
「あの娘が健気にも親の仇を討つんだと」叔父が親になっている。
「姉ちゃん頑張れ!」
「侍ぇ、弱い者いじめはみっともねぇぜ!」
「そうだそうだ、江戸っ子は弱ぇ者の味方だぜ!さっさと討たれっちまえ!」
取り囲んでいた野次馬が野次を飛ばすが監物は鼻で笑った。
「おわっ!何だ何だ、そりゃ売り物だぜ!」胡椒こしょう売りの棒手振りが慌てた声を出した。
「すまねぇ、お代は後だ!」
欄干に縫い付けられていた男が、いつの間にか胡椒の袋を手にしていた。
「サンピン!」
男の声に監物が振り返った。
「喰らいやがれ!」
監物の顔目掛けて思い切り袋を投げつける。
鉄扇で弾かれた袋が破れて胡椒が飛び散った。監物が顔を覆って片膝をついた。
「おのれっ!」
「へん!暫くは目が見えねぇだろうよ!」
男が志麻の手を取った。
「嬢ちゃん、逃げるぜ!」
志麻は何が何だか分からなくなって、男に引かれるまま走り出した。
*******
一刀斎。本名、年齢、共に不詳。
いつも着流しの帯に大刀一本ぶっ込んでいるので、誰言うともなく一刀斎と言い習わされるようになった。
どう見てもうだつの上がらぬ浪人者で、傍目には三十路くらいだと推察される。
年中無精髭を生やしていて、お梅婆さんなどは髭さえ剃りゃちったぁまともになるのに、と憎まれ口を叩く。
一刀斎の住む蛇骨長屋は、門前町を下って東へ進み、伝法院に突き当たった西の先にある。
通りに面した二階建ての表長屋には、町人が商売を営んでおり、その表長屋に挟まれるようにして木戸があった。此処を入れば、その日暮らしの職人や行商人などの住む裏長屋である。
いつの頃からか一刀斎はこの長屋に住みついている。
「一刀斎、居るか?」
いきなり入口の引き戸が開いて、白髪頭が覗いた。髷が申し訳程度に乗っている。
「何だ、子泣き爺か」
「粉挽慈心こなびきじしんじゃ、相変わらず失礼な奴じゃ」
「何の用だ?」
「暇か?」
「見りゃ分かるだろう、忙しい奴がこんな時間に家に居るかよ」
一刀斎の憎まれ口を無視して、老爺が中に入って来た。
「なら、わしの商売を手伝え、分け前は六・四でどうだ?」
「俺が六分か?」
「たわけ、何処の世界にサクラに六分も払う奴がいる」
「じゃあ五分五分」
「ふん、他を当たる」
慈心がサッと踵を返す。
「待て・・・全く強欲な爺いだ」
「六・四で良いな?」
「ああ」
「じゃあ、後でな」
*******
「ここだな」
貧相な歌舞伎門を潜ると、建物の傍に共侍や挟箱持ちの小者が所在なげに佇んでいた。
一刀斎はそちらにチラと目をやると、入り口の前に立った。
「頼もう!」
大声で訪おとないを告げた。
奥からは盛んに竹刀を打ち合う音が聞こえて来る。
「割と繁盛しているようだな」
一人言ちていると稽古着を着た髭面の男が出て来た。
「何だお主は?」
「ここは最近売り出し中の道場かい?」
「要件を言え」
髭男はムッとした顔で言い返した。
「腕試しに来た」
「何?」
「俺も多少は腕に覚えがあってな」
「お前のような無頼浪人を相手にしている暇は無い、去いね!」
「ご挨拶だな、さては自信がねぇのか?」
「何を馬鹿な、お前如きうちの初伝で十分だ」
因みに初伝とは入門して初めて貰う伝位である。
「試してみるかい?」
「その手には乗らぬ、あわよくばただ酒にでもありつこうと言う算段か?」
髭男は取り付く島もなく一刀斎を追い返そうとする。
「仕方がねぇ・・・」
一刀斎は刀の鯉口に手を掛けた。
「な、何をする!」
「ここで帰るわけにゃいかねぇんだよ」
一瞬一刀斎の腰間から光芒が走った。
それは瞬きをする間だったが、刀は難なく鞘に納まっていた。
「なんだ、こけ脅しか・・・」
何も起こらず髭男はホッと息を吐いた。
と、いやに下半身がすぅすぅする。
「わっ!貴様儂の袴を!」
「どうでぇ、やる気になったかえ」
「ゆ、許さん!」
