姑獲鳥がくれた刀
プンと井草の香りが漂っている。
長屋の畳は借家人の持ち込みが尋常だから、思い切って新しいのを入れた。
九尺二間の空間にある物と言えば、水屋箪笥に文机、角火鉢くらいのものである。あとは寝具を隠す枕屏風か・・・これらは全部古物屋で贖あがなった。
それにしてもこの間の事は、思い出すだに忌々しい。監物の手の感触を思い出して虫唾むしずが走る。
監物の口から聞いた真相も衝撃的だった。あの叔父にも良いところがあったんだ・・・
一度も笑顔を見せてやった事が無い。そう思うと叔父の顔が蘇ってきて、自分が悪者になったような気がしてくる。俄然仇討ちが現実味を帯びてきた。あいつ絶対に許さない・・・
しかし今のままでは返り討ちは目に見えている。監物の腕に追いつくには何年かかる?いや、一生かかっても追いつけないかも知れない。闇討ちも駄目となるとどうしたら良いかわからなくなる。いつもここで思考が停止して、また堂々巡りを繰り返す。
長屋には窓が無い。まして棟割ならば両隣と背面は他の住人の居住区だ。
右隣はお梅婆ちゃん、左隣は子泣き爺・・・じゃなかった粉挽のお爺ちゃん。この二人はまるで本当の孫のように可愛がってくれる。銀ちゃんは木戸に近い長屋の入り口に仕事場を兼ねた一軒を借りている。
悔しいけれど、あの日助けてくれた一刀斎はお梅婆ちゃんの向こう側、長屋の一番奥に住んでいて毎日遊び暮らしているみたいだ。厠が近いので少し匂うけれど・・・
この長屋に越してきて正解だった。貧乏人は貧乏人同士助け合って暮らしている。志麻は自分の居場所を得た気持ちだった。
でも、あんな事があって以来、志麻は一歩も出歩かず引き篭もっている。
小さな鏡を覗き込んだ。酷い顔だったけれど、自分の顔である事は間違いないので諦めた。
暗い室内に閉じこもっていると心の中まで闇が染み込んでくるようだ。
思い切って上がり框から足を下ろして、下駄を突っかけて外に出た。
空を見上げると今にも泣き出しそうな空模様だ。
黒雲に誘われるようにして、傘も持たずに歩き出した。
*******
気がつくと音無川の河原に立っていた。あの忌まわしい場所だ。追い打ちをかけるように雨が降り出し、どこかで雷鳴がこだました。ピカッ!と稲妻が走った時、志麻は気を失ってその場に崩折れた。
どのくらい時間が経ったのだろう?目を開けると辺りは暗闇に包まれていた。
雨は止んでいたが、衣服は絞れば水が流れ出るくらいびしょびしょに濡れている。
川の音が耳に纏わり付いた。音無川なのに?と思ってしまう。
目をやると白い背中が目に入った。なぜこんな場所で水浴びをしているのだろう?
立ち上がって近付いた。それは確かに女の背中だった、長い髪を肩から前に垂らしている。
背中しか見えないので何をしているのか分からなかったが、前屈みになって何かを抱き抱えているようだ。
声をかけたが返事が無い。更に近づいてもう一度声をかけた。
「あのぅ、どうされたのですか?」
女が顔を上げたが、相変わらず川の方を見ている。
「大丈夫ですか?」
「来たね・・・」女がくぐもった声で言った。
「来たねって?」
「私が呼んだのさ」
「え?」
女は立ち上がるとゆっくりとこちらを向いた。その姿を見て志麻は心臓が潰れるほど驚いた。
全身血まみれの女が、露わになった乳房を赤子の口に押し当てている。
腰から下は赤い腰巻に隠れているが、血の色と相まってどす黒く変色していた。
それなのに、顔は妖艶なほど美しく微笑みさえ湛えている。
狂人か?・・・思わず後退った。
「は、早く医者に見せなくちゃ・・・」言ったものの足が金縛りにあったように動かない。
「医者は必要ない、この子はもう死んでいる」
「そんな・・・でも赤ちゃんは死んでいるとしても、あなたには必要なんじゃ・・・」
「私も・・・」
「あなたも死んでいると言うの・・・まさか?」