「どうしました師範代!」
異変に気がついて弟子達がわらわらと出て来た。
「こいつを生かして帰すな!」
髭男が袴を引き上げながら叫んだ。
「そう言うこった、上げてもらうぜ」
一刀斎は呆気に取られる弟子達を押し退けて、ずけずけと道場に上がり込んだ。
*******
「随分と表が騒がしいようじゃが?」
粉引慈心は供された茶を飲む手を止めて首を向けた。
昼間一刀斎を訪ねた時とは全く違う、上等な衣服を身に付けている。
「また、道場破りでも来たのでしょう。なぁに弟子達に任せておけばすぐに追っ払いますよ」男が慈心の心配を嗤うように言った。「何せこの道場の実力は江戸でも五本の指に入りますからな」
『嘘をつけ、こんな道場、江戸には掃いて捨てるほどあるわい』慈心は腹の中で呟いた。
「さすがですな。それでこそ我が藩の剣術指南役としてお迎えするに相応しい」
「そう言って頂くと恐れ入る、貴殿からも殿に宜しくお取り成し願いたい」
「まぁ、大船に乗ったつもりでお任せなされ猪野殿、この儂に任せておけば悪いようには致さぬ」
「どうぞ良しなに」
猪野がそう言って頭を下げた時、道場から只ならぬ喧騒が伝わって来た。
「何事だ!」猪野が片膝を立てた時、弟子が慌てて駆け込んで来た。
「先生、道場破りです!」
「何を慌てておる、客人の前だぞ!」
「そ、それが・・・かなりの手練れで」
「今日は高弟達が揃っているであろう」
「その高弟の皆様が全員・・・」弟子は言葉尻を濁した、猪野の立場を慮おもんぱかっての事である。
「分かった今行く!」猪野は慈心に向き直った。「暫しお待ちくだされ、すぐに片付けて参ります」
「貴殿の事だから、よもや遅れは取るまいが、もし破れたら・・・」
「分かっております」
猪野は蒼白になって座敷を飛び出して行った。
*******
「もう終わりかい、ちっとばかし食いたりねぇな」
床には高弟達が転がって、うんうんと唸っている。
「誰だその方!」猪野が道場に足を踏み入れるなり怒鳴った。
「やっと真打登場か」
「弟子をこのような目に合わせて、ただじゃおかぬぞ!」
「そりゃありがてぇ、やっと手応えがありそうな奴が出てきたぜ」
猪野は壁の刀掛けから木剣を鷲掴みにした。
「どこからでもかかって参れ!」
「では遠慮無く」
言うが早いか一刀斎が踏み込んだ。猪野の首めがけて木剣が飛ぶ。
猪野はギリギリで受け止めると鍔迫り合いに持ち込んだ。
一刀斎がグイと力を込めて猪野を壁際まで押し込み、視線を絡ませる。
『こやつ強い』猪野は胸の中で舌を巻いた。
「切り餅四つ」一刀斎が小声で囁いた。
「なにっ!」
「でけぇ声出すなよ、おめぇも俺に勝てねぇこたぁ分かってんだろ」
「き、貴様・・・」
「一度離れろ、怪しまれる」
一刀斎が押し込むと猪野はスルリと身を躱して間合いを取った。
今度は猪野が打って出る。受け止めて再び鍔迫り合い。
「切り餅二つだ」猪野が囁いた。
「よし、決まった」
「足元を見よって」
猪野が突き飛ばすと一刀斎の足がもつれて尻餅をついた。
間髪を入れず猪野が木剣を打ち下ろす。
「参った!」木剣を捨てた一刀斎が掌てのひらを猪野に向けた。
井野の木剣が止まる。
「これほど強いお方とはつゆ知らず、ご無礼のほど平にお許し下され!」
一刀斎が目で猪野を牽制しながら言った。今打たれればさすがに部が悪い。
「は、はは・・・分かれば良いのだ。これに懲りて二度とこのようなことは致すな」
猪野の顔は引き攣っていたが、弟子達に気付く様子は無い。
「お見事!」
いつの間にか慈心が道場に立っていた。
「猪野殿、見事なお腕前、それに加えて何という度量の広さ、某それがし感服致した。殿もさぞお喜びになるであろう」
「そ、そうでありましょうとも。某、決してご期待を裏切る事は無いと誓いましょう」
「うむ、頼もしい。それでは帰って早速殿にご報告致す・・・しからば御免!」
慈心は悠々と道場を出て行った。
一刀斎はまんまと五十両をせしめる事に成功したのである。
*******
「ちょ、ちょっと、どこまで行く気よ・・・」
志麻は男の手を振り解いて肩で息を吐いた。
「もうすぐだ、兎に角暫く身を隠さねぇと」
男は志麻の肩越しに今来た方向を見遣った。
つられて首を回してハッとした。道に血の跡が点々とついている。
「大変、ちょっと見せて!」
志麻が男の右手を掴むと男は顔を顰めた。
「血止めをしなきゃ」
志麻は懐から手拭いを取り出すと細く割いて男の手に巻き付けていった。
「これで良し」
巻き終わると男は右手を繁々と眺めた。
「上手いもんだな」
「当然よ、剣術の稽古をしていたら打身捻挫、擦り傷切り傷は絶えないもの、自然と上手くなる」
「ヘ〜嬢ちゃん剣術やるのかい?道理で奴に向かって行った筈だ」
「だから私に変なことしようとしたら怪我をするわよ」
「そんなこたぁしねぇよ」男は苦笑した。「そういや、叔父の仇だとか言ってなかったか?」
「けど、あんなところで会うなんて予定外だわ」
「予定外?」
「あ、いいの、こっちの話。さ、行きましょ」
「あ、ああ、俺は銀次、仕立屋をやってる」
「え、掏摸すりじゃないの?」
「ありゃ裏の家業さ、表向きは仕立屋だ」
「そう、私は黒霧志麻、訳あって江戸に出てきたの」
「訳って仇討ちか?」
「表向きはそうなんだけど・・・微妙なところね」
「お互い裏があるんだな」
「私のはそんな疾やましいものじゃないわよ」
「そうかい」男はニッと笑った。
よく見るとなかなか良い男だ。細縞の渋い単衣を粋に着こなしている。志麻より三つ四つ年嵩のようだ。
「お礼言ってなかったわね。助けてくれてありがとう」
「いや、こっちこそ助かった。礼を言うぜ」
「これでお相子ね」
銀次が頷いた。
「もう少しだ、急ごう」
「ええ」
*******
「馬子にも衣装たぁあの事だな」一刀斎が大仰に笑った。「あの衣装どうしたんだ?」
「損料屋で借りた」慈心が無愛想に応える。
損料屋とは、いろんなものを貸している商売で、鍋釜から褌まで何でも貸す。
「家老たぁ言わねぇが御目付役くらいには見えたぜ」
「当たり前だ、儂だって元を正せば由緒正しき上士の家柄だ、家老の真似だってやろうと思えばやれる」
「そりゃお見それした。そんな事より分け前を貰おうか、俺は四分だから二十両だな」
「馬鹿を言え、お前も見ただろう、家来と小者それに衣装代も合わせて三両がとこ持って行かれた、分前はそれを差し引いた残りからだ」
「チェッ、しっかりしてやがる」
「ふん、あんな大芝居そうそう打てるもんじゃない。道具立てに拘こだわらなきゃ上手くは行かぬ」
「まぁ良いや、これで溜まった家賃も払えるし暫くは遊んで暮らせる。明日は長屋の連中に戻り鰹でも奢ってやろうか」
「やめとけ、癖になる」
「俺ぁ宵越しの金は持たねぇ主義だ」
「勝手にしろ」
その時、バタバタとドブ板を踏んで駆けてくる足音がした。
「一体ぇどこのどいつだ、あんなに強く踏んじゃ腐れたドブ板を踏み抜くぞ」
言う間も無く、一刀斎の家の引き戸が乱暴に開けられた。
「一刀斎の兄ぃ、暫く匿かくまってくれ!」
「銀次か・・・なんだお前ぇ怪我してんのか?」
「そんな事はどうだって良いんだ、それよりこいつを預かってくれ」
銀次が志麻の背を押して中に入れた。
「銀次、お前また妙な趣味に走ったか?そいつは若衆だろ?」
一刀斎が志麻を見て言った。
「失礼ね!私は歴とした女です!」一刀斎を睨みつける。
「こりゃたまげた、女にしちゃ色気がねぇ」
「な、何ですって!」
「まぁまぁ、抑えて抑えて」銀次が志麻を宥なだめにかかる。
「銀次、兎に角訳を話してみろ」慈心が見兼ねて言った。
「実は・・・」銀次は自分が監物を狙った経緯から順序立てて説明した。
銀次が話し終えると慈心が唸った。