それには応えず、女が言った。
「この前は危なかったな、あの浪人者が来なければあんたも私と同じ運命を辿っていた」
なぜあのことを知っている?しかも同じ運命とは一体・・・
「私はこの場所で手篭めにされ、子を産み、男に斬られて川に投げ捨てられた。そこで助かったお前に一つ頼みがあって呼んだのだ」
「頼みって?」
「仇を討ってほしい。私が果たせなかった事をやって欲しいのだ」
「あなたの仇って?」
「草壁監物」
「えええっ!」
「そうすれば、私とこの子は成仏出来る」
「で、でも私は監物に敵わない」
「だったら良いものをやろう」
「良いものって?」
「妖刀鬼神丸」
「刀?」
「そう、魂を持った刀だ。持った者の力を何倍にもする事が出来る」
「そんな凄い刀を私にくれるの?」
「だがその前に、この子を抱いて欲しい」
「その子を・・・」幽霊の子だ、本当に抱いて良いものか?と志麻は迷った。
「どうだ、できるか?」
「いいわ」
どうせ監物に敵わないのなら、ここで一縷の望みにかけてみるしかない。志麻は両手を女に向かって差し出した。
女は志麻の腕に赤子を抱かせた。
血に染まった赤子は苦しげな顔をしている。
「可哀想に・・・」
暫く抱いて、生きている赤子にするように揺すってやった。
「重くはないか?」女が訊いた。
「ううん、ちっとも」
「そうか・・・」女が手を差し出したので赤子を返す。女の手に移る時、赤子が笑ったような気がした。
「鬼神丸がお前を選んだ」
突然女の姿が消えて陽が差して来た。濡れて凍えた躰がほんのりと暖かくなって行く。
見ると足元に一振りの刀が置かれていた。
*******
「それは姑獲鳥うぶめじゃ」
「姑獲鳥って何でぇ?」一刀斎が慈心に訊いた。
「産後に母子共々斬り殺されたと言う女の幽霊じゃ、確か日本堤辺りに出るという噂じゃ。血だらけの赤子を、抱いてくれとせがむから、抱いてやると石のように重くなるらしい。抱きおおせると宝をくれるが、落としてしまうと喰い殺されると言われておる」
「そんなもんが本当に居るのかよ?『野暮と幽霊は箱根より向こう』って言うだろが」
「居るわよ、だって私が会ったんだもの」
「信じられねぇな、夢でも見たんじゃねぇか?」
「じゃあ、この刀は何なのよ。私が盗んだとでも?」
「そうは言わねぇが・・・」
志麻の差し出した刀は黒柄、黒鞘の何の変哲も無い拵えだった。
「抜いてみて良いか?」
「どうぞ」
一刀斎は受け取って目の上に掲げ刀を敬した。
静かに鯉口を切り、棟を鞘の内側に沿わせるようにしてゆっくりと引く。
碧い光を放つ刀身が現れた。息をかけぬように光に翳す。
「二尺二寸くれぇか・・・随分と研ぎ減って軽くなっている、女のお前ぇには丁度いい差料さしりょうだな」
一刀斎は刀を鞘に納めて志麻に返した。
「俺にゃ特に妖気のようなものは感じられねぇが、良い刀にゃ違ぇねぇ」
「でもあの女の人が言ってた、持つ者の力を何倍にもするって」
一刀斎は腕を組んで考え込んでいる。
「よし、一丁試してみるか」
「え、試すってどうやって?」
「決まってんじゃねぇか、俺と太刀合うのよ」
「そうか、一刀斎と太刀合って勝てば、私の言ったことが証明されるのね」
「そう言うこった」
「でも、一刀斎に怪我させるんじゃ・・・」
「俺を甘く見るんじゃねぇ、妖刀如きにやられてたまるか」
「でも・・・」
「うるせぇ、とっととその刀を持ってついて来い」
一刀斎は愛刀を掴むと、雪駄を突っかけて引き戸を引いた。
「行くぞ」
志麻も鬼神丸を帯に差すと一刀斎の後を追った。
「どれ、儂も商売に出向くとしよう」
慈心は立ち上がって腰を伸ばした。
*******
「この辺で良いだろう」一刀斎は人影の無い沼の辺ほとりで足を止めた。「いくら試しだっつっても真剣で斬り合ってりゃ人が驚くからな」
「ねぇ一刀斎、本当に良いの?怪我したって知らないよ」