「それはまた奇な事であるな。いきなり仇に出会うとは」
「それよりその草壁監物って奴ぁ厄介だな、今の江戸で奴の右に出る奴はいねぇ」
「本当かい、兄ぃ」
「本当だ、俺でも危ないかも知れねぇ」
「えっ、兄ぃより強ぇ奴が世の中にいるのか!」
銀次の驚きようが尋常で無いので、志麻はつい訊いてしまった。
「あのおじさんそんなに強いの?」
「馬鹿、お前剣術やってて分からねぇのか?兄ぃの只ならねぇ気配が」
「分からないわよ、私には只のおじさんにしか見えない」
「お前ぇなぁ、さっきからおじさんおじさんって。俺ぁまだ三十路前だ」
「あら、立派なおじさんじゃないの」
「ち、違いない。一刀斎、お前もこの娘にかかっちゃ形なしだな」
慈心が奥歯を噛んで笑いを堪えている。
「ふん、良いさ。俺の強さを知りてぇなら、いつでも打ち掛かって来な」
「え、いいの?」
「二、三日は隣のお梅婆あに預かって貰う、その間に俺から一本取ることができりゃ、ひょっとすりゃ仇を打てるかもな」
「よぉし、見てらっしゃい」
それから三日、志麻はお梅の家に世話になったのだった。その間幾度となく一刀斎に挑んだのだが悉く打ちのめされた。そこで志麻は心を決めたのだ、宿を引き払ってこの長屋に越して来る事を。兎に角一刀斎に一矢報いることが出来なければ仇打ちどころじゃない。
*******
「一刀斎覚悟!」
何故わざわざそんな事を言うのか理解に苦しんだ。黙って打ち掛かって来れば良いのに。
添い寝させていた愛刀を鞘ごと一閃させる。わっ!っと声がして枕屏風が倒れる音がした。
「お前なぁ、なんでいつもいつも声を掛けるんだ?黙ってやれば良いじゃねぇか?」
肘枕で寝転んだまま薄目を開ける。薄桃色の小袖に濃紺の袴を穿いた志麻が立ち上がるところだった。
「だって、それじゃ卑怯だと思って・・・」
「馬鹿、闇討ちに卑怯もクソもねぇじゃねぇか、ちったぁ考えろ!」
一刀斎は畳に身を起こして胡座あぐらをかいた。
「お前ぇは女にしとくには勿体ねぇほどの腕前だが、相手は江戸一の使い手だ、尋常に勝負したって勝てる相手じゃねぇ。だったら闇討ちしかねぇつったのはお前ぇだ」
「そう、だから一刀斎を練習台にして・・・」
「もう何度も失敗してんだろ、そろそろ諦めちゃどうなんだ?」
志麻は腕組みをして小首を傾げた。
「そうなのよねぇ、第一仇討ちって言ったって大っ嫌いな親戚の叔父さんの仇なのよね、一応仇探してますって言う体面を作っとかなきゃ格好がつかないって言うんで私がやることになったんだけど、いきなり出会うなんてビックリだわ」あっけらかんと宣のたまった。
黒霧志麻くろきりしまの父は津つ藩十万石の番頭役、百五十石の中級武士で祖父が死んで家督を継いだ。部屋住の弟がいたのだが、縁あって鳥羽藩の上級武士の家に養子に出た。それは志麻がまだ生まれる前の事だ。
この時代、長男以外は養子に出るか婿養子に入るかしなければ一生部屋住の冷や飯喰いだ。
その叔父が家格の高い上士の家に養子に入ったものだから、事ある毎に志麻の父を低く見る。
志麻が大きくなってからも度々現れて嫌味を言って帰っていった。
そんな叔父が去年江戸勤番となった。勤番とは殿様が江戸に居る時だけ江戸に住む単身赴任の武士であり江戸の事情に疎い。その為、江戸の庶民からは野暮な田舎侍として軽く見られていた。
ところが田舎武士は頭が古い。花のお江戸でも国元と同じように振る舞おうとする。
威張り腐って百姓町人を見下すのがもっぱらだ。
志麻の叔父も御多分に洩れず、茶屋の娘を頭ごなしに叱りつけた。
曰く、茶がぬるいの餅が硬いのと身分を笠に着て言いたい放題だったと言う。
これを聞き咎めた武士と口論になり、斬り殺されたと言うわけだ。何ともカッコ悪い最期ではないか。
しかしそこは武士の社会、仇討ちを果たさなければ家中の良いもの嗤わらいとなる。
そこで養子先は叔父を離縁し、仇討ちを黒霧家に押し付けて来た。
同格の家柄なら文句も言えようが家格の違いはどうしようもない。父は泣く泣くそれを了承したが、気の弱い父は剣の腕もからっきしだ。困り果てた父は志麻に白羽の矢を立てたのであった。
日頃から武術を好み、藩の道場でも敵う者のない志麻ならば、その役目に打ってつけと言う訳だ。
だが、父も本気で志麻に仇を討たせるつもりは無かったらしい。
暫く仇を討つ振りさえしておれば良いと言う事だったので、江戸暮らしが出来るのなら、と二つ返事で請け負ったのだが・・・
「じゃあ、何で今頃やる気になったんだ?」
「仇の方から目の前に現れたのよ、行きがかり上しょうがないじゃない。それに藩のお目付けからお達しがあって仇討ちを急げってさ」
「何でだ?」
「最近藩の気風が乱れて軟弱な侍が増えたから、ここらで引き締める必要があるんだって」
「ヘ〜難儀なこった」
一刀斎は右の口角を上げて皮肉な笑い方をした。
「笑い事じゃないわよ、一刀斎!」
志麻が木剣を振り上げて打ち掛かった。
一刀斎が柄を振って軽く去いなすと、勢い良く壁にぶつかって長屋中ががズズンと揺れた。
「何やってんだい!ここは剣術の道場じゃないんだよ!」
隣から怒鳴り声が聞こえた。
「ほら見ろ、隣の婆さんが怒ったじゃねぇか」
こんな棟割り長屋の薄い壁じゃ、話し声だって筒抜けだ。
「お梅婆ちゃんゴメン、つい本気になっちゃった!」
「お志麻ちゃん、あんたもあんただよ、女の身で仇討ちなんて若い娘のやるこっちゃないよ!」
「私もそう思うんだけど、なかなかそうも行かないのよねぇ」
「お武家の世界も大変だねぇ。まぁいいや、里芋の煮っ転がし、余分に作ったから夕飯食べにおいで」
「えっ、いいの、ありがとう!」
「婆さん、俺もいいかな?」
「あんたはお断りだよ、振り売りから大根の尻尾でも売ってもらいな」
「ひでぇなぁ、俺が餓死したら婆さんの所為だぞ」
「知るもんか、その方が世の為人の為だ」
「チッ、くそ婆ぁ・・・」
「と、言うわけで一刀斎、またよろしくね!」
志麻は木剣を拾い上げて狭い土間に降りた。振り向いた顔が真顔に戻っている。
「明日は絶対一本取るから・・・」
そう呟くと腰高障子を開けて出て行った。
隣の引き戸を引く音がして志麻の声が聞こえた。
「お梅婆ちゃん、今からちょっと出てくるから夕方来るね」
「ああ、気をつけて行くんだよ」
「は〜い」
ドブ板を踏む下駄の音が遠ざかって行く。
一刀斎はまたゴロンと寝転んで目を瞑った。
*******
「ああ、もう暮れ六つを回ってる。お梅婆ちゃん待ってるだろうな、急がなくちゃ」
用向きが長引いて帰りが遅くなった。志麻は足早に通りを過ぎて行く。
やがて伝法院が見えた、蛇骨長屋の木戸は目と鼻の先だ。
と、寺の山門から見た事のある男が出てきた。忘れもしない草壁監物である。
志麻は咄嗟に天水桶の陰に身を潜めた。
監物は一人でこちらに向かって歩いて来た。さすがに隙が無く、見ているだけで息が詰まるほどの剣気を発している。気配を消してやり過ごす。
ふと監物が歩みを止めた。しまった気付かれたか、と思ったが何事もなくまた歩き出した。
きっと考え事でもしていたのだろう。
「よし、後をつけよう」
隙があれば打ち掛れば良い、それが叶わなければ居場所を突き止めるだけでも後を尾ける価値がある。
志麻はゆっくりと天水桶の背後から抜け出し、距離を置いて監物の後を追った。
*******
ドンドンと壁を叩く音がする。
「何だ婆ぁ、うるせぇぞ!」
一刀斎は手酌で酒を呑みながら、壁に向かって悪態をついた。
「志麻ちゃんそっちに来てないかい?」
「来てねぇよ!」
「おかしいねぇ、夕飯までには帰るって言ってたのに」
「そのうち帰ぇってくるさ、ガキじゃあるめぇし心配すんな」
「だってもう外は真っ暗なんだよ、いくら剣術が出来るって言ったって、まだ十六の娘だよ。心配にもなるさね」