「馬鹿野郎、何度も同じこと言わせんじゃねぇ、俺は妖刀なんぞに負けやしねぇ」
「そお、だったら遠慮はしない、今までの分まとめて返してあげるからそのつもりで」
「おう、望む所だ」
一刀斎と志麻は、三間の間合いをとって対峙した。
互いに正眼で相手の出方を待った。
「おい、どっちかが攻めなきゃ始まらねぇんじゃねぇか?」
「い、一刀斎から来てよ、何が起こるか分かんないんだから」
「それもそうだな、ちゃんと受けろよ」
「言われなくたって受けるわよ、命が掛かってるんだから」
「そうだな」一刀斎が間合を詰めた。「行くぞ!」叫ぶと同時に真っ向から剣を振り下ろした。
志麻の剣が掬うように上がってそれを受け止める。キャッ!と悲鳴を上げて志麻が尻餅をついた。一刀斎の打ち込みに耐えられなかったようだ。
「おい、ちゃんと受けろ、危ねぇだろうが!」
「ごめん、もう一度お願い」
「よし、立て」
今度は志麻が打ち込んだ。一刀斎が受け流すと志麻がタタラを踏んでツンのめる。
一刀斎の剣がその背中を断ち割った・・・もちろん寸前で止めたのだが。
「もう一度!」
もう一度、もう一度と志麻は言い続ける。しかし何度打ち合っても変化は起きなかった。
とうとう、志麻の息が上がって、死にかかった金魚のように口をぱくぱくさせている。
一刀斎が一歩下がって剣を引いた。
「やめだやめだ、これじゃいつもと同じじゃねぇか」
志麻が地面にへたり込んだ。
「やっぱり夢でも見たんだろうぜ。その刀は誰かが捨てて行ったんだろうよ」
こんな良い刀を捨てる馬鹿はいない、と思いながら志麻は反論出来なかった。
それは一刀斎も分かっているのだろうが、何も起こらないんじゃ言いようがない。
「諦めな・・・俺は帰るぜ」
後も見ずに一刀斎は踵を返し立ち去った。
「やっぱり夢だったのかな・・・」
志麻は落胆で暫く動けなかった。
「刀をあてにした私が悪い!」
自分を叱咤するように言って志麻は立ち上がった。
「また一刀斎に稽古をつけてもらおう」
足を踏み出した時、背後の草むらから声がした。
「姉ちゃん一人かい?」
遊び人風の男が三人、薄笑いを浮かべてこちらを見ている。
「身包みぐるみ脱いで置いて行きな、最もその前に楽しませてもらうがな」
またか!なんで男という生き物はこうも節操がないのだろう。
志麻の体内から沸々と怒りが込み上げて来た。
「その刀も良さそうじゃないか、売れば良い金になるぜ」
「誰がお前達なんかに渡すものか!」
「生きのいい娘だな、強情張ると怪我するぜ」
男の一人が長脇差を抜いた。
「軽く手足を斬って動けなくしな。間違っても殺すんじゃねぇぜ」
こいつら私を舐めている、藩の道場で敵う者の無かった私だ、刀の力がなくたってこいつらくらいは何とかなる。
志麻を軽く見て、片手で腕を狙って斬ってきた長脇差を抜き打ちに跳ね上げ、返す刀で袈裟懸けに斬り下げた。
大仰な悲鳴を上げて男が仰向けに倒れた。
「こいつ、やりやがる!」
慌てた二人が同時に抜いた。一人がサッと志麻の後ろに回る。
さすがに喧嘩慣れしているようだ。
「手に余るようなら殺っちまえ!」目の前の男が言った。
志麻はその男めがけて突っ込んで行った。
男の長脇差が届く前に、志麻の躰は懐深く入っていた。
「しまった!」
突きが男の腹を突き通していた。刀を抜く前に背中をやられる。
「死ねっ!」
振り返る間も無く太刀風を感じた。
「え?」
何の抵抗も無く刀が抜けた。否、自分から抜けて飛び出して行った。
気が付くと後ろの敵は、股下から顎にかけて断ち割られて断末魔の叫びを上げていた。
辺りが急に静かになって、志麻の頭の中にも透明な空気が流れ込んで来た。
「なに、今の?」
そして一つの答えが浮かび上がった。
「そうか、私の命が本当に危なくなった時だけ、この刀は力を貸してくれるんだ」
刀身を太陽に翳して見た。刀は元のまま、引け傷一つ付いてはいなかった。