「ふん、お前ぇにとっちゃ孫娘みてぇなもんだからな」
「そうだよ一刀斎、後生だからその辺まで見に行っておくれでないかい?」
「やなこった、俺ぁ今良い心持ちで酒呑んでんだ、銀次にでも頼みな」
「駄目だよ、銀次は夜稼ぎに出ていないんだよ」
「吉原の酔客狙いか、仕事熱心な奴だな、俺にゃ到底真似出来ねぇ」
「そこを何とか頼むよ、後で一升届けるからさ」
一刀斎の言葉が途切れた、何か算段をしているようだ。
「しょうがねぇな、伝法院の先までだぞ」
「行ってくれるかい?」
「里芋の煮っ転がしもだぞ」
「分かった、つけてやるよ」
「んじゃ、行ってくるか」
*******
吉原通いの遊客を避けるようにして、監物は歩いて行く。
浅草田圃と呼ばれるこの辺りは、大遊郭がある場所とも思えぬ静かな場所だ。
大門に続く道筋にある茶店の群れを過ぎると、途端に人影は少なくなった。
日本堤を過ぎたあたりで監物は音無川へと土手を降り始めた。
今は月が雲に隠れて見通しが悪い。志麻は監物の姿を見失わぬように距離を詰めた。
河原に降り立つと監物が振り返った。「おい、いつまでコソコソとついて来る」
志麻は息を呑んだ。
「ここなら人目に付かぬ、存分に相手をしてやろう」
やはり気付かれていた。だが後悔はしていない。
「この前は人目があった故、刀は使わなんだが此処ならお前を斬り刻んでも川に蹴落とせば流れに乗って隅田川だ、誰が殺ったかなんぞ分かりはしない」
「そんな脅しには乗らない!」
「そうか」
監物は刀の鯉口を切るとゆっくりと抜いた。
同時に志麻も抜き合わせると、足場を確かめながら堅物の前に立った。
「叔父の仇、覚悟は良いか!」
「問答無用、かかって参れ」
雲が切れて月の光が河原を照らす。その瞬間志麻の剣がキラリと閃いた。
刃が噛み合って火花が散った。
志麻は凄まじい勢いで剣を振るう。監物は余裕で志麻の攻撃を跳ね返していた。
監物は殆どその場を動いていない。志麻は無駄に動きを重ねていった。
いくら打ち掛かっても志麻の剣は監物に届かない。まるで剣の盾に守られているようだ。
息が切れて目が霞む、汗が顎の先から滴り落ちた。
「ふむ、唆そそるのう、殺す前に楽しませてもらうか」堅物の顔が醜く歪む。
志麻は怖気おぞけで背筋が凍った。
監物が剣を下ろして近寄って来た。志麻は一度身震いをすると裂帛の気合と共に突きを放った。
キン!と高い金属音がして剣が志麻の手を離れた。
監物の剣が首に触れ、そのまま押し倒された。
仇の顔が目の前にあった。
「犯る前に良いことを教えてやろう」臭い息がかかり思わず顔を背けた。
「お前の叔父は儂の狼藉を止めようとしたのだ」
「え?」
「弱いくせに正義感を出しよって、つまらぬ死に方をした」
「で、でも私が聞いたのは・・・」
「死人に口なしよ、ふはははははは」
「この人でなし!」
「なんとでも言え、死んでしまえば口も聞けまい」
監物の手が胸を弄まさぐってきた。志麻は必死で抵抗するが、男の力は如何ともし難い。
志麻は舌を噛む事を覚悟した。
「それまでだ!」
堤の上から声が降って来た。
「お前ぇ、吉原は目の前だというのに、それまで我慢出来なかったのかよ」
「何を、貴様何者だ!」
監物の躰が離れた瞬間、志麻は監物を突き飛ばし土手に逃れた。
「名乗るほどのもんでもねぇ。ただ、野暮な奴が大っ嫌いでね」
「儂を野暮とぬかしたか」
監物が立ち上がって剣を構えた。
「あんた、相当強ぇみてぇだが俺だって強ぇぜ。但し地の利はこちらにある」
その時、駕籠舁きの掛け声が風に乗って聞こえて来た。夜見世の客が吉原に繰り出す所だろう。
「チッ、邪魔が入った。この決着はいずれつけてやる」
監物は刀を鞘に納め、川下から土手を登って堤の向こうへ消えて行った。
「さあ帰ぇろうか、お梅婆さんが待ってるぜ」
「うん・・・」